第7章ー9
そのような侵攻、平定作戦を江西省や福建省等で日本軍が行っている頃、米陸軍の一部は陝西省への侵攻作戦を行っていた。
この侵攻作戦は、米軍の基準からすれば、ゆるゆるとしたものになった。
共産中国軍の抵抗がほとんど無くとも、1日に10キロ程しか侵攻しないことも稀ではなかったのだ。
これは2つの理由からだった。
まず第一に、陝西省でも飢餓が蔓延しており、それにたいする救援活動、具体的に言うならば、現地住民への食糧配給を、ある程度は米軍も行わなければならなかったという事情である。
そして、この救援活動に米軍は基本的に消極的であり、戦禍が未だ及んでいない四川省や青海省等へ、現地住民が避難することをむしろ望んでいた、という側面もあった。
(これはある意味、当然の話で、当時、避難民も含めれば1000万人近くもいた陝西省の住民に、新たに大量に食料を配給するということは、米軍の補給能力をもってしても大変な負担になるからである)
実際、米軍の侵攻作戦が緩やかなことから、今なら、四川省等への避難が可能であるとして、米軍の侵攻作戦を避けるために、四川省や青海省方面へ避難する現地住民は後を絶たなかった。
更に言うならば、そうした避難を決断した現地住民の運命は過酷なものとなった。
空腹に耐えつつ、四川省等への路を辿ることになり、その路上でへい死する者が後を絶たなかった。
何とか四川省等にたどり着いても、四川省等では米軍の戦略爆撃により、水利、灌漑設備が大量に破壊されており、更に枯葉剤や農薬が大量に散布されてもいたことから、急速に飢餓の恐怖が広まっていた。
そういった状況において、陝西省から避難してきた住民が歓迎される訳が無かった。
1942年の秋、陝西省から四川省等へ避難した住民のほとんどが、1年以内に飢餓等で亡くなったと推定されている。
1942年末までに陝西省を米軍はほぼ制圧し、日本軍も江西省や福建省等をほぼ制圧することができたが、米軍も日本軍も新たに制圧した地域の、物心両面の荒廃ぶりに頭を痛めることになった。
数年間に及ぶ暴政と戦禍の結果、ろくな働き手が現地に遺っていなかったのである。
そうした状況下では、残されている農地の維持すら中々困難で、日米の占領地域では飢餓の危険が高い有様だったのだ。
それを解消するために、米国やアルゼンチン等で採れる小麦はまだしもとして、いわゆる仏印、蘭印、タイといったところから、長粒米を大量に日米は買い付けることとなり、中国本土に提供せざるを得ない状況となったのである。
この救援作戦を行うには、当然のことながら、日米の税金が投入されることになる。
必然的に自国の議会での予算承認が、日米両国政府に求められることになった。
人道的観点から、更に今後の対中国関係のためにも、日本の米内光政首相も、米国のルーズベルト大統領も、日本は衆議院、貴族院、米国は上下両院で予算の承認を求めたが、共産中国政府の自業自得の結果に対して、何故に日米両国民の税金を大量に投入しないと行けないのかという声が、両国の国会議員の一部から公然と挙がる有様で、一部の新聞までが社説でそう主張する状況となった。
(ちなみに、皮肉なことに日本では与党の立憲政友会の方が、この件について批判の声が高かった。
伝統的に対中強硬派が立憲政友会には多かったからである)
様々な硬軟織り交ぜた議会、世論工作の末に、日米両国政府は、救援作戦を行うための予算を確保し、食糧支援を中国本土の占領地域に行うことになるのだが、それは大変な費用や時間等が掛かることになった。
その間にも、飢餓や疫病が蔓延した結果、日米の占領地域でも人口は減ったのである。
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