ひとつの心臓
ユノが部屋に戻ると、アルベルトが一人でベッドに腰掛けていた。処置が終わったのかシャツを着ていたが、大きく開いた胸元から包帯とネックレスが覗いている。
顔を伏せて立ち尽くすユノを、アルベルトが優しく招き入れる。
「どうぞこちらに。……おや、水を持ってきてくださったのですか?」
ガラスのボトルを見咎められて、ユノは咄嗟に隠しそうになった。
逸る心臓を押さえ付けて曖昧に微笑み、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
「……他の二人は、どこに?」
「アリーズには、メルヴィーと共に少々頼み事を。ユノが帰る際には戻しますので、ご心配なく」
ユノはアルベルトを見上げた。ニコリ、いい笑顔を向けられる。
いつも通り油断も隙もありすぎるが、急いては事を仕損じる。ユノはまず自身の気持ちを落ち着けるために雑談を持ちかけた。
「……どうして、包帯を巻いてるんですか?アルベルト様は、魔法で傷を癒せますよね……?」
部屋に入ったときから、ずっと違和感があると思っていた。
この世界には魔法がある。魔法によって、ユノの左肩の大火傷は跡形もなく消えてしまった。それなのにアルベルトは全身傷だらけだなんて、矛盾している。
アルベルトは困ったようにはにかんだ。
「残念なことに、治癒魔法は自分には使えないんです」
「それなら、他の人に頼んだらいいんじゃないですか?王都には腕の良い医者がいるのでしょう?」
「ええ。医療魔術師はたくさんいます。しかし誰も私を治療しようとは思わないでしょう。なにせ私は今、帝国で最も絞首台に近い男ですから」
冗談じみた口調で言うにはあまりに重い。
ユノは軍から送られた手紙の内容を思い出して、息を詰めた。アルベルトは独断で敵国の皇女を殺害した罪に問われている。
「今朝方に命からがら帰還したかと思えば、そのままの足で玉座の前まで引き摺り出されました。もうご存知かと思いますが、どうやら私はグランキシュル王国の皇女を殺害した犯人に仕立て上げられているようです」
「…………アルベルト様は、手を掛けたんですか?」
「まさか。実際に皇女を邪魔に思う連中に利用されてしまっただけです。いやはや、グランキシュルの内政もかなりドロドロしているようでしたね」
自分のことだというのに、アルベルトは終始穏やかで笑みを絶やさない。こういうところが読めなくて、怖いと感じる。
「ともかく、少々悪い状況なのは確かです。どうにかその場で処刑されることは逃れましたが、また詳しく尋問を受けることになるでしょう。ユノにまでご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ないです」
アルベルトに優しく微笑みかけられて、ユノは顔を伏せた。
やはりアルベルトは泥舟だ。沈みかけているのが目に見える。もうどうしたって無理だ。もう、もう……
小さく息を吐いてから、ユノはグラスに水を注いだ。
「……さぞ、お疲れでしょう。どうぞ飲んでください」
水は透明な色をしているはずなのに、ユノの目には薄く濁っているように見えた。
ここに入っているのは毒薬だけではない。隠しきれない殺意や怨念が、水の中に溶けている。
アルベルトは嬉しそうに、首を傾けてニッコリと微笑んだ。
「では、口移しをお願いしても?」
「えっ……」
まさかそんなお願いをされるとは思わず、動揺を強く顔に出してしまった。
平時であれば、ユノは大層喜んだことだろう。アルベルトからそういった頼みをされることを、娼婦のユノはずっと待ち侘びていた。
それがどうして、今になって……
「──!」
まさかと、息を止める。
見上げたアルベルトの双眸は、口付けを所望したとは思えないほど静かな色をしていた。
間違いない。アルベルトは気付いている。
この水の中に毒薬が混ぜられていることに。
ユノが裏切っていることに。
アルベルトが楽しげに首を傾げて、肩にかかった長い黒髪がはらりと落ちる。
もう無理だ。
そう感じたユノは、震える手でグラスをチェストに置いて、水がたっぷり入ったボトルを口元に運んだ。
もうこんなの耐えられない。楽になりたい。
その一心で口を付けようとして──アルベルトによって奪い取られた。
いつになく乱雑な手付きでボトルを奪ったアルベルトは、そのままボトルを壁に投げ捨てた。
──ガシャン!
大きな音が鳴ってガラスが砕け散る。壁を伝って床を濡らす水が、ユノの目には血痕に見えた。
ユノは身を竦めて震え上がる。
これまで目にしてきたアルベルトの恐ろしい一面が、ついに自分にも向けられてしまう。怖い。ただただ、怖い。
「ユノ」
「……ぁ、ぁぁ……」
「ああ、ユノ。私のユノ。どうか怯えないで」
アルベルトはユノを左手で抱き寄せて、胸の中に抱いた。わけもわからず、ユノはガタガタと震える。怖い。アルベルトが怖い。
「私は貴女に怒ってなどいません。ただ、貴女にこんなことを強いた人間に……貴女に死を覚悟させた自分自身に、酷く憤っています」
「っ、ぁ、いつからっ……いつから、知って……!」
「貴女は私も驚くような行動力で、軍に出入りしていましたから。私のことをよく思わない人間が、接触してこないはずはないと思っていました」
ユノは糸が切れたように全身から力が抜けていくのを感じた。
何も知らなかったのはユノだけだった。
上手くやれていると思っていたのに。アルベルトの腕の中で、ずっと目を隠されていただけだった。
「どうして……どうして、知ってて……」
「貴女に、選ばれたかったんです」
アルベルトは微笑んで、左手でユノの顎を掬った。鼻先が触れ合うほど近く、アルベルトが迫る。
「私の勝手でここまで連れて来てしまいましたから。貴女に毒を盛られるくらいのことは、当然の成り行きかと」
そっとユノは目を閉じたが、アルベルトが口付けたのは瞼の上だった。
ここまで来てもアルベルトは頑なにユノの唇を奪わない。これが愛だというなら、愛と狂気はよく似ている。
「いかれてる…………」
ユノは焦がれるようにアルベルトに抱きついて、肩を震わせた。怖くて泣いているのか、安心して泣いているのか、よくわからない。
狂気に飲まれようと構わない。ただ、こうしていたい。アルベルトの温もりに包まれていたい。
「ごめんなさい……ごめんなさい、アルベルト様……。あたし、死ぬのが怖かった。あなたを信じるのが、怖かった……」
「謝罪ならば、私からも。私は貴女に何不自由させないと誓ったのに、貴女の思う不安をすべて取り除くことが出来なかった。ですがもう、大丈夫ですよ。大丈夫」
「っ、ぅぅ……っ……」
ユノはアルベルトの胸に頬を寄せた。ぎゅっとしがみついて、もう二度と離すまいと身体を密着させる。
頭に何かが当たって視線を上げると、ガラス玉のネックレスが光っていた。再会を誓って渡したユノのストロベリーブロンドが、ガラス玉の中で煌々と渦を巻いている。
ユノは胸が詰まるような思いがして、アルベルトを見上げた。
アルベルトの赤い瞳と真正面から見つめ合う。
あの日、娼館で出会ったときのように。
しかし今ここにいるのはもう、娼婦のユノ・ゴーシュではない。
「あたしの心を、お売りします。あたしはもう、あなたのものよ。あなたの好きにして……」
「ユノ…………」
はっと目を見張ったアルベルトが、次には強くユノを抱き寄せた。追い縋るように掻き抱かれて、胸が熱くなる。
こうしてくっついていたら、あなたの一部になれたらいいのに。
ユノは背中を掴むアルベルトの腕にうっそりとしていたが、ふと違和感があってアルベルトの右腕を掴んだ。
やっぱり。アルベルトの右腕はだらりと脇に垂れたままで、ピクリとも動かない。
「アルベルト様、右腕が……」
「おや、私としたことが。バレてしまうとは格好が悪いですね」
泣きそうな顔をするユノを、アルベルトは左手で優しく撫でた。手付きが優しいほどに、胸が締め付けられる。
「ユノに情けない姿を見せたくなくて、先程は部屋から追い出してしまいました。本当にすみません。私はユノと片時も離れたくないと思っていますよ」
「あたしのことはどうだっていい……!その腕は治るんですよねっ?」
「んー……その質問には、何ともお答えしにくいですね。というのもこれは、ただの怪我とはわけが違うんです」
アルベルトは右腕をシャツから出して、二の腕に巻かれた包帯を解いた。そこには波が交差したような紋様が黒く刻まれている。
ユノは口元を押さえた。それはアリーズの奴隷紋と同じく、禍々しいものを感じる。
「これはグランキシュルの王家に伝わる古代魔法のようで、身に受けると肉体の動きが制限されるようです。東の魔術に馴染みのあるアリーズに解析を手伝わせていますが、少々難航しそうですね」
「そんな……こんな魔法、酷いわ……」
「私はまだマシな方です。ガドラー元帥は私を庇ったことで、身体の自由が殆ど利かない状態ですから」
アルベルトは袖に腕を通して紋様を隠した。紋様だけでなく、包帯で覆われた姿が痛ましい。
戦争の過酷さを目の当たりにしたユノは、何も言葉が出なかった。これに比べたらユノの知る暴力なんて、子供同士の喧嘩程のことでしかない。
魔法なんてものがあるから、戦争は苛烈さを増している。
「……アリーズ以外にも、手伝える者はいないんですか?」
「いないというより、させられないんです。ガドラー元帥の現状を知られれば、アーク家に指揮権を乗っ取られかねません。ですので私の腕を含めて情報は伏せています。元帥の座をアーク家に譲るのは、あの方にとっても本意ではないでしょうから」
「待って。アルベルト様は、ガーデンの一族の味方なんですか?ガーデンの一族は、アルベルト様のことをあまりよく思ってないんですよね……?」
ユノはガドラー元帥のことを、いまいち味方とは思えない。
人間としてガドラー元帥はアルベルトを思いやり、親のように接してはいるものの、軍人としてはアルベルトのことを疑問視している。
帝国軍最高位の人間がそうであれば、他のガーデンの一族も続くだろう。
アルベルトがガーデンの一族を思ってやる必要なんてないのではないかと、ユノは思った。
アルベルトは一瞬きょとんとしてから、次にニッコリと笑った。
「そうですね。私は特別ガーデンに肩入れしているわけではありません。私は軍人ですから、エルキデ帝国の繁栄を第一としていますよ」
こんな場面で、よくもそんな胡散臭い言葉を並べられるものだ。
腑に落ちないのが表情に出ていたのか、アルベルトは黙らせるようにユノを強く抱きしめた。
「私のことを案じてくれるなんて、本当に貴女は美しい人です。愛していますよ、ユノ」
「…………ずるい」
「ハハ。すみません。狡いついでに私からお願いです。今日はもう屋敷に戻って、ゆっくりと休んでください。ここは以前にも増して逼迫しており、大変危険ですから」
「でも……」
「私なら大丈夫です。必ずどうにかしてみせます。少なくともユノだけは、守り抜いてみせますよ」
入り込む隙間もないほどに、完璧な笑顔だった。
ずるい。
ユノはもう一度呟いて、アルベルトの胸に飛び込んだ。
「……嫌よ、あなたがいなくちゃ」
ぴく、とアルベルトの身体が僅かに強張る。
しかしすぐに左腕で優しく抱きしめられた。
「………………ありがとう」
小さな小さな囁きだった。
それは今まで向けられたどんな愛の言葉よりも、愛しさが込められている気がした。




