第5章ー14
勿論、ルガ河防衛線への攻撃を加えるとなると、そんな戦車対民兵隊の死闘だけで終わる訳はなかった。
「行くぞ」
ルガ河防衛線を巡る戦闘が始まって5日目、今日も鴛淵孝中尉は列機3機を引き連れて、愛機の雷電を駆使してのソ連軍陣地への銃爆撃を反復して行っていた。
だが、銃弾は、自分達の攻撃を終了した後、最低半分は残しておくのが心得だった。
何故なら。
「来ました。Il-2です」
列機からの警告が、機上無線を通じて聞こえてくる。
「今日も来たか」
鴛淵中尉は、そう半ば独り言を呟き、Il-2に向かった。
(1942年のこの頃)雷電は、20ミリ機関砲4挺を主翼に装備しており、連合国軍の戦闘機の中でもトップクラスの大火力を誇っていた。
だから、防弾に優れているIl-2への攻撃を得意ともしていたのだ。
実際、ルガ河防衛線を死守しようとするソ連軍にとって、Il-2による地上支援は重要だった。
それを雷電に妨害されることは、ソ連軍にとって困った事態と言えた。
そして、幾ら防弾性能に優れているとはいえ、所詮、Il-2は戦闘機ではない。
雷電のIl-2の上空を占位してからの、前上方からの一撃を回避することは困難であり、束となった20ミリ機関砲4挺の集中射撃を被弾しては、Il-2もそうそうは耐えられない。
鴛淵中尉は、列機3機と共闘することで、小隊4機による敵機2機の撃墜を、今日は報告できた。
こういった空中戦を繰り返した結果、ルガ河防衛線におけるソ連空軍の地上支援は、徐々に不活発なものにならざるを得なかった。
そして、正規軍が守っている箇所はともかく、民兵隊が守っている箇所は、どうしても日米連合軍の攻勢への対処能力に劣るのはやむを得ない話になる。
勿論、ソ連軍も、日米連合軍が渡河しやすい場所には、正規軍をできる限り配置することで、ルガ河防衛線を固めていたが、それにも限度がある。
9月20日、強行渡河作戦を図る日米連合軍の前に、終にルガ河防衛線は数か所で大穴が開いた。
日米連合軍は、ルガ河の対岸に完全に橋頭堡を数か所で確立することに成功したのだ。
後は、この橋頭堡を広げ、レニングラードを、日米連合軍は目指すのみである。
「無理には追うな。まずはルガ河防衛線の守備隊を駆逐する」
遣欧総軍総司令官でもある北白川宮成久王大将からの太田実師団長を介した命令を受け、第6海兵師団所属の土方勇中尉らは、他の部隊とも共闘して、ルガ河防衛線を守備していたソ連軍の掃討戦を優先することになった。
これには、幾つか理由があった。
後方での遊撃戦を展開するソ連軍部隊に既に苦しめられている中、ルガ河防衛線を守備していた部隊が、それに加わるのを阻止するというのが、まず一点である。
次に、ルガ河防衛線に展開していたソ連軍は、反攻のために、正規軍がまず撤退し、民兵隊を足止めとして基本的に残している。
そのために、積極的な追撃戦を展開することは、民兵隊への積極的な攻撃を行うことになり、住民の反感を買いかねない、と日本軍上層部には考えられた。
また、ルガ河防衛線に遺されたソ連兵の遺体が大量にあり、それを葬る必要もあった。
(ルガ河防衛線においては、数万人の民兵を含むソ連兵の遺体が遺されていた)
こういった事情から、日米連合軍は上層部が協議した末、まずはルガ河防衛線を3日程かけて掃討した上での追撃戦を行うことを決断することになったのである。
そして、3日余りの掃討戦を終了した後、日本側としては手厚くソ連軍の戦死者の遺体を葬ったつもりだったのだが、慣習の違いからトンデモナイ誤解が生じてしまった。
「全く色々とトラブルが生じるものだ」
土方歳一大佐は弁明に走り回る羽目になった。
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