真紅の誓い
ユノは一人でぼんやりと湖を眺めていた。
遠くから子供のはしゃぐ声が聞こえる。
ここは森に囲まれて世界から切り離されたような場所だが、それだけに幸福で満たされていた。
争いもなく、略奪もなく、暴力から最も遠い。まさに理想郷。
なるほど、レグはお優しい王様だ。
ユノは口元に嘲笑を浮かべ、抱きかかえた膝に顎を乗せた。
あれからユノは気が参ってしまって、数日寝込んでしまった。
今も無理をする必要はないとフェリに説得され、子供達の勉強はフェリが、遊び相手はシャオラがしてくれている。
ユノはとても恵まれている。
しかしこの出会いのすべてが、本来はユノに与えられるものではなかった。
今この場所にいるはずだったのは、ユノの姉だ。
この世で一番嫌いで、おぞましくて、憎いあの女。
かつてユノは、姉からの気まぐれな施しを拒むことはなかった。しかしパンを分け与えられるのと人生を分け与えられるのでは、まるで話が違う。
受け入れたくなんかない。あんな中途半端で出来損ないの女がこの場所に立っていたかもしれないなんて。
ユノは姉よりもずっと努力してきた。
それなのに、一番譲れないものを奪っていったのはあの女だった。
アルベルトに愛されていたのは、あの女だった!
「っ……!」
左肩をぎゅっと握りしめて、唇を噛む。
アルベルトは三日月の夜に数日留守にすると言って出掛けたきり、戻って来ていない。
もう戻って来ないつもりに違いないとユノは思っていた。
アルベルトがずっと恋焦がれていた相手は、ユノじゃなかったのだから。
それなのに、会いたいと思ってしまう。
アルベルトに会いたい。抱きしめたい。もう一度笑いかけてほしい。そんなことを望む資格は、ユノにはないというのに。
諦めることが出来ない。どうしようもなく惹かれてしまう。
あの日、ユノを救ってくれたのは確かにアルベルトだったから。
アルベルトがユノを救ったのはただの人違いだったとしても、あの日のことをなかったことには出来ない。
そのとき、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。
フェリかシャオラだろうと思って肩越しに振り返ったユノは、予想外の相手に軽く目を見張った。
ユノを見据える赤眼は、気不味そうにはにかんだ。
「……ユノ」
躊躇いがちに名前を呼んだアルベルトは、ユノから少し離れた場所に片膝を突いた。
「アルベルト……どうして……」
「まずは、謝罪をさせてください。貴女を……深く、傷付けてしまいましたから」
あんなことがあってなお優しい態度をとるアルベルトに、ユノは居心地の悪さを感じて顔を背けた。
「……謝るなら、あたしの方でしょう。あなたはあたしに騙されていたようなものなんだから」
あれから色々考えた。どうすることが自分のためで、アルベルトのためになるのか。
手放すべきなのだと、答えはすぐに出た。
アルベルトが望んでいるのは、ユノではない。
それなのに、アルベルトを前にすると愛しさが溢れて止まらない。ユノにとってアルベルトは、失いがたい光だ。
しかしアルベルトにとっての光とは、ユノではない。
ユノは悩んで、口にすることにした。
「…………死んだわ、あたしの姉。残念だったわね、人違いで」
気分がいくらか落ち着いて、ユノはアルベルトと目を合わせた。
ふ、と微笑む。
「それであたしは、もう用済み?」
「ユノ……」
「いいのよ、あなたは何も悪くないんだから。怒ってなんかない。……だからもう、やめにしましょう」
アルベルトが受け入れ難いように、ユノも姉の恩恵を素直に受け取ることは難しい。
お互いに相手を見るのが苦しいのだったら、もう、終わりにした方がいい。もう十分、幸せな夢を見た。
ユノは膝に顔を埋めた。これ以上アルベルトの顔を見ていたら、未練が出てきてしまう。
早くどこかに行ってほしいのに、アルベルトはその場から動こうとしなかった。
「……私の話を、聞いていただけませんか?」
「嫌よ。あたし達はもう終わり。これ以上話すことなんてある?」
「私にはあります」
アルベルトの声を聞くことさえ苦しいはずなのに、もっと聞きたいと思ってしまう。
もっと側にいてほしい。アルベルトを縛り付けたい。そう思ってしまう自分が嫌だ。
ユノが押し黙ると、肯定と受け取ったアルベルトは話し始めた。
「私にとってあの日の記憶は、何にも変え難い光でした。まだ私が何者でもなかった時代だったことが、とりわけ特別に思えたんです。あのひとは赤眼がどういう存在かも知らずに、私を助けてくれました」
アルベルトの言葉に、ユノは左肩をぎゅっと押さえた。
ユノも同じだ。あの日誰かも知らないアルベルトに大火傷を治してもらったことが、何にも変え難い光になった。何者でもない時代だったからこそ、特別だった。
だからこそよくわかる。
他の誰も代わりにはなれないことが。
「もういい……」
ユノは目頭が熱くなって、膝に顔を擦り付けた。
「もうやめて。これ以上、あの女の話をしないで……」
涙が声に滲む。
これ以上は耐えられそうになかった。
「……すみませんでした。貴女はずっと、私の側にいてくださったのに。私は貴女を……ユノを、きちんと見ていなかった」
アルベルトはユノのすぐ側まで近寄った。しかし、触れてくることはなかった。
いつもそうだ。アルベルトは嫌になるくらい優しくて、紳士的で、俗物的な欲望とは無縁にある。
どうせなら一度だけでも、アルベルトの欲情した姿を見てみたかった。刹那的にでも、アルベルトに求められてみたかった。
そんな願いは、もう二度と叶わない。
「もういい……もういいから……」
「よくなどありません。許されるのなら……まだ間に合うのなら、もう一度……私はユノとやり直したい」
驚いて顔を上げると、アルベルトは柔らかく微笑んだ。
この数日間、その笑顔がずっと見たかった。
「貴女の涙を、私が拭ってもよろしいですか?」
ユノは歯を食いしばった。
そうしなければ、もっと涙が溢れて止まらなくなってしまう。これ以上醜い姿を見せたくなかった。
「…………あたしは、見ず知らずの人にパンを分け与えるような、そんな女じゃない。もしあなたが出会ったのがあたしだったら、きっと助けてなんてないわ。あたしは、そういう女なのよ」
目を擦ると、ひりりと痛んだ。
もう十分に泣いたと思っていたのに、涙が溢れて止まらない。
「ユノは、こんな場所にまで着いてきてくださいました。どうしようもなくなった私を、何度も励ましてくれました。誰が何と言おうとも、貴女がご自身をどう評価しようとも、貴女は逞しくて美しい──私の自慢の妻です」
「っ、うぅ……!」
堪らずボロボロと涙を溢れさせると、すっとアルベルトの手がユノの頬を拭った。
それでも止まらない涙に、アルベルトはユノの目尻に唇を押し当てた。そのとき軽く舐められて、ユノは弾かれたように顔を上げる。
「あ、アルベルト……今の……」
驚いて涙を引っ込ませたユノに、アルベルトは悪戯が成功したように笑った。
「キスではありませんよ。貴女の涙を、舌を使って拭ったのです」
相変わらずちゃっかりとしたことを言ってのけるアルベルト。
その変わらなさに、ユノはクスッと噴き出した。安心したからか、また涙が出てくる。
姉のことは許せない。姉のお陰でアルベルトと出会うことが出来たなんて、そんなの到底受け入れられない。
それなのに、それ以上に、アルベルトのことが愛しい。
アルベルトに柔らかく微笑みかけられるだけで、ユノは簡単に幸福になれた。
「ユノ。貴女に渡したい物があるんです」
そう言って、アルベルトはユノの前にパッと真紅のバラを一輪出してみせた。まるで手品のようで、ユノは目を瞬かせる。
「野薔薇ですが、貴女に差し上げたかったんです」
「……ずっと、これを探していたの?」
「ええ。数日もかかってしまい、情けない話ですが……」
ユノは口元を手で押さえた。
この数日間、アルベルトもまたユノのことを考えてくれていた。それだけでもう十分だった。
ユノがバラを受け取ると、アルベルトは頬を緩めた。
「手を、差し出していただけますか?」
物を受け取るような格好で手を出すと、アルベルトはクスッと笑って左手の甲を上に向けた。それからおもむろに、バラの花弁を一枚摘む。
何をするのかと思うと、花弁を口元に寄せ、ふっと息を吹きかけた。すると、花弁は細かくなって宙を舞い、ユノの薬指へと絡み付く。
ゆらゆらと揺らめいて、花弁は小さなバラの花を咲かせる指輪へと変わった。
「……今はこの程度の、何の役にも立たない魔法しか使えません」
アルベルトは憂いを帯びた表情で、ユノの薬指に咲くバラを見下ろした。
ユノもまた瞠目して、バラの指輪を見つめた。鼻を寄せると、気品のある香りが鼻腔を擽る。
「……嬉しい。今まで見た中で、一番美しい魔法だわ」
記憶の中に新しい魔法は、奴隷紋や魔力を封印する魔術、呪いといったものだったから、余計にアルベルトが見せてくれた魔法は美しく見えた。
ドーランが見せてくれた魔法と同じくらい、優しくて美しい。
アルベルトに笑いかけると、アルベルトはどこか苦々しい顔で笑った。
「…………貴女の、そういう所ですよ」
小さな声で呟いたかと思うと、おもむろにアルベルトはユノの手を掴んで強い力で引いた。ユノはバランスを崩してアルベルトの胸へと飛び込む。
驚いて声も出せないユノに、アルベルトは泣きそうな顔で微笑んだ。
「お願いですから、あまり私を誘惑しないでください。貴女の前では、優しい男でいたいんです」
痛いくらいに手首を掴まれて、まるでアルベルトじゃないみたいだった。
アルベルトの本性を垣間見たような気がして、嬉しいと感じる自分は麻痺してしまったのだろうか。
「……これはもう、ハグっていうんじゃないかしら?」
挑発的に口角を上げると、アルベルトも不敵に笑った。
「ユノが倒れ込んで来たんです」
「引っ張っておいてよく言うわ」
「フフ……。私は狡い男ですから」
アルベルトはユノの左手をとって、その甲に恭しく唇を押し当てた。
「これから先何度でも、貴女の薬指には魔法の指輪を贈りましょう。花が何度枯れ落ちようとも、私の想いは枯れ果てることがないと証明いたします」
ニッコリと笑いかけられて、ユノも笑みを零した。
「あたしを選ぶというなら、もう絶対に離してあげないわよ」
「私の身も心も、とっくに貴女のものです。どうぞお好きになさってください」
「…………好きよ、アルベルト」
「私も貴女が好きです、ユノ」
二人は手を取り合って、笑顔を咲かせた。
愛して愛される。ただそれだけで十分過ぎるほど幸せだった。
湖は陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
まるで二人の未来を明るく照らす、祝福の光のように。




