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悪夢の夜

屋敷に戻ってからユノは食事も着替えもせずに、寝室の窓から王宮の方を眺めた。

日はすっかり落ちて、王都は闇に包まれていた。

今日は厚い雲が空を覆い、星はおろか月さえも見えない。


アルベルトは無事だろうか。

ユノはアルベルトの暗殺に失敗した。今頃ウォルクは激怒していることだろう。

いや、これも計画のうちかもしれない。流れはウォルクに来ているような予感がした。

必ず何かが起こる。

アルベルトにとって、ユノにとって、何か良くないことが……


ユノはベッドに腰掛けて、チェストから短剣を取り出した。鞘にエルキデ帝国の竜の紋章が刻まれた、銀の美しい短剣。


そういえば、レグはどうしているだろうか。

軍には何度か足を運んだが、一度会ったきり姿を見ていない。

ユノは短剣を胸に抱いて、強く祈った。

どうかレグも、アルベルトに力を貸してあげてほしい。アルベルトは圧倒的に味方が少ない。


誰もがアルベルトを恐れ、その冷徹な態度から魔王と呼ぶが、本当は誰よりもアルベルトこそが帝国の未来を考えているのではないだろうか。


少なくとも、アルベルトは自分のために動いているわけではないような気がする。

ガドラー元帥を守っていることがそうだ。例え自分に不都合な人間だとしても、ガーデンの一族がトップにいる方が帝国にとって利益になると考えている。

アーク家のような狡猾で非道な連中に権力を持たせてしまう危険性を、アルベルトは誰よりも理解しているのではないか。


どうかレグ、力になって。アルベルトを本物の魔王にしないで。どうか、どうか……


──その瞬間。

扉を蹴破って現れたアリーズが、間髪入れずに窓へと突進した。


ユノは目を見張って、ガラスの破片が宙を舞うのを見ていた。

銀髪のメイドが突拍子もないことをするのは今に始まったことではない。しかし今回も、わけがわからない。


呆然とするユノを振り返ったアリーズが、大きく目を見開く。


「奥様ッ──!」


もう一つの窓が外側から打ち破られて、黒い人影がユノに襲いかかる。暗闇の中でナイフが鈍く光るのを見た。


「っ……!?」


ユノは咄嗟に腕で顔を庇ったが、もう間に合わないことは悟っていた。

まさかこんなに早く刺客が送り込まれるなんて。完全に油断していた。もう絶対に逃げられない。殺される。


覚悟をしてぎゅっと目を固く閉じたが、次に響いたのはユノではなく男の断末魔だった。

恐る恐る顔を上げると、薄いベールのような靄の向こうにナイフを携えたアリーズが一人、部屋の中に佇んでいた。床には黒いマントを羽織った見知らぬ男が倒れている。


ユノはハッとして自身の左手を見た。薬指の赤い宝石が強い光を放ち、ユノの周囲をベールのように覆っている。


「なに、これ……?」


「守護のまじないでしょう。一時的ではありますが、かなり強力な防御結界が展開されているようです」


アリーズが結界に手を伸ばすと、バチッと鋭い衝撃が走った。


「……私も弾かれるようですね。数々の不手際への罰は後ほど。申し訳ありませんが、今は私に着いてきてください」


「待って。もしかして王都から離れるつもり?」


「ええ。屋敷が襲撃されたとなれば、奥様をここに残しておくわけには──」


言葉を区切ったアリーズは、振り向きざまにナイフを投擲した。扉から侵入しようとした黒いマントの男が地に倒れる。

目の前でこんなにもあっという間に殺人が行われるのを見るのは初めてだ。

ユノは地面に倒れた亡骸を見渡して、ベッドに深く座り込んだ。手も足も震えて力が入らない。かつてはあんなに身近にあったのに、ユノは死というものを忘れていた。


「奥様、立ってください」


「嫌……あたしの、せいだ……あたしのっ……!」


視界の隅で何かが光る。

アリーズが咄嗟に身を翻すと、部屋の中に魔法の矢が打ち込まれて爆発した。ユノは轟音に耳を塞いだが、結界のお陰で怪我はない。


「……わかりました。ひとまず敵を殲滅いたします。奥様はこちらでお待ちください」


ベッドの影から顔を出したアリーズは、目にも止まらぬ速さで廊下へと飛び出した。短い断末魔がいくつか上がり、ドサドサと地に伏す音が虚しく響く。


ユノはベッドの脇に移動して、短剣を握りしめながら膝を抱えて丸くなった。

瞼の裏でウォルクが高笑いしている。悔しい。こんなときにユノは何も出来ない。


あたしのせいだ。あの時あたしがウォルクの手を取ったから。あの時アルベルトを殺せなかったから。

だから、みんな殺される。

アルベルトも、アリーズも、エドワードも、ドーランも、あたしも……


「…………さま……奥様!」


「っ!」


顔を上げると、ユノの前にアリーズが膝を突いていた。

安堵したように表情を緩めるアリーズの頬は、真っ赤に染まっていた。顔だけでなく、全身が血を被って汚れていた。

その背後では炎が揺らめいている。どうやら屋敷に火が放たれたようだ。さすがはウォルク、容赦がない。


「屋敷に火の手が回り始めています。行きましょう」


「っ、ぅ、アリーズ……ごめんなさい、あたし、あなたの手をこんなに、汚させた……」


「話は後です。煙を吸い込まないように。立てますか?」


結界がまだあるせいで、アリーズの手はユノに触れず宙を彷徨う。ユノはどうにか立ち上がって顔を拭った。


「……大丈夫。あたし、走れるから。だからお願い、他の使用人達も助けて……」


「わかりました。保証は出来ませんが、最善を尽くします」


アリーズはユノを背に隠しながら階段を降りた。下の階は轟々と炎が巻き上がり、家具や絨毯が黒い煙を上げて燃え盛っている。

ユノは何度も足を縺れさせそうになったが、必死にアリーズを追いかけた。


屋敷の端に位置する使用人部屋の方は、比較的火の回りが遅かった。

アリーズの誘導で廊下を進んでいると、エドワードの叫び声が聞こえた。ハッとして、ユノは弾かれたように駆け出す。


「っエド!」


エドワードは廊下で膝を突いていた。エドワードが生きていることにホッとしたのも束の間、彼の腕の中で血を流し、ぐったりと倒れ込むドーランの姿を目にした。


「じっちゃん!しっかりしてくれよ、じっちゃんっ……!」


「ドーラン!」


慌てて駆け寄ったユノは、自身の左手の指輪がまだ光っているのを見て触れるのを躊躇った。

自身の傍らにユノが膝を突いているのを見たドーランは、脂汗の浮かぶ顔をふっと緩めた。


「ああ……奥様、そこにおられますかな……」


「ええ、いるわ!ここにいるわよ、ドーラン……!」


「この度は……一体何と、申し開きをしたらよいか……」


「いい。いいから、喋らないで……」


ドーランは目尻の皺を深くすると、次にエドワードの頬を優しく撫でた。


「エド……誰のことも、恨むな……ワシはもう十分、長く生きた……」


「あ、ぁぁぁっ、ぁぁぁ……!」


エドワードは血に濡れたドーランの手をぎゅっと握り、ぼろぼろと涙を流した。

ユノは唇を噛み締めてアリーズを振り返る。


「医者を連れて来て!」


「……出来ません。私の最優先事項は奥様の身の安全で……」


「医者を連れて来ないなら、あたしは今ここで死ぬわ!」


ユノは握りしめていた短剣を鞘から抜いて、自身の首筋に当てがった。

アリーズは息を呑んで咄嗟に手を伸ばしたが、結界によって弾かれる。ユノに近付くことは出来ない。


「アリーズ!」


脅しかけるように力を込め、皮膚を裂く。

ツゥ、と鮮血が零れ落ちた。


「っ……、わかりました」


アリーズは諦めたように目を伏せ、近くの窓を蹴破って外に出た。目で追いかける暇もなく姿が闇に消える。

ユノは肩から力を抜き、短剣を下ろした。大丈夫だ。アリーズはこの中で誰より足が速い。


ユノはドーランの傍らにそっと膝を突いた。

ドーランを抱きかかえて嗚咽を漏らすエドワードに、何と言葉をかけたらいいかわからない。


「っ、う、うぅ……どうして、どうしてだよっ、ネルチっ……!」


「…………」


屋敷には防衛魔法がかけられていた。外部からの侵入は出来ない。

もし侵入されたとしても、魔力を持つ住人なら即座に察知出来る。しかし、アリーズは完全に後手に回らされていた。

考えられる可能性はただ一つ。


ネルチが、裏切った。


「…………大丈夫よ。ドーランは、あたしが絶対に死なせない」


ユノは立ち上がって、屋敷の外へと駆け出した。背中にエドワードの声が突き刺さる。しかしそれに構っている暇などない。


アルベルトだ。アルベルトなら助けてくれる。

ユノを生死の境から救ってくれたアルベルトなら、きっと……


ユノは帝国軍本部へと走った。

その途中で、王都にある屋敷の多くから炎が上がっているのを見た。夜の静寂を突き破るように、あちこちから悲鳴が聞こえる。

街路は貴族と兵士達で溢れていた。突然の火災と殺戮によって、完全にパニックに陥っている。


人混みを掻き分けて帝国軍本部前の正門まで行くと、既に貴族達が押し寄せていた。


「早く私達を助けて!」


「一体どうなっているんだ!兵士達は何をしている!」


「落ち着いてください!現在人員を派遣しているところです!」


ユノは呆然と立ち尽くした。これは一体、どんな悪夢だろう。

先程まで黒で塗り潰されていた空は、次々に上がる火の手によって赤々と染まっている。人々の悲鳴や怒声、子供の泣きじゃくる声がうるさくて、耳鳴りさえした。


まさか。まさかここまでするなんて。狂っているのは、魔王なのは、そっちじゃないか。


棒立ちしていたユノは、押し寄せる人の波によって突き飛ばされた。受け身も取れずに転んでしまい、膝が血で滲む。蹲るユノを誰も気に止めず、我先にと宮殿に向かう。

ユノは震えながら立ち上がった。まさかこんな地獄のような光景を、この王都で見ることになるなんて。


「っ、つ……」


膝が痛んで足に力が入らない。ふと左手の薬指に目を落とすと、指輪は色を失って灰のようにはらはらと霧散した。

もう身を守ってくれるものは何もない。ユノは短剣を握りしめて人混みから離れた。


宮殿を囲む塀に背を預け、ずるずるとへたり込む。

無我夢中で走っていたから気付かなかったが、肺はとっくに限界を越えていてズキズキと痛い。心臓もおかしな調子で跳ね回っている。ユノは顔を押さえて荒く呼吸を繰り返した。


目を閉じると血に濡れたドーランの姿を思い出し、ふっと涙が溢れた。今もドーランの命の灯火は弱まっている。残された時間は限りなく少ない。


無力だ。

ユノには何もない。何も出来ない。


「う、うぅぅ……うっ、ぁぁぁ……!」


ユノはぎゅっと身を縮めて、声を上げて泣いた。

胸が苦しい。もうこんなのは嫌だ。嫌だ。嫌だ……


目尻を擦るユノは、ふと手の中で何かが光っていることに気が付いた。指輪かと思ったが、そういえばさっき灰になって崩れていった。では、一体何が……。

ユノは震える手で短剣を目の前に翳した。月明かりもないのに、刻まれた紋章が淡く光っている。


ハッとして、ユノは塀に手を突いた。横に進みながらぺたぺたと触っていると、短剣の放つ光が強くなる。

思い出せ。あたしは一度見て、知っているはずだ。


膝の痛みも忘れて歩き回り、ついに秘密の入口を見つけた。


塀が短剣と呼応して紋章を浮かび上がらせる。

短剣をぐっと近付けると、塀に魔法の門が現れた。ユノは扉を押して中へと入る。


「ありがとう、レグ……」


ユノは一度短剣を抱きしめてから、宮殿の中へと走った。

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