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仁鳥の短編集  作者: 仁鳥
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花の願い、夜空事




 ある小さな村に、男がひとり。

物も言わずにせっせと畑仕事をしては、その日採れた野菜のほとんどを配り歩いた。毎日自分の腹に入れるのは質素なものばかりであったが、村人の喜ぶ顔を見ると、それだけで男はたいそう満足気な顔をした。

 男は村人から好かれていた。村の爺も、婆も、女も男も、子どもらも、みな男を好いていた。口数も少なければ無骨な顔に笑みを乗せることも滅多となかったが、こころの優しい男であったからだ。

 男は朝から晩まで、ほとんどの時を働いて過ごした。けれど、村人の寝静まった夜のほんのひと時だけ、男は働くことをせずに自分だけの時を過ごした。小高い丘の上に聳える大木を背に、月の夜を唄ったのだ。美しいとは言えぬ、不器用なものではあったが、男は毎夜おなじものを唄った。ひと夜にたった一度きり唄い終わると、男は家へと帰り眠りに就いた。

 そんなある日、この日も男は月夜を唄った。たった一度きり唄い終わると、いつものように家へ帰ろうと腰を上げた。けれど、突然に、背にした大木の向こう側から若い女の声が掛かった。


「美しい唄を、いつも有り難うございます」


 驚いて振り返った男に、女は続けて声を掛けた。


「ああ、どうか、どうかこちらへは来ないで下さいませ」


 男はすこしばかりの疑問を抱いたが、口にはしなかった。ただただ大木の幹を眺めるだけで、言葉はひとつたりとも出てこなかった。大木の向こう側から聞こえる女の声が、それはそれは美しいものであったからだ。

 男は、女と話していたいと思った。女は、すこしだけお話をと、男を引き止めた。ああ、何故自分のこころにあった小さな願いを聞き届けてくれたのかと思ったが、やはり男は口にはしなかった。

 その夜から、ふたりは毎夜決まった時に、大木を背にして語らった。いつもは口数の少ない男も、女といるときだけは饒舌であった。話したいことが、聞いて欲しいことが、次から次へと滑るように口から出ていった。女は男の声を遮ることもなく、時たま相槌を打ってはころころとした涼やかな笑い声を上げた。

 毎夜繰り返される逢瀬の中、男は自然と女へ心を寄せた。とても、とても満ち足りた時をふたりで過ごした。

 そんなある夜、男は女の顔を見たいと言った。顔を見て話をしないかと、そう言った。しかし女はそれきり口を閉ざしてしまった。長いような、短いような、静かな時がいくつか流れ、女はそっと口を開いた。


「いいえ、それはなりません」


 いつも通りの美しい声は、男の願いを聞き入れてはくれなかった。

 つぎの夜も、そのつぎの夜も、男はおなじことを女へ願ったが、女の返事は変わらなかった。

 何故顔を見せてはくれないのかと男が問うた時、女は美しい声を悲しげに曇らせて、自分は醜いのだと言った。醜い姿を見られてしまえば、きっと嫌われてしまうと。

 しかし男は固く頭を振った。そんなことはない、そんなことはないのだと。はじめ男は女の美しい声に惹かれたが、毎夜の逢瀬の中で、まるで当たり前であるかのように女の美しい心を愛してしまったのだと打ち明けた。


「例えどんな姿であろうとも、私はあなたを愛そう」


 男はそう言った。女は、その言葉だけで充分であった。充分、幸せであった。

 そしてある日、満天の星と真ん丸な月が煌めく夜、とうとう女は姿を見ることを許した。男は喜び、女もまた嬉しく思った。この日を、互いに待ち侘びていたのだと思った。

 女は、男へ言った。


「わたくしの姿を見る前に、ひとつだけ、ただひとつだけの願いを、どうか聞き入れては下さいませんか」


 勿論だと男は笑った。


「あなたの願いであるならば、何でも」


 そう答えた男に、女はやはり美しい声で礼を述べた。そうして、すこしばかりの時を置いて、囁くような声で言った。どうか、こんな自分であることを赦して欲しいと。きっと男の望む姿ではない自分であることを、赦して欲しいと、そう言った。


「それでも、わたくしは、あなたをお慕いしておりました。愛して、しまいました」


 男は堪らなくなった。今すぐにでも、女をこの胸に掻き抱きたいと、そう思った。そうして、勢いを付けて腰を上げた男は、大木の向こう側へと飛び込んだ。

 けれど、そこに女の姿はなかった。そこにあったのは、一輪の、たった一輪の美しい花だけであった。


 女は、大木に寄り添うように生まれた、一輪の花であった。毎夜やって来ては月夜を唄う男に恋をして、たったひとつだけの願いを夜空に叶えて貰った。けれど、夜空の魔法は男に姿を見られてしまえばたちまちに溶けてなくなってしまうことを、女は知っていた。それでも、女は幸せであった。とてもとても、幸せであった。

 男はなにも知らなかった。けれど、何故だか、男の心は素直に泣いた。素直に泣いて、流した涙は、月明かりに照らされた花へと静かに舞い落ちたのだった。



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