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口付けは焼けるほどに熱く

メルヴィンを見送る頃には、雨はすっかり止んでいた。

日が暮れると空に丸い月が浮かび、煌々と地上を青く照らす。


ユノは夕食もとらずに二階の窓辺から門の方角をじっと眺めて、アルベルトの帰りを待っていた。


会って何を話せばいい?どんな顔で迎えればいい?


わからない。考えたくもない。

それなのにどうして、アルベルトを待ち侘びている自分がいる。メルヴィンに当てられたのだろうか。


すべての答えは、アルベルトの顔を見たときにわかるだろう。そんな予感から、ユノはアルベルトを待ち続けた。


「奥様」


睡魔に意識を半分持っていかれていたユノを、そっとアリーズが呼び起こす。


「旦那様がお帰りです」


ハッと窓に顔を寄せると、確かに門が開いていた。広い庭を馬車が走っている。

ユノは大急ぎで玄関ホールに走った。


帰宅したアルベルトは、今朝出掛けたときと何の変わりもなかった。

表情に疲れは微塵も見せず、ユノを目に止めると穏やかな微笑を浮かべる。

これが本当に、これから危険な橋を渡りに行こうという人間だろうか。


「アルベルト様…………」


ユノは何の用意もせずに出てきてしまったことを後悔した。続く言葉が思い浮かばない。

黙り込むユノの代わりにアルベルトが口を開いた。


「どなたか、屋敷にいらっしゃいましたか?」


ユノは目を丸くした。どうしてわかったのだろう。


迷ったが、ユノは正直にメルヴィンが来たことを伝えた。

しかしアルベルトはそれすらも知っていたかのように、楽しげに笑みを深くする。


「そうでしたか。いやはや、慕われるというのもなかなか困り物ですね」


「…………アルベルト様は、大丈夫……なんですよね?」


ユノはアルベルトの裾を掴んで、真意を探るように瞳を見上げた。

アルベルトは知っているのだろうか。ウォルクが命を狙っていることを。ユノもまたアルベルトの失脚を望んでいることを。全部わかってて、それでなお笑っているのだろうか。


アルベルトはユノの問いには答えず、側で控えていたフェリを呼んだ。


「ユノにあれを。私は一人で平気です」


ユノには何がなんだかわからなかったが、フェリは理解したようだった。不安気に見上げると、アルベルトは柔らかく微笑んでユノの頭を撫でる。


「支度が済んだら、二階の広間に来てください。お待ちしております」


困惑するユノを残し、アルベルトは一足先に去っていく。訳知り顔のフェリを見ても、珍しく表情を綻ばせているだけで何もわからない。


「なに、あれって。支度ってなんの?」


「きっと、素敵な夜になりますよ」


フェリはそう微笑むばかりで、何も教えてくれる気配がない。

仕方がないので、ユノは大人しくフェリに従った。




二階にある広間は屋敷の中で一番天井が高く、アンティーク調のシャンデリアが吊るされていた。照明が抑えられていることで、立ち並んだ大きな窓から差し込む月明かりが一等美しい。


既に待っていたアルベルトは、現れたユノの姿を目にすると一瞬動きを止めた。

そして次に、ゆるりと頬を緩めて笑う。


「…………貴女は本当に美しい、私のユノ」


ユノは幾重ものレースを緻密に重ね合わせて作られた、純白のドレスを纏っていた。首筋から肩まで大胆に露出し、体型を強調するようにきつくコルセットが締められている。


そのような性を感じさせる格好をすると、ユノの美はたちまち不健全なものへと変わる。

しかしドレスが無垢な白をしていることで、邪な性質が入り込むことはなかった。むしろこれこそがユノの真価とでもいうように、惜しみなく肉体の美しさを誇示している。


ふんわりと広がるスカートを持ち上げて歩きながら、ユノはベール越しにアルベルトを見上げた。

アルベルトもまた、見慣れない白い衣装を纏っている。見比べるまでもなく、ユノと揃いの格好だ。


「どうして……?」


ユノはベールの下で瞳を揺らした。

よりにもよって、どうして今。


──どう見てもこれは、花嫁衣裳だ。


「指輪と共に、私からのささやかな贈り物です」


アルベルトは恭しくユノの左手を取り、その薬指で光る真紅の宝石に口付けを落とした。


「今宵貴女が美しいことを、私だけが知っている。その幸福に心より感謝を」


悪戯っぽく微笑んだアルベルトは、そのままユノの手を引いて自身の胸に飛び込ませるようにして、細い腰に手を添えた。


「踊りましょう、ユノ」


「ちょ、ちょっと!あたし、踊りなんてっ……!」


「ハハ。私のでよければ、いくらでも足を踏んで構いませんよ」


慌てるユノに構わず、アルベルトは優雅にステップを踏む。ユノは何度も躓きかけたが、その度にアルベルトがフォローをした。


奏者もレコードもないはずなのに、アルベルトと繋いだ手から音楽が身体に流れ込んでくるような気がした。

恐る恐るユノが身を委ねると、驚くように滑らかに二人の影が一つとなって踊り出す。


見上げるアルベルトの瞳の美しさに、ユノは自分がすでに操られているのではないかと思った。

もしそうだったとしても、今はどうでもいい。

それよりユノが気になるのは、もっと別のこと。


──この不可解な物語の、始まりの理由だ。


「どうしてあなたは、あたしにだけ優しいの?」


月明かりによって照らし出されたアルベルトは、神秘的な美しさを秘めていた。ここまで月が似合う男をユノは見たことがない。

しかし、月明かりでは照らせぬほどの暗い夜の闇が、アルベルトの半身を覆っている。


「あなたは冷酷非道な魔王と恐れられる、恐ろしい人。それなのにどうして、あたしにはこんなに優しくしてくれるの?」


ユノは月明かりに照らされた反対側の、暗い陰が落とされた頬に手を添えた。

夜の中にあっても色を変えない赤い瞳が、真っ直ぐにユノを見下ろす。


「…………本当はここで、貴女を手放さなければならないんでしょうね」


アルベルトは困ったように眉を下げて、小さく笑った。


「ですがどうして、手を離すことが出来ない。貴女を引き止めたいと、強く願う自分がいる」


繋いだ手に、力がこもる。


ユノは足を止めた。釣られてアルベルトもダンスを止め、二人はぴたりと身体を寄せ合いながら互いの瞳を見つめる。


「…………あなたは本当に、あたしを愛してるっていうの?」


ベール越しでよかった。


こんなことを真正面からアルベルトの赤い瞳に問うのは、ユノでも勇気のいることだった。


永遠にも思える沈黙が落ちる。


やがて薄く微笑んだアルベルトは、不意にユノの肩口に唇を寄せた。


ユノは咄嗟に身を逸らした。

アルベルトが顔を寄せたのが、左肩だったから。


恐る恐る顔を上げると、アルベルトはユノを見つめていた。

は、と息を呑む。

アルベルトの瞳の奥が、雪を溶かしたように温かく揺らいでいたから。


ベール越しに瞳を射抜かれて硬直すると、アルベルトは今度こそユノの左肩に唇を押し当てた。


触れた唇は人のものにしては冷たかったのに、口付けを落とされたところが熱を持ち、ドクドクと沸騰した血液が全身へと広がっていく。

まるで煮え湯を浴びせられたときのように、熱く、熱く。


「運命だと思いました」


アルベルトはユノの左肩に目を落とし、愛おしむように指先で撫でた。そこには何もないはずなのに、火傷跡を触られているようで落ち着かない。


「あの日何者でもなかった私達が、こうして互いに手を取り合っている。これが運命でなければ、他に何と呼べばいいのでしょう」


再び視線が交わる。

ベール越しでなければ瞳が火傷をしそうなくらい、アルベルトの視線が熱い。


「……またそうやって、誤魔化そうっていうの?」


「そういうわけではありません。ただ、本当に……私は驚いたんです。こんな偶然が有り得るのかと」


「さっきから、一体何を…………」


「私は貴女のここにあったものを、知っています」


左肩をやわく撫でられる。

アルベルトの言葉の意味を、すぐには理解出来なかった。


何度か頭の中で反芻して、その真の意味を理解したとき、ユノは足元がぐらつくような感覚に襲われた。


大きく目を見開いて、アルベルトを凝視する。


「どうして…………」


アルベルトは何も言わずに待っている。

ユノが自ら答えに辿り着き、それを口にすることを。


「まさか、あなただったとでもいうの……?」


信じられないことだ。

でも、現実に起こっている。


「あなたが…………あたしを、魔法で助けてくれたの?」


正解を導き出したユノに、満足そうに大きく頷くアルベルト。

この屋敷に来てから、ユノはアルベルトに読み書きを習っていた。そのときも、ユノが正しく文字を書き取れるとこんな顔をしていた。


あのときはどうでもいいと思っていた。まるで子供を相手にするかのような甘ったるさに、嫌気すら感じていた。


なのに今は、向けられる微笑みから目を逸らすことが出来ない。


「うそ…………」


「あの時の貴女は、大火傷によって生死の淵を彷徨っていましたから。覚えていなくても無理はありません」


「そんな……。そんな、偶然……」


「──出会うべくして出会った。結ばれるべくして結ばれた」


それはいつだか、アルベルトがガドラー元帥に向けて言った言葉だ。いつものキザったらしい、役者じみた台詞。


しかしそれは方便などではなく、まさか本当に、アルベルトの胸にある真実の言葉だったとでもいうのか。


「ユノ。私は貴女に、導かれたんです」


愕然とした。


今まで何度も縋ってきた。心の拠り所としてきた。顔も名前も知らないからこそ、ユノにとっては神様のような存在だった。

何者でもなかったユノの、たった一つの宝物のような記憶。


まさかそれが、アルベルトだったなんて。


よりにもよって、それを今、知ることになるなんて。


「……それなら、どうして……。どうしてもっと、早く言ってくれなかったの……?」


「すみません。ですがいきなり、貴女を治癒したのは私だと名乗りを上げるだなんて、いかにも格好が悪いでしょう?」


「………………まさか、あなただったなんて……そんなことって……」


信じられない。信じたくない。


ユノはあの日に救われた。癒されたのは火傷だけではなかった。

熱い。左肩が熱い。煮え湯を浴びせられたときよりずっと熱くて、痛い。


「言うつもりはなかった。もし打ち明けるとしても、それはもっと先のことだと……。少なくとも、こんな時に告げるべきではないことです。そう、わかっているのに……」


アルベルトは瞳を揺らし、ユノの左肩を親指で撫ぜる。

擽ったいほどに優しい手付きなのに、ユノは表情を失っていた。


「私は使者としてグランキシュル王国へと向かいます。恐らく危険な旅となるでしょう。しかし必ず、この手で戦争を終わらせてきます。……ですからどうか、待っていてくれませんか?」


ユノは自身の胸を見下ろした。ぽっかりと穴でも開けられているんじゃないかと思ったが、二つの膨らみがあるばかりだ。


どうしよう。

いつものあたしは、どんな風に笑っていたっけ。

こんなとき、どんな言葉を返したっけ。


思い出せ。あたしは誰だ。


「…………愛した男と再会の約束をするとき、娼婦は自分の身体の一部を、相手に贈ったそうです」


ようやく出てきたのは、自分のものとは思えない、弱くたどたどしい声だった。


「……どうかあたしの一部を、貰ってください」


エメラルドのような緑色の瞳で、切なくアルベルトを見上げる。


目でも、指でも、心臓でも、好きにしてくれ。

この胸の苦しみに比べたら、犯した罪の重さに比べたら、どんな痛みも耐えられる。


暴力だ。暴力が、欲しい。


「それなら……貴女の髪を一本だけ、いただけますか?」


ユノはゆっくりと瞼を下ろした。


心底失望した。

目の前の男に。自分自身に。


ユノは自身の髪を引き抜いて、アルベルトに差し出した。月明かりを受けて金色に輝くストロベリーブロンドの髪を、アルベルトは宝石のように大切に手の中に収めた。

次には何を思ったか周囲を見回し、マントルピースに目を止めて足を向ける。


アルベルトは金属の装飾が施された小さな香水瓶を手に取ると、指揮を執るように指先を動かした。すると、宙に浮いた香水瓶がぐにゃぐにゃと形を変えていく。


あっという間に香水瓶は形を歪められ、小ぶりなガラス玉のネックレスへと変貌した。玉の中にはユノの髪が均一な渦を描いて収まっている。


声も出せずにただただ目を見張るユノに、アルベルトはニッコリと微笑んだ。


「物質の変形は、私の最も得意とする魔法ですから」


以前メルヴィンが指揮者のように腕を振って部屋を片付けていたときも驚いたが、アルベルトがしてみせたこともユノの想像を遥かに超えている。


これが、魔法の力。


「指輪だと戦闘時に邪魔ですから。これならば、肌身離さず身に付けると約束します」


アルベルトはネックレスをユノの手の中に落とした。

青く染まる室内で、ガラス玉の中のストロベリーブロンドは角度によって絶えず色を変化させている。アルベルトの瞳は依然として、赤々と輝いているというのに。


「ユノ。私の首に掛けてくれますか?」


「ええ……喜んで」


ユノはアルベルトの首に追い縋るように手を伸ばし、ネックレスを掛けた。互いの唇がベール一枚を隔てて近付く。


向けられる熱い視線に、ユノはキスをされるんじゃないかと思った。

しかしアルベルトは胸元で光るユノの一部を見て、満足そうに目を閉じて笑うだけだった。


ユノは、笑い返せただろうか。


あの日の、まだ何も知らなかったただの小娘に戻れたら、どれほどいいだろう。


あの日に戻りたい。

あの日の、何者でもなかった自分に。


汚い路地で廃棄物と共に転がり、絶望と火傷で死に向かっていたユノは、もうどこにもいない。


アルベルトの前にいるのは、あの日のユノじゃない。彼を利用して己の欲望を満たそうとする、卑しい娼婦だ。


確かにユノとアルベルトは、一度同じ道で出会ったのかもしれない。しかし今の二人は、道を外れて随分と遠いところまで来てしまった。

もしかしたら、ユノの歩む道の先にこそ奈落が待ち構えているのかもしれない。


ユノは静かに目を閉じた。


アルベルトの赤い瞳からも、自身の未来からも、そっと目を背けるように。


この夢のような一夜を、切り取って閉じ込めるように。

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