第5章ー2
少し時を遡り、8月初めの話をする。
「レニングラード攻囲の目途は、少なくとも立ちそうですか」
日本の遣欧総軍参謀長、石原莞爾中将の声が、遣欧総軍の主に将官級を集めた会議の場で響いていた。
日本軍の各軍、部隊の現状を、相互に把握して、作戦遂行を少しでも容易にするために、大事な作戦を発動する前には、お互いに顔を合わせるための会議を基本的に開く。
第一次世界大戦の時に、林忠崇元帥が始めたことだが、今でもその伝統は、遣欧総軍で維持されている。
本国から遠く離れた日本軍にしてみれば、融通し合えるモノ(物資に限らない、情報等もだ)は少しでも協力して、お互いに有効に活用しないと戦力として低下してしまうからだ。
会議の場に出ている将官の面々の表情は、様々だった。
楽観視する者、悲観視する者、それぞれが入り混じっている。
まず、山下奉文陸軍大将が発言した。
「陸軍の準備は完全に整っている。いつでも、レニングラードに突進して見せる」
小松宮輝久王海兵隊中将(本来なら、日本海兵隊の代表は北白川宮成久王大将になるが、遣欧総軍総司令官という立場があるために代理として)も発言した。
「海兵隊の立場も同様。陸路でも海上からの上陸作戦でも、どちらでも対応して、レニングラードを占領する一翼を担わせてもらおう」
だが、慎重な意見の者もいる。
海軍大将の嶋田繁太郎連合艦隊司令長官が発言した。
「身内しかいないから、ざっくばらんに言わせてもらうが。あの時は、命が縮んだ。まさか、リガ湾に16インチ砲が6門も待ち伏せていたとはな。大和だから、耐えられたようなものだ。恐らくレニングラードには、もっとあるだろう。ソ連軍の捕虜からも、そのような情報が提供されている。実際、リエパヤ港防衛のためにも同様の砲が6門配備されていたから、あながち嘘とも思えん」
その言葉を聞いた海軍本体の軍人の多くが、その言葉に肯いた。
実際、後世にまで世界各国の海軍軍人の脳裏に、大和級戦艦最強伝説を刻み付けたリガ湾上陸作戦において、大和は実際には大破していた。
(最も、大和だから大破で耐えられたのだ、という見方が成り立つのも事実だが)
日本から支援のために駆けつけていた工作艦「明石」により、独のキール港外で応急処置が施された後、大和は自らが建造された呉海軍工廠に帰還し、現在は大規模な修理と改装作業が施されている。
その呉海軍工廠では、大和の甚大な損傷を検分した日本海軍の技術士官の面々の多くが、よくぞ生きて還ってきてくれたな、と感動して落涙したという噂が、ここにまで届いている有様だった。
「だから、艦砲射撃による支援は、地上からの反撃がない場合に基本的に限らせてもらうしかない。何しろ今の我々には武蔵でさえ、本国に帰還して、戦艦は高雄と愛宕しかいないからな」
嶋田大将は、そう言って、発言を締めくくった。
リガ湾上陸支援作戦は、日本海軍の戦艦の総力をつぎ込んだものと言って良かった。
大和以外にも、武蔵に扶桑級戦艦2隻、金剛級戦艦4隻も投入されていたのだ。
そして、大和が帰還した後、遺された日本の戦艦は、リガ救援作戦に当たった独ソ軍阻止のために行われた艦砲射撃で猛威を揮ったのだが、その代償として主砲をほぼ摩耗しつくしてしまい、砲身を換装する必要に全ての戦艦が迫られる事態に陥ったことから、日本に帰還してしまった。
勿論、日本海軍の誇りの空母は全艦健在であり、補充機等を受け取ることで、今年の5月時点の戦力を完全回復している。
だが、その一方で戦艦の大部分が日本に帰還してしまい、高雄級戦艦2隻しか今は欧州にいないというのは、海軍軍人としては寂寥の想いに駆られるのも無理が無かった。
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