新たなメイド
朝起きて食堂を訪れたユノを、アルベルトは満面の笑みで迎え入れた。
「おはようございます、ユノ。お待ちしておりました」
ユノはアルベルトの隣に立つ見知らぬ人物に内心警戒を強めたが、表向きは穏やかな微笑を浮かべた。
「おはようございます、アルベルト様。そちらの方は?」
「ユノの専属メイドです」
アルベルトに促されて一歩前に出た少女は、凛々しい顔付きのまま頭を下げた。洗練されたその動きは、メイドというより軍人のようだ。
「アリーズ・エイゲンヤードと申します。不束者ですが、誠心誠意奥様のお役に立たせていただきます」
浅黒い肌に銀色の髪をしたアリーズという少女は、無愛想といってもいいほどに無表情をしていた。フェリのような押し殺した無表情ではなく、アリーズ自身が無感動で凍り付いた表情筋をしているようだ。
ユノは内心、やられたと思った。
やられた。昨日の今日でこれだ。アルベルトはユノの心の中を覗き見でもしているんじゃないだろうか。
アルベルトを裏切っていることに、既に気付かれている?専属メイドはユノの監視役?いいや、そんなはずはない。
ユノは気持ちを切り替えてニッコリと笑った。
「こちらこそ、どうぞよろしく」
アリーズは相変わらずピクリとも頬を動かさなかった。
場をとりなすようにアルベルトが笑う。
「屋敷には使えるメイドがフェリしかおりませんから、これまで何かとご不便をおかけした事でしょう。新たなメイドをすぐにでも手配したかったのですが、なかなか難航いたしまして」
アルベルトに奉公したいと思う人は少ないだろうな。
ユノは内心苦笑する。
「そんな時に、部下のサジ君からアリーズをご紹介いただきました。実は彼女、その部下の妹なんです」
「妹…………」
それって本当に紹介だったんだろうか。
ユノはその部下とやらに同情した。見上げた先のアルベルトはニコニコ胡散臭い笑顔を浮かべている。
「アリーズはこういった仕事は初めてで、至らぬ所はままあります。しかし軽く手合わせした所、アリーズが一番腕が立ちましたので採用させていただきました」
………………なんだって?
「ですよね、アリーズ?」
「はい。雑事は苦手ですが、腕には自信があります。奥様の身の安全は、このアリーズが必ずや保証いたします」
アリーズが静かに胸を張ると、アルベルトは満足そうに拍手をした。ユノは頬をヒクヒクと引き攣らせる。
ゴリゴリの戦闘要員じゃないか。やっぱりユノの裏切りに勘づいてるのか?
油断ならない。
ユノは冷や汗を浮かべながらも、唇を釣り上げた。
いいわ。やってやるわよ。
アルベルトを見送った後、アリーズはユノに向き直って軽く目を伏せた。
「奥様。お食事のご準備ができております」
「…………は?」
思わず低い声を出してしまったユノに構わず、アリーズは続ける。
「奥様は大食であられると伺っております。旦那様がお出掛けになられた後に、もう一度お食事をなさるのでは?」
「………………」
ユノはフェリを睨み付けた。フェリはあたふたと顔色を悪くさせて目を泳がせる。
「……このことは、アルベルト様もご存知なのかしら?」
「どうなのですか、フェリ殿」
「はっ、はぁ……いえ……わたくしは、何とも……。アリーズさんは奥様のことを思って、事前に奥様のご趣味についてをわたくしどもにお聞きになって……それで……わたくしはお答えして……」
「わかったわ。もういいから黙って」
ユノがすげなく言うと、フェリは申し訳なさそうに肩を縮めて深く頭を下げた。
アリーズはというと、真顔なのだかとぼけているのか、何も考えていなさそうな顔で突っ立っている。
フェリ一人にも手こずっていたのに、新しく来たメイドもなかなか手強そうだ。ユノはやれやれと頭を振る。
「食事はいらないわ。代わりにテラスで紅茶をいれてちょうだい。フェリは下がっていいわ」
ユノは二人の返事も待たずに庭に向かった。
ワゴンを押してテラスに来たアリーズは、覚束無い手付きで紅茶をカップに注ぐ。
頬杖を突いて見守っていたユノは思わず口を挟む。
「ちょっと。ちゃんと蒸らしたの?」
「ええ。三分ほど経過したと思いますが」
「サーブの位置が低いわ。もっと高く注ぐものよ」
「失礼いたしました」
ユノはフンと鼻を鳴らす。
この点、フェリは優秀だった。紅茶をいれるのもそうだが、細かなところまで気配りが利き、仕事には一切の抜かりがない。フェリはオールマイティーになんでもこなす。アルベルトが認めるのも頷けた。
アリーズはティーポットを頭上まで持ち上げた。
──どぼどぼどぼどぼ!
「ちょっ!」
紅茶はカップの中に収まりきらず、バシャバシャと周囲に飛沫を飛ばした。ワゴンは水浸しになり、アリーズの白いエプロンにも茶色い染みがポツポツと浮かぶ。
「申し訳ございません、奥様。火傷はなされていませんか?」
アリーズはユノの前に傅き、無表情にユノを窺う。
ピクピクとこめかみを痙攣させたユノは、カッとなってアリーズの胸倉を掴み上げた。
「あんたねぇ……!一体どういうつもり!?アルベルト様から何を命じられたのか知らないけど、こんな侮辱っ……!絶対に許さないわよ!」
ユノの剣幕にもアリーズは動じず、紫色の瞳でじっとユノを見つめた。
「申し訳ございません。私の不手際です。奥様のことを侮辱するつもりなど……」
不意に言葉を切ったアリーズは、一瞬にしてユノの手を振りほどいて立ち上がった。
振り向きざまに銀のナイフを投擲し、ユノを背後に庇う。
「ヒッ!」
屋敷の影から顔を出した人影は、顔面すれすれを横切って壁に突き刺さったナイフに、小さな悲鳴を上げた。
「誰だ」
低く呻くような声に、ユノも自身を庇うように肩を抱いた。
アリーズに睨まれた人影は、慌てて両手を上げて姿を現す。
「待て待て待て!俺はこの屋敷の使用人だ!奥様の怒鳴り声が聞こえたから来てみただけで……!」
聞き覚えのある声にユノが首を伸ばすと、そこにいたのはエドワードだった。
「アリーズ、あれは庭師見習いのエドワードよ」
ナイフを構えるアリーズに告げると、アリーズはもう一度エドワードの顔を見てからナイフを収めた。警戒は未だ解けたようではなかったが、一先ず肩から力を抜く。
「……あー、あんたが新しく来たっていうメイドか。随分とおっかねー女なんだな」
エドワードは緊張の反動か、いつも以上に砕けた口調で言って笑った。
「紅茶もいれられないメイドで困ってるわ」
「でも、ナイフの扱いは一流らしい」
軽口を叩いて、エドワードは壁に刺さったナイフを抜いてアリーズに渡した。大人しく受け取ったアリーズだが、エドワードを見る目は鋭い。
「…………私が至らないのは確かだが、貴様はなんだ。庭師見習いといえど、礼節を弁えろ」
「あー、あはは……。そりゃ俺も返す言葉がねーや……」
エドワードは眉を困らせて後頭部を掻く。
最後が最後だっただけに、ユノは気まずさから目を逸らした。
ユノはエドワードよりも自分の方が大切だ。それなのに、エドワードはユノの声を聞き付けて来てくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、苦しい。
エドワードの方も気まずいのか、チラチラと窺うようにユノを見た。
「なんでもないようだし、俺は、この辺で……」
背を向けたエドワードに何も声を掛けられなかった。
惨めだ。
ユノがぎゅっと胸を押さえて俯くと、アリーズが膝を突いてユノを見上げた。
「奥様、いかがされましたか」
「…………熱いの。熱くて、痛い」
「やはり先程、紅茶をお浴びに……」
「そうじゃない」
語気を強めて、ユノは緑の瞳でアリーズを睨み付けた。ほんの僅かにアリーズが息を呑む。
「アルベルト様から何を命じられたの?アルベルト様は、あたしを疑ってるの?……答えて、アリーズ。さもなければ、粗相をした罰として屋敷から追い出すわよ」
ユノの瞳とかち合ったアリーズの瞳は、まるで揺らぐことなく真っ直ぐにユノを見据えた。
「私が旦那様から命じられたのは、身を呈して奥様を守れと、ただその一つでございます」
アリーズは何の含みもなく、淡々と告げた。
「は……。まるで傭兵ね」
ユノが馬鹿にしたように呟くと、アリーズはキョトンと小首を傾げる。
「はい。私は傭兵です。奥様の為ならば、私は盾にも矛にもなりましょう」
自分が馬鹿にされたことに気が付いていないのだろうか。
従順で、純粋。
それはもはや傭兵ではなく、兵器だ。
アリーズの真っ直ぐな瞳に、ユノの方が先に折れて目を逸らした。こういうタイプは苦手だ。
「…………一時間ほど一人にして。あなたはその間にフェリから紅茶のいれ方を習ってきなさい」
「承知しました。失礼します」
アリーズは頭を下げると、背筋を真っ直ぐにして屋敷の方へと歩いていった。
立ち姿や動作だけは機敏で無駄がない。それもメイドではなく軍人の素質だが。
ユノは一つため息を吐いて、左肩を撫でた。
感情が昂ると、どうしても昔のことを思い出してしまう。癒えたはずの傷跡が痛んで、様々な記憶が呼び起こされる。
ただ一つ確かなのは、自分はもう二度とあの地獄には戻りたくないという、狂おしいまでの渇望だった。
喉が渇いた気がして、紅茶に口を付けた。
カップの底に三センチほど溜まっていた液体はとても飲めたものではなかったが、ユノは一口に飲み干した。
これまでユノが啜ってきたものに比べたら、涙が出るほどに美味しい。
どんなに美しいドレスを身に纏っても、どんなに煌びやかな宝飾品を身に付けても、ユノは泥水の味を忘れることが出来ない。まだ口の中にじゃりじゃりとした砂の感触が残っている。
生まれ変われたらどんなにいいだろう。
血の一滴まで残らず絞り出して高潔な血と丸ごと入れ替えることができたら、どんなにいいか。
叶いもしない空想を思い浮かべて、ユノは自嘲する。
「……大丈夫よ。あたしは選ばれた。あたしは世界で一番美しい娼婦…………」
風に乗ってバラの香りがユノの鼻腔を擽った。
それだけでエドワードと繋がっているような気がして、心に火が灯る。熱く、身を焦がすような炎。
ユノは左肩を握り締めて身を縮めた。
今も左肩は燃え続けているような気がした。
かつてユノを生死の境に追いやった大火傷は、とっくに癒えているはずなのに。