第5章ー24
レニングラードの市街戦は、民間人を大量に巻き込み、地獄の大釜の様相を示し続けた。
朝になると、対峙しているソ連軍の陣地等に対して、投降勧告の呼びかけが、連合国軍側から拡声器等を用いて為されるが、それに対しては銃撃や砲撃による回答がなされるのが常だった。
それを半ば確認してから、連合国側もソ連軍の陣地等に対する砲爆撃を開始し、戦車を主な楯に使って、歩兵や工兵を前進させて、その陣地等を破壊して、ソ連兵を殺戮、投降させていき、更に占領していくのだが、その過程において、民間人が巻き込まれることは決して稀では無かった。
そして、昼の間は、連合国軍が前進していき、徐々に制圧区域を広げていく。
日没が来ると歩哨を立たせて、連合国軍の兵士の多くが眠りにつく一方、一部のソ連兵が夜襲を試みる。
夜間になれば、連合国軍側の強みである砲爆撃の効力が、大幅に落ちるからだ。
最初の頃は、ソ連兵の夜襲が成功することもそれなりにあったが、多用される内に、連合国軍側の夜襲への対処方法も洗練されて行き、徐々にソ連兵の夜襲も減少していった。
(また、ソ連兵側も、連日の死闘による消耗を余儀なくされ、夜に疲労回復を積極的に図らざるを得なくなっていったのも大きかった)
また、朝が来ると似たような戦闘が繰り返される。
それが、この頃のレニングラード市街の現実だった。
何時からか、連合国側の兵士の多くも、自らが制圧しているレニングラード市街が瓦礫の山と化し、死臭と物が焼ける臭いが入り混じった、ある意味、トンデモナイ悪臭が漂っていることに慣れていった。
勿論、慣れない兵士もいる。
そういった兵士の多くは、物を食べるのも苦痛となり、戦争神経症(戦闘ストレス反応)を発症し、後方へと下げられることになった。
公式には連合国側の兵士、約110万人が、レニングラード市街を巡る攻防戦に投入されたが、その内の約1割が戦争神経症(戦闘ストレス反応)に、一時的に、また後発的に罹患、発症したと推定される程の激戦が、このレニングラード市街では行われたのだ。
皮肉と言うべきか、土方勇中尉も、岸総司大尉も、レニングラード攻防戦が終結するまで、戦争神経症(戦闘ストレス反応)を自身は発症したとの自覚は持たずに済んだ。
だが、部下の心理状態は悪く、それを二人は共に気遣わざるを得なかった。
例えば、岸大尉の部下である川本泰三中尉は、予備士官過程出身者とはいえ、それなりに歴戦の経験を経ており、ベルリン市街等でも戦った経験者だが、この時には、大分、参ってしまった。
川本中尉は、激戦の日々が続く中で、不眠を自ら訴えるようになり、大隊病院の医師から師団病院を紹介されて、後方に下がっている。
また、防須正秀少尉にとっても、このような激戦は衝撃だった。
「戦争とは、こんなものなのですか。10代の若者も老人も女性も、我々に銃口を向けて死んでいくとは、自分には信じられません」
ある時、土方中尉を、防須少尉は半ば問い詰める羽目になった。
「こんなものだ。但し、ここは最悪の戦場だ」
土方中尉は、地獄を長年にわたり、見据えてきたかのように、防須少尉に応えざるを得なかった。
防須少尉は、土方中尉の答えに沈黙するしかなかった。
これ以上、土方中尉を問い詰めても、また、他の人間に問いかけても、今の土方中尉以上の答えは、決して得られない、と防須少尉は半ば覚ってしまったからだった。
そんな地獄の中で、レニングラードは徐々に連合国軍の攻撃により、制圧されていった。
幾らソ連兵(及び民兵や民主ドイツ軍の兵)が奮闘しようとも、完全に孤立していては連合国軍の物量を活かした攻勢の前にレニングラード陥落は必至だった。
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