花壇
ユノは朝日が昇ると共に目を覚ました。
着替えを手伝いに来たアリーズに背中のリボンを結ばせて、意気揚々と廊下を歩く。向かったのはバラの咲く庭だ。
予想通り、ドーランとエドワードが手入れをしていた。
「やることがなくて暇だから、手伝ってあげるわ」
ユノはふふんと鼻を鳴らす。寝ぼけ眼のエドワードがぼんやりした顔で「ほぇ?」と鳴いた。
じっとドーランを見つめると、ぽかんとしていた顔がすぐにくしゃっと笑む。
「それならばちょうど、花壇に空きがございます。そこを奥様の好きになさってみたらどうです?」
「まぁ……それでいいわ」
頷いてしまってから、思えばドーランを相手にするとすべて彼の思う方向に変えさせられている気がした。この老人、温厚そうに見えて只者ではない。
ドーランは自分の横でうたた寝している見習いに、あえてか静かな声で話しかけた。
「エド。庭師として、お前に初めての仕事じゃ」
気付かないのではとユノは思ったが、予想に反してエドワードは目をくわっと見開いてドーランに詰め寄った。
「え……!?俺が、一人で庭を……!?」
「たわけ。奥様の花壇の手伝いじゃ」
「え、奥様の花壇?」
エドワードはぱちぱちと瞬きを繰り返してユノを見つめた。頭のてっぺんが寝癖で角みたいに立っている。
「何よ。不満?」
いつも以上に間抜けな庭師見習いをじとっと睨み付ける。
エドワードはぱぁっと顔を明るくさせて、噛み締めるようにぎゅっと拳を握り締めた。
「逆だって逆!ああっ、ついに俺も庭師の仕事を任せてもらえるのか……!やった!」
「はしゃいで失敗したらお仕置きじゃぞ」
「任せろってじっちゃん!」
「はぁ……師匠じゃろうが……」
「……師匠!」
ドーランはやれやれと顔を押さえたが、犬のようにブンブンと尻尾を振るかのように喜ぶエドワードを前にして、釣られて少しだけ口角を上げた。
納屋から花の種をいくつか持ってきたエドワードは、庭先のテラスに移動したユノの前に小袋を並べた。
ちなみにドーランは自分の仕事へと戻った。
もしかして体良く押し付けられたのではと気付いたのは、間抜けなことに今になってだ。やはりドーラン、見くびれない。
「この時期なら、主にこの辺りだな。好きなのを選べよ」
「好きなのって……種を見ただけじゃわからないわ」
「そう言うと思って。ほら、図鑑だ」
エドワードは脇に抱えていた本をテーブルに置いた。少し土が舞ったような気がして、ユノは顔を顰めた。
傷んだ緑色の表紙を捲って驚く。
この本は図版も文章もすべて手書きだ。何度も後から書き加えて校正されている。
「もしかしてこれ、エドが?」
「まぁな。師匠は手取り足取り教えてくれるわけじゃない。だから自分でちゃんと観察と分析をして、花との付き合い方を学ばないといけないんだ」
エドワードはどこか誇らしそうに胸を張った。
これはエドワードの努力の結晶だ。擦り切れたページを捲る度に、込められた思いが指先から伝わってくる。
ユノは自分には触れる資格がないような気がして、壊れないようにそっとエドワードに返した。
「……どの辺を見たらいいか、わからないわ」
「あ、悪ぃ悪ぃ。えっと、今持ってきた種は……と、ここだな」
エドワードはユノに見せるように、ゆっくりとページを捲った。
文字がぎっしり書き込まれた章が続き、ふと赤い花に目が止まった。
「これ……。これがいいわ」
丸い葉が生い茂る中で大きく咲く赤い花を、指先で撫でる。筆致を追いかけて花の名前をなぞった。ナスタチウム。うん、これがいい。
赤い花が記憶の中の双眸と重なろうとしていたとき、エドワードがプッと噴き出した。
ユノはキッときつくエドワードを睨み付ける。
「なによ」
「いや……食用花を選ぶなんて、やっぱあんた様はさすがだな」
ハッとして花の周囲に書かれた概要を読むと、確かに食用のハーブと書かれていた。そんなことで選んだわけではないのに。
きゅっと唇を噛んで瞳で抗議すると、エドワードはケラケラと笑った。
「……アリーズ。こいつ蒲焼きにしましょう」
「ちょっ!やめろ!悪かったって!謝るからそのナイフをしまえ!な!?」
シャキンとナイフを構えたアリーズを前に、エドワードは半泣きで両手を挙げた。フン、ざまぁみろ。
気が済んでアリーズにナイフをしまわせると、エドワードはぐったりとした様子で肩を落とした。
「ホントにここの女連中ときたら……。まぁ食うのも楽しみの一つだ。よし、これにするか」
気を取り直したエドワードは、図鑑をぐっと顔に近付けた。
「えっと、ナスタチウムは……っと、まずは種を水に浸して外側の皮を剥いて……それから種まきだな」
「土にまいて水をかけるだけじゃないの?」
「おいおい、植物を甘く見ちゃいけねーぜ。狙った通りに綺麗に花を咲かせるって結構難しいんだよ」
「ふぅん……」
「つーか奥様、そんな格好だと汚れちまうぞ」
「別に…………あ、ダメね。これはアリーズにあげるんだった」
思い出したように呟くと、エドワードはきょとんとアリーズに目を向けた。「……なんで?あんたが、あれを?」アリーズもまた小首を傾げる。「私にもよくわからんが……」二人の頭上に疑問符が飛び交った。
「使用人の服ってまだ余っているんでしょう?それを貸してちょうだい」
「えぇっ!?奥様が使用人の服を着んのは、ちょっとっつーか、かなりマズイだろ」
「いいじゃない。ここのメイド服って結構可愛いし。前にそれっぽいのを着たことあるけど、やっぱり本物は質が全然違うわ」
アリーズが意外そうに瞬きをした。
「奥様にも給仕のご経験が?」
「主に夜のね。多くの男達をこの手で仕留めてきたわ」
アリーズは何か勘違いしたようで、畏怖と尊敬に目を輝かせていた。
一方で、事情を知るエドワードは肩を落とし、やれやれと顔を押さえた。
「あんた様ってほんっとに……そういうとこだよな……」
ユノは日が昇るより先に起きて、タンッタンッとリズム良く階段を駆け下りる。一階のテラスのある部屋に入り、一直線に窓辺へと向かった。
レースカーテン越しに朝日が降り注ぐ。
ユノは窓辺に並べた植物ポットの前にしゃがんで、目を大きくさせた。
そして、浮き足立つままに使用人部屋へと走った。
「エド!起きて、エドワード!大変よ!」
ベッドが大きな割合を占める手狭な部屋で、エドワードは呑気に寝こけていた。
ユノはエドワードの胸倉を掴み、ブンブンと前後に揺さぶる。心地よい眠りから叩き起されたエドワードは、ぼんやりした顔でユノを見つめた。
「ぅん……?おれ、蛇じゃねぇって……食うなよ……フフ……」
「いつまで夢見てんのよ!いいから来て!」
徐々に瞬きの間隔が開いていくエドワードの腕を掴み、ユノはぐいぐいと廊下を進む。途中曲がり角でわざとエドワードを引っ掛けてやると「ぐぇっ」と蛙を潰したような声がした。
ユノはエドワードを植物ポットの前に突き出した。手の平サイズのポットは合計八つ。ユノが一粒ずつ種をまいた。
「ねぇ見て。葉っぱがフサフサよ」
ユノは興奮気味に言う。ポットの六つからぴょこぴょこと新芽が伸びていた。
漸く眠気から目覚めてきたエドワードは、欠伸混じりに丸い双葉を軽く指先で摘み、健康状態を確認する。
「あんたな……早く花壇に植えたいからって、毎朝俺を叩き起すなよ……」
じとり、寝間着姿のエドワードから非難の目を向けられる。
実は発芽したのは数日前だ。その日もユノは明け方にエドワードを叩き起していた。
てっきりすぐにでも花壇に植えられると思ったが、まだ若いとして数日様子を見ることになった。それからユノは連日エドワードを叩き起している。
ユノはニッコリと笑顔で受け流した。
反省する気はゼロと見たエドワードは、深くため息を吐いて額を押さえる。
「この調子じゃ、水のやりすぎとか肥料のやりすぎとか、色々心配だな……」
「頼りにしてるわよ、あたしの庭師さん?」
『庭師』という呼称に、エドワードはわかりやすく頬を赤くしてそっぽを向いた。
「……まぁ、そろそろ花壇に植えてもいいか。ところで俺は着替えてきてもよろしいですかね?」
「ええ。いってらっしゃい」
嫌味っぽく唇を歪めたエドワードは、欠伸を噛み殺しながら踵を返した。それと入れ替わりにアリーズが現れる。寝起きでもアリーズの紫目はぱっちりと冴えていた。
ユノもアリーズを連れて自室へと戻り、着替えを済ませた。選んだのは、動きやすさと公爵夫人としての最低限の身だしなみを加味した、近頃城下で流行りだという膝丈のワンピースドレス。フェリが残した伝を使って取り寄せた。
いつも通りアリーズにはリボンだけを結ばせる。不器用なアリーズに出来る手伝いはこれだけだった。
「今日は庭仕事をするから、アリーズは風呂と食事の準備をしといてくれる?きっとお腹が空くからたくさん用意してくれると嬉しいわ」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げるアリーズと部屋の前で分かれ、ユノは鼻歌交じりに庭へと向かった。
花壇に行くと、すでにエドワードがスコップや肥料の準備を済ませて待っていた。男の身支度というのはどうしてこんなに早いのだろう。しっかり寝癖まで直っている。
ん、と手袋を渡された。
「ナスタチウムは横に広がるから、間隔を開けて植えるんだ」
さっそく植え付けに取り掛かる。花壇の前に二人で屈んで、エドワードの指示を受けながら黙々と作業をした。
ユノは時折エドワードの横顔を盗み見た。
花の育て方を丁寧に語るエドワードの表情は真剣そのもので、やはり彼も庭師なのだと思わされる。
不意にエドワードの顔がユノの方を向いて、慌てて苗に土をかけた。勢いが良すぎて葉っぱまで埋まりそうになってしまう。
エドワードにクスクス笑われて、ユノは頬を熱くした。
「……これが食える頃には、旦那様が帰って来てるといいな」
優しく葉を撫でて、エドワードが呟く。
それはユノを思っての言葉ではなく、エドワード自身の心の呟きのように聞こえた。
エドワードはアルベルトから、酷い仕打ちを受けていたのに。
「…………。ねぇ、立たせてくれる?」
ユノが上目がちに懇願すると、きょとっと丸くなった灰色の瞳が花壇からユノへと移る。
エドワードは少しだけ躊躇うように視線を逸らしたが、次にはユノを案ずるように表情を柔らかくした。
「……ったく、あんた様は仕方ねーな」
前にもそうしたように、エドワードはユノの膝の下に腕を回して、力強く抱き上げた。ふわっと体が浮く。
ユノはそのタイミングでエドワードの首にしがみついて、ぎゅっと体を寄せた。
「お、おいっ……!」
急に抱きつかれたエドワードは体を強ばらせ、困惑の声を上げた。手を離すわけにもいかず、ユノを横抱きにしたまま数歩たたらを踏む。
「……優しくされたら、優しくしてあげる。どうしてかわかる?」
「……感謝には感謝を、ってやつか?」
「違うわ。もっと優しくしてもらいたいからよ」
ユノは振り落とされないように腕に力を込め、エドワードの首筋に顔を寄せた。首筋からは土とミントの香りがした。
「優しくされて、優しくして、また優しくされて……。それを繰り返していたら、傷付けられることはないから。暴力がどこか遠くに行って、優しさだけが続いていくから……」
顔を上げて、至近距離からエドワードの瞳を見つめた。透き通った灰色の瞳が、ユノを映してすっと開く。
「ねぇ、エド。あなたはいつか、あたしを許せなくなる時が来るのかしら。いつかあたしを……傷付けるのかしら」
ユノは目を逸らすことを許さないように、頬に手を添えた。しっかりと自分と向き合わせて、真意を探る。
「…………俺は……いつかなんて、わからない」
やがて吐き出された言葉は、ユノの望んだものではなかった。
てっきりエドワードなら約束してくれると思ったのに。
落胆して顔を伏せたユノに、でも、とエドワードは続ける。
「俺の、庭師としての初めての仕事は、あんたの花壇の手伝いだ。庭師は絶対に庭を見捨てない。一度手を付けた仕事は、最後までやり通す。だから、なんつーか……」
エドワードは首をぐるぐると回して視線を彷徨わせた後、覚悟を決めたようにきゅっと眉を寄せてユノと目を合わせた。
「あんたがこの花壇に絶やすことなく花を植えていれば、俺は必ず枯れさせない。それだけは絶対だ」
今度はユノが瞳孔を開かせた。
目も口もぽかっと開くユノを、エドワードはクスクスと肩を揺らして地面に降ろす。ユノは何か言おうと口を開いたが、何も出て来なかった。
代わりに、笑顔が零れ落ちた。
左右対称でもないし、計算された美しい角度でもない。思わず溢れてしまった、不良品のような歪な笑顔。
それを見たエドワードは、どこか誇らしそうに目を細めた。




