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月明かりに浮かぶ

寝室のベッドの上で、ユノとアリーズは並んで座っていた。

アリーズはすり鉢で薬草をすり潰していた。傷に効くといってアリーズが手荷物から出してきたものだ。肩の傷の手当として、毎晩寝る前に処方されている。


薬草をすり潰し終えたアリーズは、おもむろにユノの肩へと手を伸ばした。

ユノは俯いたまま、そっと手を払い除けた。鼻にスッとする臭いを嫌ってどけたこともあるが、今日はそうではない。


「………………信じたあたしが、馬鹿だった」


ユノは震える手で頭を押さえ、くしゃりと髪を掴む。


「あの男は初めから、こうするつもりだったのよ。あたしを大切にしている様子を他人に見せておいて、王都に残すことで信用の担保にした。あたしは……利用された。あの男は戦争を終わらせる気なんてない」


喉の奥が震え、唇の端から熱い吐息が漏れる。

アリーズの手がユノの肩──左肩に触れ、カッとなったユノは思い切りその手を叩いた。


「信じたあたしが、馬鹿だったっ……!」


見上げたアリーズの輪郭が、じわりと滲む。

ユノは唇を噛み締めて顔を押さえた。もう何も見たくない。聞きたくない。


「……お気を確かに。もし旦那様が本当に奥様を大切に思っていないとしたら、私に奴隷契約をさせてまで奥様の警護をさせるでしょうか」


「するわよ、あの男なら!あの男に付いたあだ名は魔王なのよ!あたしを騙して、国を騙して、世界をめちゃくちゃにしたいのよ……!」


アリーズは押し黙って、それ以上は何も言わなかった。

薄暗い寝室に、静寂が落ちる。


一度信じてから裏切られるのは、ただ裏切られるよりつらい。

やはりあのとき手放しておけばよかった。こんなに苦しくなるなら、あのとき蓋をしてしまえばよかった。


これが生きるということなら、生きていなくていい。苦しみや暴力から遠ざかって、ただ死なずにいられるだけでいい。


花なんていらない。

愛なんて、いらない。


不意に、ユノは力なく笑みを零した。誰を嘲る笑いか、今は考えられない。


「……あたしだって、同じよ。あたしは知ってた。あの人が、もう二度と帰って来られないって。だって、あたしもあの人を売ったんだもの」


膝の上で拳を握り締めた。

窓から冷たい風が入り込み、月明かりに照らされて銀色に光る髪が視界の隅でさらりと揺れる。


「あたしはずっと、あの人を裏切ってた。あの人を消したくて堪らなかった。あの人が狂ってたお陰で、計画以上に順調よ。もうあの人は戻って来られない。アルベルト・ガーデンルヒトは、もうお終い……!」


ユノは薬指で光る赤い宝石の指輪を掴み、外そうとした。しかしどうしてか、指輪は抜けない。胸にまだ残っている一粒の思いが、抜くことを躊躇っているとでもいうのだろうか。


無理矢理に指輪を引き抜こうと力を込めるユノの手の上に、アリーズが自身の手を重ねた。

褐色の肌をした大きな手。その手の平は豆だらけで、皮が厚くなってごわごわしていた。およそ女の物とは思えない。


「後悔しておられるのなら、そのお気持ちを旦那様に告げれば良いのです。旦那様ならばきっと、受け止めてくださいます。旦那様が奥様を裏切ることなど、ありえないことですから」


アリーズの瞳に真っ直ぐと射抜かれる。それだけでユノの心は大きく揺れた。

ユノはまだどこかで、アルベルトを信じたいと思っている。自身のその感情に何より動揺した。


「……どうして、言い切れるのよ」


「私は旦那様から、有事の際には奥様を王都から脱出させるよう仰せつかっております。そのための経路も確保済みです」


ユノは反論を探して、しかし何も思い浮かばなかった。


「…………なんなのよ……あの人のことが、まるでわからない……。ずっとそうだった。優しいかと思えば、とても怖くて……」


呆然と虚空を見つめ、肩を震わせる。

指先を左肩に這わせると、もう既に傷口は塞がり、僅かに肌が引き攣っているだけだった。爪で引っ掻いても、あまり感覚がない。すべてが夢だったような気さえする。


「もう、何もかもわからない……何を信じたらいいか、全然、わからない……」


「旦那様を信じたらいいと思います」


ユノは鼻で笑った。

アリーズは軍人のように鋭くお堅いのに、時折子供のような純粋さを見せる。

人の殺し方を知っているくせに、人の醜さを知らない。それが憎らしくて、疎ましくて、この上なく羨ましい。


「旦那様は、必ず奥様の元へ帰って来ます」


もう一度、アリーズは迷いなく断言した。


「……無理よ。あの人は戻ってくるつもりなんてない。それにどうせ、もう死んでるわよ。あの人を殺したい人間は大勢いる」


「見てください」


アリーズはすり鉢を脇に置いて、乱暴に自身の胸元を開いた。力任せに引っ張ったせいで、シャツのボタンが床に弾け飛ぶ。

驚いてアリーズの胸元を見つめ、そこにあるものを見てハッと息を呑む。


「!それ……」


アリーズの褐色の肌の上に、赤黒い円形の模様が刻まれていた。奴隷紋だ。この印がある限り、アリーズはアルベルトには逆らえない。


「この印がある限り、旦那様は生きておられます」


ユノは口元を押さえ、何も言えずに首を横に振った。アリーズは胸を詰まらせるユノの手を掴み、自身の肌に指を滑らせた。


「どうかこの証を信じてください。私は旦那様の忠実な下僕であり、奥様の専属メイドです」


奴隷紋に触れる指先が熱い。アリーズの内なる情熱が、触れたところから注ぎ込まれているような気がした。


こんな非人道的な、忌むべきものが、唯一のよすがになるなんて。


堪らずユノはアリーズを抱きしめた。


「アリーズ……あたしには、そんな資格ない……あたしは、あなたも利用した。あなたに兄を会わせたのは、アーク家の人間に会いに行く口実よ。あたしはあなたのために何かしたことなんて、一度もない……」


アリーズの腕が、躊躇いがちにユノの背に触れる。


「そうだったのですか……」


零すように、小さく囁かれる。

何と責められようと、罵倒されようと構わない。ユノは身勝手だった。自分が成り上がること、死なないことだけを必死に求めていた。

捨てたものを今更取り戻そうなんて、虫のいい話だ。やり直すには、もう何もかもが遅すぎる。


「慣れております。私はこれまで、人のように扱われたことがありませんから……。しかしそれで良いと思っていました。私に得意なのは、武力をもって他を排除すること。私は自分を兵器だと思うことにしていました。……そんな私を、旦那様はメイドとして雇ってくださいました」


アリーズはユノをそっと離し、視線を合わせた。

月明かりに照らされて輝くアリーズの瞳は、アメジストのように美しい。


「……みんな、あなたを利用しただけよ。あなたの強さを。あなたの純粋さを。あたしを含めて、みんな……あなたが思う以上に穢れてる」


「そうかもしれません。しかし私をただの兵器とするなら、メイドという形ではなくともよかったはずです。それなのに旦那様は、あくまで私をメイドにしたのです」


アリーズの瞳が、やわく細められる。


「奥様も私に、メイドとしての仕事を与えてくださいました。私が不器用なばかりに、着替えの仕上がりを確認する程度の役目ですが、それでも毎日私を使ってくださいます。この手で触れることに、怯えないでくださる。……私はそれに、どこか甘えておりました」


切なげに目を伏せてから、アリーズはユノの頬に手を伸ばした。ユノが拒まずに受け入れると、頬を包み込むようにアリーズの手が触れる。

温かい。アリーズは他人より体温が高い。


「……奥様が打ち明けてくださったのですから、私も打ち明けねばなりませんね。恐らく奥様は、ご存知ないのでしょうから」


アリーズは名残惜しそうにユノの頬を親指で撫ぜて、そっと離れた。その顔が泣きそうに見えて、ユノの胸まで苦しくなる。


アリーズは深く息を吸って、覚悟を乗せて告げた。


「私は人間ではありません。──人の形をした、獣でございます」


ユノには何を言っているのかわからなかった。

困惑が顔に出ていたのか、アリーズはユノに見せるように手の平を上に向けた。五指にぎゅっと力を込めると、たちまち腕が盛り上がって深い毛に包まれる。

ユノはぎょっとしてアリーズから離れた。


毛深く大きな手の平から、鋭い爪が伸びている。

右腕を獣のそれに変化させたアリーズは、月明かりの中で悲しげに微笑んだ。


「恐ろしいでしょう。私の本当の姿は、もっと凶悪に見えるでしょうね。もう二度と、私の手に触れようとは思わないでしょう。……それで良いのです。それが力を手にした、亜人族の代償です」


亜人族。

ユノは無意識に唇でその言葉をなぞった。


この世に人間の姿をした人間ではない生き物がいるなんて、ユノは知らなかった。今でも信じられない。しかし、目の前にあるアリーズの手が何よりの証拠だ。

アリーズは、人ではない。


「…………怖くないと言ったら、嘘になる」


ユノは震える手を胸の前で握り合わせた。

拒絶されたアリーズは、悲しげに顔を伏せる。しかしどこか、ホッとしたような様子も見せた。打ち明けたことで、胸のつかえが取れたのだろう。


「……でも、もし、あなたが許してくれるというなら……あなたの手に、触れてみたい」


「!」


アリーズがハッと顔を上げる。

ユノは苦々しく微笑んだ。


「怖いわよ。すっごく怖い。……でもそれと同じくらい、知りたいと思う。アリーズのことを……信じたい。それがあたしの、嘘偽りのない気持ち」


そっと手を伸ばし、アリーズの硬く鋭い爪に触れる。アリーズはピクっと指先を震わせたが、そのままユノの好きに触らせた。

銀色の体毛は、思っていたよりも柔らかい。手の平の深い皺をなぞると、アリーズは擽ったそうに目を細めた。


「羨ましい……。あたしにもこの手があったら、自分で自分のことを守れたのに。あたしには鋭い爪も、牙もない」


「私が守ります。私が盾となり矛となり、奥様の身の安全を保証します」


アリーズの手が、壊れ物を扱うようにそっとユノの手を包む。


思えば出会ったときもそんなようなことを言っていた。この世に絶対の保証なんてないはずなのに、アリーズが言うと信憑性がある。


「…………馬鹿ね。選ぶ主人を間違えたわよ」


ユノは笑って、アリーズの手を自身の頬に寄せた。

温かい。凍りついた心が溶かされていくような気がする。


「あなた方は奇妙なご夫婦ですが、私はあなた方の愛のかたちが好きです。まるで母岩に包み隠された奥深くに眠る原石のように、じっと息を潜めて丁寧に取り出される時を待っている。私はその時を見届けたい。この爪は、この牙は、きっとそのためにあります」


アリーズは鋭い爪を内側に曲げて、太い人差し指でユノの手を取った。


「私はあなたの、獣になりたい」


ユノの滑らかな手の甲に、恭しく口付ける。

そのときのアリーズの姿はまるで、絵本の中の王子様のようだった。


「アリーズ…………」


いつの間にかアリーズから生えていた長いフサフサの尻尾が、左右に揺れていた。

ユノは笑って、アリーズを抱きしめる。ベッドから伸びた二つの影が一つになって、大きな獣のようなシルエットを落とした。


それは、この世で一番優しい獣の姿だった。

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