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仁鳥の短編集  作者: 仁鳥
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それはまるで、愛のような




 布団に横たわる男の傍にそっと寄り添うように座る、ひとりの女がいた。

 女は、幼い頃に父を亡くし、大人になる直前に母を亡くした。そして今まさに、無償の愛を捧げた男までもがその息の根を止めようとしていた。

 かつて女の周囲を蝕んだ病は、今この時も、彼女の前からかけがえのないものを奪い去ろうとしている。

 女は、男の目にうつし世のものが映されるその最期の時まで、そっと手を握り寄り添った。

 そして言葉を形取った男の唇がやがてその色を失うのを、静かに見守っていた。

 力の抜けた硬い手のひらを握り締めた女は、ようやっとその眼を閉じ、さめざめと頬を濡らした。その夜、女の濡れた頬が渇くことはなかった。

 どれほどの時をそうして過ごしていたのか、女が再び瞼を持ち上げる頃には日に焼けた畳を朝日が照らしていた。

 暫くそのあたたかな光景を眺めていた女は、傍にひっそりと佇む者の気配を辿り、そちらを見上げる。濡れそぼった後の女の眼を見下ろすのは、"黒いひと"だった。

 女の前に過去に二度だけ現れた、"黒いひと"。その姿を認めた女は、引き結んだ唇を僅かにゆるませた。


「あなたはいつも、わたしが悲しんでいる時に会いに来てくれるのね」


 初めて女が掛けた言葉は、掠れて消え入りそうなものだった。"黒いひと"は沈黙だけを返し、ただ女を見下ろしていた。


 "黒いひと"は、生を全うした男の魂を食らいにやって来た死神だった。女の父が、母がうつし世を去った時も、死神はその魂を食らいにやって来た。

 わけも分からずに大声を上げて咽び泣いた少女は、心を痛めて啜り泣く娘へ、やがて声もなくひっそりと涙を流す女へと移り変わった。

 その度に傍らでその姿を見下ろしていた死神は、疲れた彼女が眠りに落ちる頃、彼女を遺して逝った者の魂を静かに食らった。

 決して彼女が待ち望むような存在ではないことを、死神は知っていた。


 愛する男を亡くした女は、移りゆく季節をひとりきりで過ごした。若くして愛する者全てを亡くした女は、寂しい苦しいと泣き暮らした。

 しかし愛する者達全てに託された、"長く生きろ、そし幸せに"という言葉が重い鎖となり、呪いのように女をうつし世に繋ぎ止めていた。


「ねぇ、あなたは、いつになれば再びわたしのもとへ現れてくれるの。わたしだけのもとへ、現れてくれるの」


 女は気付いていた。"黒いひと"が、亡くなった人間の魂を食らう者だということに。

 女は来る日も来る日も黒いひとを待ち続けた。己の魂を食らいに来てくれるその日を、待ち続けた。

 死神はそれを知っていた。女が来る日も来る日も涙を流し己を待ち侘びていることを、知っていた。

 しかし、女がその生を全うする日はまだまだ先であった。彼女を遺して逝ってしまった彼らの願いは、皮肉な事にするりと天へ届き、彼女を生き長らえさせていた。

 ひとり彼女の姿を眺めるだけの死神には、天より"言葉"を与えられておらず、それを伝えることは叶わなかった

 死神は、女の魂を食らう日を今か、今かと待ち侘びた。

 けれども待ち侘びれば待ち侘びるほどに、女に残された長い長い時を思い、与えられていないはずの心を痛めた。

 何事もなかったかのように季節が移りゆく中でふたりだけが、ただただ遠い未来のその日を求めていた。


 堪え忍ぶ途方のない日々にとうとう女が心を壊しかけたその時、堪らず傍らに降り立った死神は、短刀を握るその白魚のような指先に触れる。

 触れた指先から蔦のように伸びた影はゆるりと女の心臓に絡み付くと、慈しむようにそれを包み込んだ。

 閉じていた眼を開いた女は、寄り添う黒いひとをその瞳に映し入れ、くしゃりと顔を歪める。


「ーーああ、とうとう、この日が来たのね」


 久方ぶりに浮かべた女の笑顔は、流れる涙さえも美しく煌めかせた。

 触れた指先から溶け入るように透けゆく己の身を感慨深げに眺めた死神は、全てが消え去るその瞬間、女に向けて確かに微笑みを浮かべた。

 ふたり交わした笑みは他の誰の目にも映ることはなかったが、それはそれは満ち足りたものだった。

 やがて死神が掻き消えるのと同時に、女の心臓も、眠るようにその動きを止めたのだった。




『それはまるで、愛のような』



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