第6章ー3
本当に中央軍集団も、南方軍集団も、1942年11月下旬現在、色々と想いを巡らせないといけない現状にあるものだ。
中央軍集団の指揮を執っているのは英陸軍で、南方軍集団の指揮を執っているのは仏陸軍だが。
本来は海軍国である英国が、モスクワ攻略を目指そうとしているのは、歴史の皮肉としか、言いようが無いことではないだろうか。
更に言えば、我が仏が、スターリングラード(ツァーリツィン)を目指しているのも、歴史の皮肉か。
そんな斜めに構えた想いを、本来から言えば仏陸軍大尉であるアラン・ダヴー、スペイン陸軍少佐はせざるを得なかった。
とは言え、英陸軍等も容易に1942年11月下旬の時点で、スモレンスクを確保し、来春のモスクワ攻略を目指せる態勢を整えられた訳ではない。
そこに至るまでは、それなりどころではない苦戦を戦い抜く羽目になったのだ。
勿論、仏陸軍も。
1942年9月前後に発動された連合国軍の第二次攻勢は、北方軍集団では、最終的にレニングラード陥落という大戦果を得て終結し、中央軍集団、南方軍集団も、それなりの戦果を挙げて、来春のモスクワ、スターリングラード攻略を目指せる態勢を整えた上での冬営、越冬態勢の状況にある、というのが1942年11月下旬現在の状況ではあったが、そのような態勢を整えるまでに、中央軍集団も、南方軍集団もかなりの苦闘を強いられた末、というのが本当の所だった。
ダヴー少佐は、中央軍集団の苦闘について、まずは想いを馳せた。
1942年9月初めの時点で、対ソ連欧州本土侵攻作戦の損害を、中央軍集団は完全に癒したといえる状況にあり、再編制を整えた上での対モスクワ攻勢を発動した。
その主力となるのは、英軍50個師団、150万人であり、それをポーランド軍15個師団、50万人等が補助していた。
本来から言えば、この5月に発動したような縦深攻撃戦術を、中央軍集団は発動したいところだったが、実際問題としてそれは困難であり、ある意味では旧来の戦術である、ソ連軍の防衛線を徐々に突破しての漸進戦術を行わねばならなかった。
何故にそうなったか、というと。
「急に攻勢を執れ、と言われても準備不足です」
「仕方あるまい。北方軍集団の状況が変わった以上、我々もそれに応じねばならない」
1942年9月初めの時点で、中央軍集団司令部内では、上記のように半ば愚痴るようなやり取りをしながらの攻撃を展開せざるを得なかった。
本来から言えば、もう少し余裕をもって、攻勢の準備を整えられる筈が、北方軍集団の戦域で、ソ連軍の限定反攻が発動されてしまい、更に中央軍集団前面に展開しているソ連軍も、それに呼応した反攻作戦を準備している公算大、という情報が入っては、中央軍集団は、少々の準備不足があっても、ソ連軍の機先を制するために、早期の攻勢を執るように、というアイゼンハワー将軍からの命令が下されたのだ。
勿論、中央軍集団としては、意見具申という形で、アイゼンハワー将軍からの命令を事実上、拒否するという事ができない訳ではない。
だが、実際に北方軍集団が、機先を制されたことにより、苦戦しているという情報が入り、また、南方軍集団も早期の攻勢転換を図ろうとしている、という連絡、情報が入っては、中央軍集団の面子的にも、準備が完全に整うまで、攻勢を控えるという意見具申は出来なかった、というのが現実だった。
とは言え、この準備不足もあり、この時の中央軍集団の攻勢は、微妙に齟齬を起こしながらの攻勢と言うことにならざるを得なかった。
数か所でソ連軍の防衛線を突破という戦果を挙げられても、5月の時のような大突破はできず、少しずつしか進めなかったのだ。
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