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有償の愛

窓から差し込む朝陽によって目を覚ましたユノは、隣で自分を見下ろすアルベルトの姿を捉えて声のない悲鳴を上げた。


「おはようございます、ユノ」


アルベルトは美しい顔をニッコリと綻ばせて、ユノの髪を指先で弄ぶ。


まさか本当にアルベルトがいるとは思いもしていなかったユノは、すぐには反応することができなかった。少し遅れてから微笑みを返す。


「おはようございます、アルベルト様。嬉しい!」


ユノは無邪気な子供のようにアルベルトに抱きついた。


「おっと。朝から情熱的ですね」


逞しい胸板でユノを受け止めたアルベルトは、フフっと屈託なく笑う。二人はまるで心から愛し合う夫婦のように微笑み合った。


「今日はゆっくりしていていいのですか?」


コテンと小首を傾げてユノが尋ねると、アルベルトは満面の笑顔で頷く。


「はい。思い返せば新婚ですからね。仕事の方は部下に頑張ってもらうとしましょう。ただ、午後には一度本部に顔を出さなくてはなりません。こんなことならいっそ軍人など辞めてしまいましょうかね」


「え」


「冗談です。ユノから立派だと褒められたばかりですから、もう少し頑張りますよ」


アルベルトはハハハと笑ったが、ユノは笑う口元がヒクヒクと引き攣った。


軍人を辞めるなんてとんでもない。地位を失ったアルベルトに何の価値が残るのか。


アルベルトは微笑みを一つ零すと、ベッドから起き上がった。


「一先ず朝食にしましょうか。先に食堂で待っています」


アルベルトが部屋を出ると、入れ替わりにフェリが入ってきた。フェリは無表情でユノを着替えさせていく。


ユノは眉を顰めて首を傾げる。


隣にアルベルトが寝ていた気配は感じなかった。一体いつからいたのだろう。


少なくとも、一緒に寝ていたわけではないと思う。アルベルトは寝巻きに相応しくないシャツとベストを着ていた。着衣に乱れも見られなかった。朝来て何食わぬ顔でユノの隣に横になったと見るのが無難だろう。


それくらいの距離感でいい。ユノは人知れず安堵していた。


食堂で例によって長テーブルの端と端に腰掛けたユノとアルベルトは、間に皿や花瓶や燭台などを挟みながら微笑み合い、朝食を食べていた。


ここ最近一人で食事をしていたユノは、腹がはち切れるほどの量を平らげていた。しかし、今日はアルベルトと同じだけの食事を時間をかけて食べていた。ユノの食べっぷりを見れば、百年の恋も冷めるというものだ。


スープを口に運んだアルベルトは、「つかぬ事をお聞きしますが……」と前置きをしてから言った。


「手紙を書いたのはフェリですね?」


それは質問の体をなしていたが、ほとんど断定しているようなものだった。大方筆跡でわかったのだろう。代筆について何か言われるだろうことは予想していた。


ユノはアルベルトの表情を注意深く読み取ろうと務めたが、常に穏やかな微笑を貼り付けるアルベルトの真意は探れない。常に笑顔というのもなかなか困りものだ。


「ええ……。あたしは読み書きができませんから。幻滅されましたか?」


口元に手を添えて、肩を縮めながらチラッとアルベルトに視線を送る。いたいけな娘作戦だ。


どう出るかと窺っていると、アルベルトは慈愛に満ちた笑顔をニッコリと見せた。


「まさか。しかし、この先不便もあることでしょう。よろしければ私がお教えしますよ」


「まぁ、よろしいのですか?是非!」


なんてこった。面倒くさいな。




朝食を終えてからさっそく、ユノの自室で読み書きの勉強が始まった。


机に向かうユノの隣に椅子を持ってきたアルベルトは、自ら文字を書いてみせてユノに教えた。ユノは音と形を頭の中で結び付けながら文字を真似して書き写す。


「ユノは形を捉えるのが上手いですね。この調子だと、私と筆跡が似てきそうです」


何が面白いのか、アルベルトはずっとニコニコと楽しそうに笑っている。ユノは握り込んだ万年筆の太さに手が痺れてきていた。このまま書いていると指が太くなるかもしれない。


「アルベルト様。あたし、そろそろ文章も読んでみたいです」


ユノは熱心な生徒の顔を作って、書き地獄から抜け出す作戦に出た。


アルベルトはユノが可愛くて仕方ないというように笑って、新しい紙にさらさらと何かを書き始めた。


「では、こちらを読んでみてください」


一行ほどの短い文章だった。


ユノはそれをじっと見つめ、ふと見覚えのある形だと思った。これまでに書き写した単語と照らし合わせて、ユノはそれを読み上げる。


「『私はあなたを愛しています』…………ですか?」


チラリと顔を窺うと、アルベルトは満足気にニッコリと笑った。


「ええ、正解です。私も貴女を愛していますよ」


「まぁ、アルベルト様ったら」


ユノはいたずらっぽくクスクスと笑ってみせた。めんどくさ。


「私の勝手に付き合わせてしまってすみません」


一瞬、心の中を読まれたのかと思って警戒した。


しかしアルベルトはユノの動揺など気にした素振りもなく、ユノが書き写した文字に触れた。見本であるアルベルトの文字にそっくりだが、ユノの書いた方は角が取れて丸い字になっている。


「貴女の言葉に違いはないのでしょうが、どうしても、貴女の書いた文字で贈られたいと思ったのです。それに、こうして貴女の傍にいる理由が欲しかった」


アルベルトは赤い瞳でユノを射抜くと、ぎゅっと手を握った。


ユノは導かれるようにアルベルトの頬に手を添えた。ユノにはそういう雰囲気であるように見えた。


それなのに、アルベルトは軽く俯くと、ユノの手から逃れて机に向き直った。


「どうしてですか?」


ユノは堪えきれずに聞いていた。


「どうして、あたしを拒むのですか?」


じっと顔を見つめると、アルベルトもユノの顔を見返した。アルベルトの顔は終始穏やかに微笑んでいるのに、赤い瞳の奥には凍てつくような冷たさがあった。


「拒んでいるわけではありませんよ」


「でしたら何故、あたしをお使いにならないのです?あたしを本当に愛していらっしゃるのなら、それを証明してみせてください」


ユノは目を逸らすことを許さないというように、きゅっと目を釣り上げた。ユノの緑色の瞳に捕らわれたアルベルトは、困ったように眉を下げて苦笑する。


「愛しているからこそ、とでも言いましょうか」


アルベルトは躊躇いがちにユノの手の甲を親指で撫でた。まるで赤子をあやすような優しい手付きだった。


少しの間沈黙してから、アルベルトはいつもと同じ微笑を浮かべた。


「私は娼館の主人から貴女を買いましたが、貴女の心までは買った覚えがありません。例えいくらお金を積もうとも、貴女は絶対に心をお売りにならない。違いますか?」


ユノは表情を取り繕うのも忘れて目を見開いた。


それは誰もが理解していながらに黙っている真実だ。何をわかりきったことを言っているのだろう。愛し合っていないことさえ目を瞑れば、娼婦と貴族は良い夫婦だ。美と金をもってお互いがお互いを必要としている。


返す言葉が見つからずに、ユノは口を閉じた。ここでアルベルトを心から愛していると言っても白々しいだけだろう。


「今はそれで構いません。心を買えるとしたら、それはきっと金銭ではない。心は心でしか買えないのだと思います。私の心は既に貴女に差し出しました。ですので後は、貴女が自らの心をお売りになる決心をするだけです」


アルベルトはユノの左手を取ると、薬指の指輪に口付けを落とした。


ユノは顔を顰めて左肩に触れた。


まさかこの男も真実の愛などというものを信じているのだろうか。いいや、そんなはずはない。だってアルベルトは心を差し出したと言っておきながら、まるで心を見せていない。


これは駆け引きだ。アルベルトは娼館のベッドの上で行う愛の囁き合戦を、自分の邸宅で行っているに過ぎない。


ユノはアルベルトの胸の中に飛び込んだ。


「…………お優しいのですね、アルベルト様は」


逞しい腕に抱かれて、ユノはほくそ笑む。


なぁんだ。やっぱりアルベルトは自分に夢中になっているのではないか。身体を求めてこない理由は簡単。迂闊に手を出せなくなるほどに熱を上げているのだ。


しかし、これは少々困ったことになった。


アルベルトはユノの心が誰のものでもないことも、ユノが他の貴族とコネクションを作りたがっていることも、全部気付いている。だからユノを屋敷に閉じ込めて、フェリ以外の使用人とも会わせようとしない。


ユノはアルベルトの心を測るためにも、一つ賭けに出た。


「アルベルト様。あたし、外に行ってみたいです」


果たしてユノのお願いと自身の独占欲、どちらが強いだろうか。


ユノはあざとく微笑みながら上目遣いにアルベルトを見た。意外なことに、アルベルトはまったく困った素振りも見せずに笑っていた。


「いいですね。たまには外に食事にでも行きましょうか」


ユノは一拍置いてからはしゃいでアルベルトに抱きついた。顔では笑いながらも、心の中では疑問符を大量に生産していた。


アルベルトという男は、本当に掴めない。

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