エピローグー3
そんなふうに姉やその母が、心を痛めていること等、この時の岸総司大尉にしてみれば、全く分からないことだったし、むしろ、目の前のことに想いを馳せざるを得ない状況だった。
岸大尉の目の前では、レニングラード攻防戦で戦死した最後の将兵いや士官級の遺骨が、祖国日本に向かって列車に乗り、旅立とうとしている。
レニングラード沖合は、この冬季到来に伴う結氷で閉ざされており、祖国日本に向かう船舶が出入港することは不可能な状況に陥っているからだ。
そのために、遺骨は列車に乗って、独本土にまで送られた後、輸送船に載せられて、祖国日本に向かうことになっている。
そして、その遺骨の中には。
「どうして生き延びて下さらなかったのですか」
「また、監督として指揮を執っていただきたかった。そして、古今不世出の名将として、センターポールに日の丸を翻させていただきたかった」
そう、この場には、本来の所属である海兵隊のみならず、陸軍や空軍、海軍本体の日本軍の軍人が、集まれる限り集い、その人の死を嘆いていた。
戦死に伴う特進により、石川信吾中将は、遺骨になって祖国日本に向かおうとしていた。
レニングラード攻防戦において、膠着している状況を打破しようとして、督戦も兼ねて、最前線へと赴いたところ、指揮を執っている現場において、ソ連軍の放った砲弾が炸裂したことから、石川中将は結果的に致命傷を負って、息を引き取ったのだ。
ある意味、「運命の一弾」としか、言いようが無い話だった。
石川中将の近くの兵も死傷してはいるが、その直前までソ連軍の放った砲弾は至近距離で炸裂はしていなかった、と石川中将の戦死を看取り、生き延びている将兵は挙って証言しているのだ。
それなのに、急に観測兵が目標を見つけたかのように、ソ連軍の砲弾が至近距離で炸裂して、石川中将らは致命傷を負うという事態が発生したのだから。
石川中将は、海兵隊の軍人である以上に、サッカー日本代表監督として、世間には知られた存在だった。
「ベルリンの栄光」、「ベルリンの奇跡」と世界で謳われた1936年のベルリン五輪におけるサッカー日本代表が金メダルを獲得したあの時、石川中将は、サッカー日本代表監督を務めていたのだ。
1938年のフランスW杯、1940年の東京五輪、もし、中国内戦が無ければ、第二次世界大戦が無ければ、サッカー日本代表は両方で世界を制したに違いない、そして、石川監督は共に勝利の栄冠を勝ち取ったに違いない、と21世紀に至るまで、日本のサッカーファンが哀惜する程の名監督、名将だった。
だが、現実は。
岸大尉の視界の中に、直接の部下でもある川本泰三中尉と、陸軍士官である右近徳太郎中尉が、お互いに涙を浮かべながら会話を交わしている姿が入っている。
川本中尉に岸大尉が聞かされた話によれば、川本中尉と右近中尉は、共にベルリン五輪のサッカー日本代表の補欠メンバーだった筈だった。
その二人が、かつてを想い起こし、涙を浮かべるのは無理がない話だ、と岸大尉は想った。
「もしものことがあったら、自分は最後で良い。部下が帰国するのを見送って、自分は帰国したい」
そう、石川中将は言っていた、と自分は人づてに聞いている。
だから、その言葉通りに帰国しているのだろう。
だが、その一方で。
「いつか、W杯で日本を優勝させたいな。でも、これだけ優秀な選手が、あいつらが死んでいては、自分の目の黒いうちは無理かな。あいつらには、何時逢えるかな」
と自分の子飼いの部下、選手が多数戦死している現実から、最近の石川中将はそう呟いていたとか。
岸大尉は想った。
あの世で、石川中将は部下達に逢い、また、サッカーをしているのだろうか。
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