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一滴の墨溜まり

「──っ!」


ベッドから飛び起きたユノは、荒い呼吸で上下する肩をシーツごと掻き抱いた。

見開いた目で素早く室内を見回す。

薄く色付いた天蓋越しに、猫足のテーブルと椅子が見える。テーブルの上には絵本と花瓶があった。

ここはアルベルト邸の、ユノの寝室だ。ユノがいることを許された、ユノだけの部屋。そこまで確認してから、深く息を吐き出した。


「なんだ、夢…………」


懐かしい夢を見た。

ユノがまだ娼館に雇われる前の、娼婦街での記憶。焼き尽くしてしまいたい忌々しい過去。


手の平で額の汗を拭う。魘されるのはもう随分と久しぶりのことだ。


ユノはベッドから降りてドレスに袖を通した。いつもなら着替え始めた頃にアリーズが来るのだが、今日は遅い。ユノはせっかちな方なので、さっさと自分でリボンまで結び終えてしまった。


くるりと何気なく窓の方を向いたユノは、そこに人影を見て腰を抜かした。


「きゃあああああ!?」


「──奥様!」


バン!と外から窓が叩き開けられる。あまりの衝撃音に窓が破壊されたかと思った。

室内に入ってきたのはアリーズだった。


「あ、あなた、なんっ、ま、窓からっ……!」


「失礼をお許しください」


腰を抜かして口をパクパクさせるユノを、アリーズは手早く横抱きにした。ユノはわけもわからずアリーズにしがみつく。

あろうことか、アリーズは窓枠に足をかけた。


「口を閉じていてください。舌を噛みます」


アリーズは返事も待たずに窓から飛び降りた。


「──っ!」


張り出し窓の上に降り立ち、膝をバネにして素早く壁面に飛び移る。そんなことを繰り返して下へ下へと降りていく。その間ユノはぎゅっと目と口を閉じていた。


あっという間に地上へと辿り着き、目を開けた頃には荒々しく駆ける馬車の中にいた。


「なんなの……?」


ユノは自身を腕の中に抱くアリーズの横顔を見上げた。険しい表情をしたアリーズは、絶えず周囲を警戒している。


「サジタリアスから報せが。旦那様が帰還なされたそうです」


「アルベルト様が……!?」


ユノはぎゅっとアリーズの服を掴んだ。漸くアリーズの瞳がユノを見下ろす。


「旦那様とお会いになられますか?」


真正面から問われると、すぐには答えられなかった。


ユノはまだアルベルトを完全には信じきれていない。自身の過ちを打ち明ける勇気だってまだだ。

しかし無情にもじりじりと時間は迫ってくる。決断をするなら今しかない。


「…………会う。会って、ちゃんと話がしたい」


アリーズの腕を掴むと、その上から包み込むように手を握られた。

ユノと瞳をかち合わせたアリーズは、大きく頷いた。




暗闇の中で、ガタガタと振動を感じていた。

厳重警戒態勢にある帝国軍本部は、外部からの接触を厳しく管理していた。忙しなく足音が飛び交い、戦況について口々に語っている。


ユノとアリーズは箱の中に入り、荷物としてサジタリアスに運搬されていた。バレたらサジタリアスの立場も危うくなるだろうに、彼は何も言わずに協力してくれた。


じっと息を潜め、周囲の気配に気を配る。ユノはいざというときにアリーズを邪魔しないよう、膝を抱えて小さくなっていた。


不意に、台車が止まる。

トントンと箱の側面が叩かれ、サジタリアスの気配が遠ざかっていく。アルベルトのいる部屋の前に着いたのだろう。

アリーズがそっと顔を出して周囲を確認し、音を立てずに外に出た。ユノもアリーズの手を借りて箱から出る。


「箱と台車の解体は私が。奥様は先に中へ」


小声で告げたアリーズに頷き返し、ユノは覚悟を決めて扉を開けた。


急な入室に、中から刺すような視線が向けられる。

振り返ったのは包帯を手にしたメルヴィンと、簡易ベッドに腰掛けていたアルベルトだ。


ユノは思わず息を呑む。

露になったアルベルトの上半身が、包帯で固く覆われていた。隙間から覗く肌にも無数の傷跡があり、今も血が滲んで変色している。


サッとアルベルトは左手でシーツを手繰り寄せ、自身の身体を覆い隠した。


「……これは、恥ずかしいところを見られてしまいました」


ニッコリと笑うアルベルトの顔は、記憶の中のアルベルトと寸分も違わない。それだけでユノは気が抜けてしまって、その場に立ち尽くした。


「アリーズと……さてはサジ君ですか」


アルベルトの視線がユノの背後に向けられる。アリーズは畳んだ箱と台車の部品を小脇に抱えて、扉を閉めたところだった。


「私はアリーズの判断力を評価していましたが……これは評価を見直さなければならないようですね。いくら人間の真似事をしようとやはり、所詮は獣ですか」


嘲るような口調で呟かれ、赤い瞳がすっと細まる。

ユノは咄嗟にアリーズを背で隠したが、向けられるアルベルトの瞳の冷たさを前に、何も言葉を発することが出来なかった。

助け舟を出すかのように、メルヴィンがアルベルトを呼んだ。


「大佐、さすがに状況が悪いのでは……」


アルベルトの視線がメルヴィンに移る。ユノはホッとして体の緊張を緩めた。


「ええ。今考えています。……そういえば、アリーズは南東の出身でした。確か、シャハラドとかいう集落の」


「シャハラド……クィーデリカの近辺ですね。それなら魔術体系も東寄りかもしれません。悔しいですが、東の魔術、しかも古代のものとなると俺には少々……」


アルベルトとメルヴィンは二人だけで話を進めると、おもむろにアルベルトはユノに美しい笑みを向けた。瞬時に表情や雰囲気を切り替えるアルベルトを、ユノは恐ろしいと感じた。


「さすがユノ、お手柄です。そこで申し訳ありませんが、少々席を外してもらえませんか?アリーズは残ってください」


丁寧な言葉遣いでありながら、有無を言わせぬ口調だった。

ユノは窺うようにアリーズに目を向けたが、頷き返されて逆に背に庇われる。

ここでユノが渋れば、咎められるのはアリーズだ。ユノはアリーズの肩に軽く手を乗せてから、大人しく部屋を出た。


扉に背を預け、深く息を吐き出す。

左肩に触れると、ぞっとするほど身体が冷たい。


アルベルトが生きていた。大怪我を負っていて心臓が止まるかと思った。しかし今までと変わりない様子に安堵した。それと同時に、彼がわからなくて困惑した。


相変わらずユノにだけ優しくて、その他には冷たい。本当にアリーズを残して部屋から出てしまってよかったのだろうか。

ユノはアリーズが心配で扉を開けようか悩んだ。


そのとき、足音が近付くのを感じた。


「ああ、よかった。やはり来ていたか、ミセス・ユノ」


ユノの顔を見咎めて、蛇顔が柔らかく微笑を作る。

そのわざとらしい仕草に、ユノは眉を顰めて男を睨み付けた。


「ウォルク……」


満面の笑みを浮かべたウォルクは、手早く近くの部屋の扉を開けた。入るよう促され、ユノは大人しく従う。

薄暗い倉庫のような部屋だった。両脇を棚に挟まれて、ユノとウォルクは縦に並んで向かい合う。


「アルベルト様が皇女殺害の疑惑をかけられたそうだけど、それもあなた達の計画のうちってわけ?」


「そんなことを君が知る必要はない」


早口に咎められる。ウォルクは紳士的に振る舞ってみせてはいるが、どこかいつもより急いている気がする。

軍内部がバタバタしているように、いつどこで何が起こるかわからない。戦況は常に動いている。ウォルクはその少しのタイミングで計画が破綻することを恐れているようだった。


「君はただ僕らの言う通りに動けばいい。そうすればお互いが幸せになれる。さぁ、これが幸福への切符だ」


ウォルクは悪魔のように囁いて、ユノに小瓶を手渡した。中で紫色の液体が妖しく煌めく。


「これをあの男に飲ませろ」


皆まで言われずとも、これが毒薬であることは一目でわかった。ユノも娼婦の頃に、質の悪い客に毒薬や睡眠薬を盛ったことがある。


「……本部内で殺すなんて、スマートじゃないわね」


「これは僕からのせめてもの温情だ。自らの罪を認め自害した、そうなれば着せられる汚名も多少は軽くなるだろう。最期に最愛の妻に看取られて死ねるなんて、十分過ぎるだろう?」


「………………出来ない」


「は?なんだって?」


ユノが俯くと、ウォルクは手近な木箱を殴り付けた。箱が粉砕して木片や短剣がユノの足元に降り注ぐ。

鼓膜を劈くような破壊音に、ユノは縮み上がって頭を押さえた。


「王族に入りたいんだろう?だったら僕の言うことを聞いた方が賢明だと思うけどね」


ねっとりと絡み付くような、嫌に優しい声音で囁かれる。

ユノは虚勢を張って、口元に嘲笑を浮かべた。


「馬鹿馬鹿しい……。胡散臭いのよ、あんた。これならアルベルト様の方が百倍マシ」


「僕は好意でお前だけは見逃してあげようっていうのに、下手に出ればすぐ付け上がる。これだから女って奴は穢らわしい……!」


笑みを深くして額に青筋を浮かべたウォルクは、気でも違ったように手近な木箱を次々と蹴破った。立ち上る轟音と砂埃に、ユノの心臓がドクドクと暴れ回る。


こんなに暴れ狂っているのに誰も扉を開けないなんて。まさかこれも魔法の力とでもいうのだろうか。

もしここでユノが殺されるようなことがあっても、誰も気付かないような気がした。その予感はユノの心臓をざわざわと撫で回し、心をどこか暗くて寒い場所へと閉じ込める。


散々憂さ晴らしを行ったウォルクは、振り返った先のユノが怯えきっているのを見て愉快そうに唇を歪めた。

この男はきっと、アークノーツ家の伝統行事を嬉々として遂行したに違いない。

ウォルクにとって、ユノは子犬も同然だ。


「……ああ、それならいっそ、お前を殺してみるというのも手だな。本当にあの魔王がお前のようなクズを愛しているというなら、さぞや嘆き悲しむことだろう。もしかしたら獣のように暴れ狂うかもしれない。そうなれば僕達も魔王退治がしやすくなる」


「っ……!」


ウォルクの手がすっとユノに向けて伸ばされる。ユノは肩を抱いてじりじりと後退した。とん、と背中が壁に当たる。

ウォルクは棚に残った残骸の中から短剣を手に取り、鷹揚に鞘から抜いて刀身を煌めかせた。獲物を前にした狩人のように、不敵に微笑む。


「どうにしたってアルベルトは死ぬ。お前がやるか、他の誰かがやるか、その違いでしかない。アルベルトと共に死ぬか、アルベルトを殺して生きるか、選択のチャンスが与えられたことを泣いて喜べよ。お前がやらないなら僕がやるぞ。僕は容赦しない。アルベルトも、お前も、ガーデンの一族も、使用人達に至るまですべてをこの手で殺してやる」


ユノは力の入らない膝を必死に踏ん張らせて、ウォルクを見上げた。

ウォルクの青い瞳は野心と狂気で轟々と燃え盛っている。アルベルトなんかよりもずっと抜き身の刃を振り翳して、圧倒的な暴力を見せつける。


ユノは震える唇を開いて、引き攣った声を漏らした。

心ではまだ負けていないはずなのに、身体がすでに諦めている。身に染み付いた卑しい娼婦の本能が、逃げることを選んでいる。


「大丈夫。君は悪くない。君は助かる。自分の命を選ぶのは当然だろう?誰も君を責めたりしない」


一変して、ウォルクは短剣を捨てて甘く優しい声音で囁いた。自分が美しいということを知っているように、柔らかく微笑みかける。


ユノは目を閉じた。瞼の裏に、これまで関わってきた人達の姿が浮かぶ。

真心を持って従順に尽くしてくれた、メイド長のフェリ。口が悪く失礼だが、誰よりも思いやりに溢れる庭師見習いのエドワード。親のように見守り、諭してくれた庭師のドーラン。突飛な行動ばかりするが、誠心誠意力になってくれるメイドのアリーズ。


そして、何者でもなかったユノを救ってくれた、旦那様のアルベルト。


溢れそうになるものをぐっと押し込めて、冷ややかにウォルクを見上げる。


「…………これが終わったら、もうあたしに関わらないで。あんたの粘っこい声も、蛇顔も、もう二度と見たくない」


失礼な小娘の物言いに、ウォルクはもう一度ニッコリと微笑んだ。


「君が役目を果たせば、僕も用はない」


話は終わったとばかりに、ウォルクはサッと踵を返した。

土埃の舞う薄暗い倉庫に一人残されたユノは、壁を背にしてずるずると崩れ落ちた。小瓶を握る手を額に当てて、歯を食いしばる。しかしすぐに力が入らなくなって肩を震わせる。


男に使われて消費されるなんて、耐え難い屈辱だ。目の前に餌を吊るされれば馬鹿みたいに従う家畜だと思われている。こんな惨めな思いはもう二度としたくないと思っていたのに。

もう二度と、戻れない。


小瓶の中の紫色の液体は、愛しい男の身体に注がれることを待ち焦がれるようにきらりと瞬いた。

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