嗤うは宵の主
振り返ると、猫のような柔らかな毛が鼻先を擽った。
「……っ!?」
反射的に地を蹴って距離を取った男は、音もなく現れた二つの碧眼を無遠慮に睨み付けた。
しゃがみ込んだ姿勢のままこちらを見上げるのは、まだ十二かそこらの幼い少年だ。上質な生地で仕立てられた洋服を身に纏い、磨かれたような黄金色の髪を僅かな灯りで煌めかせている。ゆるりと立ち上がり裾を払う仕草は、育ちの良さそうな顔付きと相まって、子供らしからぬ印象を与えた。
対して、己より一回り以上も歳離れた少年を前に構えた拳も下ろせぬまま身を低くする男は、あまりにも滑稽に見えた。目鼻立ちこそ整ってはいるが、無精髭を生え散らし先の跳ねた髪を無造作に掻き上げている所為か、だらしの無さが浮き彫りになっている。加えて身に纏う服も、この屋敷の庭に咲く花ひとつの価値程も無いような草臥れたものだ。
視線を交わす二人は、どうあっても其々の人生の中で交わる筈の無いような存在を、暫くの間互いの目に焼き付けていた。
男は、所謂"賊"と呼ばれる類いの人間だ。身を固めず決まった職も持たず、金のある屋敷に忍び込んでは懐を温めて生き長らえているような、そんな男である。
前にいた街の目ぼしい屋敷のものを盗り尽くして新しい街へと足を伸ばしたのは、木に茂る葉が黄や赤やと色付き始めた頃だった。
すっかり冷え込む夜の侘しさに底尽きそうな金を握り締めて訪れた酒場で、男は小綺麗な老紳士に出会った。これ幸いと雄弁さの限りを尽くして情報収集に掛かると、親切な老紳士は疑心の素振りも見せずに街の事を彼是と話して聞かせた。
そうして街一番の屋敷の情報を手に入れた男は、この夜漸く懐を温めるべく行動に移したのだ。老紳士が饒舌に話した、世間との関わりを殆ど持たぬ老いた主人が一人きりで住んでいるという噂も、日頃から街の人間でさえ寄り付かないという事も、この屋敷に忍び込む事を決心するには十分過ぎる程の条件であった。
しかしながら男の前に静かに佇むのは、ただ美しいばかりで人形のように無機質な表情を崩さぬ幼い少年だ。いくら睨み付けようと、少年は少年。想定していなかった存在に、男は狼狽えた。
「ーーここで何をしている」
耳に痛い静寂を先に破ったのは、少年であった。固さも柔らかさも感じさせぬ声色には怒りも怯えも無い。男はそれが不愉快であったのか、眉間に深く皺を刻んだ。
「……坊主、ここの子か?」
男の問いに、少年は瞬きだけを返した。否定とも肯定とも取れぬそれに、男は両の目を細める。やがて再び暫しの無言が続き、辺りを静寂が包み込んだ。
微動だにしない少年の周囲に使用人らしき人間がいないことを念入りに確認した男は、構えた拳を漸く下ろした。低く落としていた姿勢を伸ばした男と少年とでは、やはり体格の差が歴然としている。力でどうにでもできる相手であると踏んだ男は、失っていた余裕をその身に取り戻した。
「勝手に入って悪かったよ。なんにも取ってやしねぇから、ここはひとつ見逃してやってくれねぇか?」
片眉を上げ口の端を引き上げた表情により、だらしのない雰囲気に更に磨きが掛かる。それでも少年の無表情さには、塵ひとつ程の変化も訪れなかった。
ーー扱い辛ぇガキだな……。
心中で独りごちた男は、いつの間にか吹き出していた汗を荒々しく拭った。かさついた唇を舐めて湿らせると、ふとその動きを止める。
男の鋭い視線の先には、艶かしい笑みを浮かべた少年がいた。
「ーー何、笑ってやがる……?」
酷く掠れた声が漏れ、男は慌てて唾を飲み下した。吹き出す汗は背を伝い、こめかみを流れ、手のひらを湿らせる。
「物が欲しいのなら盗れば良い」
先程より色味の差した声色でそう宣う少年は、浮かべた笑みをそのままに一歩男へ歩を進める。得も言われぬ焦燥に駆られた男は、しかし吸盤のように床に張り付く両の足を動かせずにいた。
「見逃して欲しいと言うのならば、そうしてやっても良い」
その言葉に、ピクリと男の目元が疼いた。脳が酸素を求め始め、漸く己が呼吸を止めていた事に気が付く。
大きく酸素を肺に迎え入れると、鈍い脱力感が全身を広がり指先を痺れさせた。
「但し、条件がある」
「……条件、だと?」
すっかり枯れてしまった喉から声を絞り出した男は、目前までやってきた少年を見下ろした。大人の男が好んで纏うような香の匂いが鼻先を掠め、やはり男は眉を寄せる。この少年の何もかもが気に入らないとでも言うように、嫌悪を隠しもしない。
顎を伝った汗が床へ落ちた瞬間、少年は赤い舌を覗かせて言葉を紡いだ。
「僕が満足するまで、ここで共に暮らせ」
二人の時が止まる。
否、時が止まったかのように、男と少年はその睫毛の一本の動きさえも止め、そして口を閉ざした。
見開いたままの目をそのままに、やがて男はわなわなと震え始める。
「おいガキ……お前何言ってやがんだ……頭沸いてんじゃねぇのか……?」
「失礼な男だな。僕の頭は可笑しくない」
少年の浮かべたあまりにも言葉とそぐわぬ愉快げな表情は、いっそ恍惚と言っても過言ではないものであった。ここに来て初めて少年が見せた生気を感じさせるそれは、しかし更に男の背筋を震わせる原因にしかならなかった。
「気持ちの悪ぃカオすんじゃねぇよ……! お前自分が何言ってるか分かってんのか……!?」
物盗りはするが女子供に手は出さない。そんななけなしの良心が、更に男を窮地に追い込む。いつの間にか筋肉質な己の腕に添えられていた華奢な手を振り払う事ができないのだ。鼻息の荒い大男が相手であったならば大喜びで張り倒すのだが、如何せん、相手は色んな意味で不気味ではあるが見てくれは非力な少年である。手を出す選択肢など男の頭には浮かばないのが現実だ。
「安心しろ、お前に迷う程の選択肢は無い。あるとすれば条件を飲むか斃るかのどちらかだ」
「血も涙もねぇなお前……」
驚きと共に目の前の少年が人間であるかどうかを疑い始めた男は、ふと己の右腕に添えられた白い指先が僅かに震えている事に気付いた。
少年の震えの意味も、己を乞う少年の胸中も推し測れはしない。ただ、背を、こめかみを、首筋を流れていた筈の汗はいつの間にか止まり、染み込んだ服の冷たさがやけに肌を突いた。風呂に入りたければ、暖かい暖炉にも当たりたい。旨い物も食べたいし、清潔な布団で眠れるのであれば何も文句は無い。
「くたばるのは御免だ」
男が両手を上げると、少年の手は呆気なく剥がれ落ちた。だらりと垂れたそれから少年の顔へと視線を滑らせると、恍惚とした表情は既に鳴りを潜めていた。
「賢明な判断だな。爺に風呂を用意させよう、少し臭う」
「このガキ……っ」
事も無げに宣って背を向けた少年を追おうとした男は、音もなく忍び寄った老人によって行く手を阻まれた。己の背後から唐突に現れた燕尾服の老人に引き攣った声を上げた男は、大仰な動きで飛び上がる。
「ーー湯浴みを」
「ーーハイ……」
その夜、ベッドへ身を沈めた少年は、とても満足そうに目を閉じた。彼にとっては、何もかもが上手くいったのだ。
そう、何もかもがーー。
「……そう簡単には」
ーー逃がしてやらない。
くすくすと、笑う声が、物静かな部屋に響いた。