星を摘むような話
ウォルクと別れて呆然と廊下を歩いていたユノの肩を掴んだのは、アリーズだった。
驚いて声も出せないユノを、アリーズはどこかホッとしたような顔で見つめる。
何かがおかしいと思った。そうだ、アリーズはいつも表情を出さない。
「旦那様とはお会いになれましたか?」
声さえもいつもより穏やかだった。兄と会えたことがそんなに嬉しかったか。
ユノは手の平に爪を食い込ませ、ふっと力を抜いた。
「今日はもう疲れたわ。帰りましょう」
ユノはさっさと馬車に乗り込み、アルベルト邸へと走らせた。窓から見上げた空は夜の青が優勢で、ぽつぽつと星が瞬き始めている。
清浄な空気で覆われた王都の空は、背筋が凍えるくらい見え過ぎる。
娼婦街の空は、もっと低かった。いつも靄みたいなものに覆われて星なんて見えやしない。だから誰も空なんて見上げなかったし、重たい空気に押されるようにしてみんな背中を丸めていた。
王都の人間は背筋がいい。命の他に魂なんていうものを見出して、ご立派に生きている。同じ地続きにあるはずなのに、こんなにも世界が違う。
魔法だ。ユノは左肩を撫でた。
姉に煮え湯を浴びせられて大火傷をしたとき、誰かがユノを治療した。どんなに腕のいい医者だって、跡形もなく傷を消すことなんて出来ない。
だからきっと、魔法を使ったんだ。見ず知らずの誰かが道端に転がっていたユノなんかのために、高潔な魔法を。
信じられないことだ。でも現実に起きている。
奪う奪われるが当たり前の世界で生きてきたユノにとって、そのたった一度の出来事はとても衝撃的だった。とりわけまだ自分が何者でもなかった時代ということが、ユノの胸を甘く締め付ける。
そうだ、魔法だ。貴族達には魔法があるから、怪我など大したことではないのだ。
どんな暴力も魔法であっという間に癒えてしまう。だから命よりも誇りを大切にする。通りで逆立ちしたって手に入らないはずだ。
「本日はありがとうございました」
急にアリーズから声をかけられて、ふっと意識が引き戻される。
ユノは視線を窓からアリーズに移した。斜め前で姿勢よく座るアリーズは、真っ直ぐにユノを見つめていた。
初めて会ったときからそうだ。アリーズは他人を真正面から見る。
元から嫌に眼光が鋭いくせにそんなことをするから、例え後ろめたいことがなかったとしてもつい目を逸らしてしまいたくなる。目を合わせてしまえばあっという間に両目を射抜かれて、頭の中を隅々まで覗き見られそうだ。
「長く兄は軍から離れられないでおりましたから。兄と語らうことが出来て、本当に幸せでした」
「………………別に。あたしのためにしたことよ」
そう、アリーズのためなんかでは決してない。
すべては自分のため。アルベルトを欺き、ウォルクを利用し、今より良い地位に成り上がるためだけにユノは動いている。
そう、これは自分のためにしてること。
「アルベルト様は、近く戦場へ赴かれるそうよ」
ユノは貴族のようにピンと背筋を伸ばし、真っ直ぐにアリーズの双眸を見つめた。
これまで多くの男達を騙してきた。アリーズのような武芸一本の女を騙すくらい他愛ない。ユノの取り柄は持ち前の美貌と磨き抜かれた演技力だ。
「アリーズ。あたしの従者になってくれないかしら?」
ユノは眉を垂らし、不安で堪らないという表情を作った。突然のことに困惑するアリーズの手をサッと握り、指先を不自然にならない程度に震わせる。
「それは……失礼ながら、どういうことでしょうか?今の状態がそうだと思うのですが」
「アリーズはアルベルト様の命令であたしについているけれど、彼がいなくなったらあたしに仕える理由がなくなってしまうでしょう?だからあたしを主人にしてほしいの。もしアルベルト様の身に何かあったら、あたしには縋れるものがないから……。勿論、相応の報酬は出すわ」
ユノは味方が欲しい。自分を慰めてくれる味方ではなく、武力をもってユノの敵を叩き潰してくれる強い味方が。
ただの口約束でもアリーズには効力がある。一度取り交わした約束をアリーズは決して破りはしない。それがアリーズにとって命よりも大切なプライドだ。
だから誓え。ユノの物になると。
「………………。もし、万が一ですが…………旦那様が戦死なされた場合でしたら、正式に奥様にお仕えすることは可能です」
「今すぐにではダメかしら?不安なの」
「それは不可能です」
アリーズは芯の強い瞳でユノを見据え、はっきりと告げた。静かな声だったが、ユノは獣の一喝を浴びたような気がして身を竦ませた。アリーズの持つ他者を蹂躙するような威圧感に、ユノは慣れていない。
昔、屍肉を貪る野犬と遭遇したことがある。目が合ったユノは息が出来なくなった。その場から動くことも出来ずにいると、野犬は死体の腕を咥えてどこかへと消えた。
アリーズを相手にすると、あの時の感覚を思い出す。どうしようもない脅威と遭遇してしまったときの、あの強い恐怖感を。時折口から覗く八重歯が常人のそれより鋭いことも、ユノの心臓を縮み上がらせる要因の一つだった。
「……どうして?」
やっとのことで絞り出すと、アリーズは突然胸元のリボンを解いた。ユノがギョッと目を剥く前で、構わずシャツのボタンを外していく。
「ちょ、ちょっと。脱げなんて誰も言ってないわよ」
見せられても困らないため見るには見るが。
胸元を広げられてようやく、アリーズの意図を理解した。
月明かりに照らされたアリーズの褐色の肌、その胸元──心臓の辺りに、赤黒い紋様が刻まれている。見たこともない装飾的な円形の図形だったが、本能的に悍ましさを感じた。
「それ…………」
「奴隷紋です」
言葉そのものにはピンと来なかったが、それがとても恐ろしいものであることは察しられた。
息を呑むユノに、アリーズは淡々と告げる。
「私は旦那様と奴隷契約を交わし、旦那様の命令に忠実な下僕となりました。契約によって私の体は旦那様の支配下となったため、旦那様に背くことは契約上不可能です」
「…………なに、それ……。使用人達は、みんなそんなことをさせられているの……?」
「恐らく私だけかと。奴隷紋は古代魔法の一種で扱える術者は少なく、現代ではその性質から魔法倫理に反するとの意見もあり、使用は控えられています。私の場合は合意の上であり、その分報酬を弾んでいただいておりますので」
「そこまでして…………」
ユノはハッと口を噤んだ。どうせこの女は、家族のためなら命だって捨てられると嘯くのだ。
意外にも、その先の言葉を続けたのはアリーズだった。
しかも、ユノが思いもしなかったことを。
「そこまでして、旦那様は奥様のことを愛していらっしゃるのですね」
愛。
そんな単語がアリーズの口から出るとは思わなかった。
奴隷契約をしてまで家族のために働くアリーズ。
奴隷契約をしてまでユノを守ろうとするアルベルト。
この両者を繋ぐものが、愛?
アリーズの目的はシンプルに金だ。家族のためという理由はあれど、金が欲しいというのはよくわかる理屈。金を積まれれば動く人間というのはユノも嫌いじゃない。
わからないのはやはりアルベルトだ。何故アルベルトはユノにだけ優しい?ガドラー元帥には皮肉を飛ばし、エドワードには裏拳を飛ばし、アリーズには奴隷紋などという非人道的契約までさせるくせに、どうしてユノにだけ……。
かつて気まぐれのように軍人を辞めようかと嘯いたのは、彼の本心だったのだろうか。ガドラー元帥にそれとなく王都に残れるよう進言したのは、ユノと離れたくなかったから?
わからない。アルベルトの言動には熱がない。
間違いなくアルベルトは腹に何かを隠している。
それがまったく見えないのが、怖い。
「………………本当にこれが、愛だっていうの?」
ユノは自身の左手の薬指で光る赤い宝石を、窓の向こうで煌めく星々に翳した。こんなにも近くにあるのに掴むことができない星と、血のように赤いこの石は似ている。
アルベルトは夜空の星と同じだ。そこにあって地上に光を落としながらも、決して自らの心臓に触れさせたりはしない。
ユノにも魔法があれば、あの星に手が届いただろうか。




