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仁鳥の短編集  作者: 仁鳥
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そして彼女はーー






「あっちー……!」


 パタパタとうちわを扇ぎながら、私の目の前でアイスを頬張る男。

白を基準とされたこの部屋には似つかわしくない、こんがりと焼けた肌が目につく。


 額、こめかみを伝い落ちて首筋へと流れる汗は、予想に反して清潔そうなタオルによって拭い取られた。


「……私が食事制限あるの知ってるくせに、根性悪いよ」


 じとりと彼を見遣りながら毒を吐くと、彼はにいっと白い歯を見せ付けた。


「お前もアイス食いたいなら、さっさと病気治せばいいじゃん」


 ……またこの男は、性懲りもなく簡単にそんなことを言ってくれる。


「あのね。前にも言ったけど、私の病気は治らないの。これでも一応、いつ死ぬか分かんない状態なんだけど」


「うん、知ってるよ。もう何回も聞いた」


 言いつつ、食べ終わったアイスの棒をくわえながらカッターシャツの中を扇ぎ始める。

ああ、なんだかこっちまで暑くなってくる……。

まだ春も中頃で比較的過ごしやすい気温なはずなのに、この男はいつも汗だくでやって来る。


 しっとりと濡れた髪は綺麗に染め上げられていて、夕日に染められた空の様だと思った。


「外、そんなに暑いの?」


「いや、何で?」


「だって、汗凄いし」


「ああ、俺陸上部だからさ。つい走っちゃうんだよ」


 そんなものか。

ふーん、とかなんとか適当に相槌を打ちながら、私は手元の文庫本に目を落とした。

まだ序盤だけど、良い具合に先が読めなくて面白い。


 三行ぐらい目で追ったところで、再び男が口を開いた。


「どこまで読んだ?」


 僅かに身を寄せて私の手元を覗き込む。

また予想に反して、爽やかな柔軟剤の香りが私の鼻孔を擽った。

てっきり良くてお日様の匂い、悪くて汗の臭いを想像していたのだけど。


「まだ三分の一も読んでない」


「ふうん……意外と読むの遅いな」


「毎日あんたの相手で忙しいからね」


 言いつつ、最後の一文を読み終えてページを捲る。

少し擦り切れたページを見る限り、恐らく何度も読み返されたのだろう。

目の前の男がこの本を手渡してきた時の事を思い返しながら、ページの端をそっと撫でた。







 男と初めて会ったのは、ちょうど半月前。

いつものごとくベッド上で読書に耽っていた私の前に、突然彼は現れた。


『やぁやぁ、元気してる!?』


 ガラリと引き戸を開けて大股で部屋へ侵入してきた彼は、見慣れない制服を身に纏っていた。


 白いカッターシャツに、ストライプのネクタイ。

紺のブレザーに、グレーのスラックス。

見慣れない制服ではあるが、至って普通の男子高校生の出で立ちだった。


 が、その登場の仕方があまりにも異色過ぎて、私は暫しの沈黙を貫いたのを覚えている。


 話を聞けば、男は私と同じ中学の同級生だったらしい。

覚えていないのかとぼやかれたが、なんせ中学一年の夏には既に入院していたのだ。

学年全員の顔と名前を把握しているはずもなかった。


 それからというものほぼ毎日私の元を訪れた彼だが、何故突然お見舞いにやって来たのかと聞いてもはぐらかすばかりで、未だにその理由は聞かされていない。


 そんな彼が訪れるようになって一週間程経った頃、突然一冊の文庫本を手渡された。


『これ読み終わらないうちは、死ぬのナシな』


 有無を言わさぬ笑顔と共に。

ナシ、と言われても、死が訪れるその時は私の希望なんて聞いてくれやしないのだけど。


 私が余命の話を彼に打ち明けた、翌日の事だった。







「ーー……」


 目を開けると、見慣れた部屋が目に入った。

相も変わらず、白い。


 どうやら眠っていたみたいだ。

心地好い微睡みに身を任せながら、再びうたた寝に沈み込もうとした時ーー


 ふと視界の端に人の存在を感じて、私は一気に覚醒した。


「い、いつの間に来てたの……」


 目を瞬かせて男の顔を確認しながらそう言うと、彼は一拍遅れて返事を返した。


「……ああ、えーっと……今」


「ふぅん……何でそんな所に突っ立ってるの?」


 病衣の胸元を直しながら、「いつもなら勝手に椅子に座るのに」と笑う。

すると、男もいつものように汗を拭いながら笑顔を浮かべた。


「いやぁ、予想外に寝顔が可愛かったからびっくりしてさぁ」


 褒めてるのか貶してるのか分からない一言を受け流しながら、私はいつものように床頭台の上に置いてある文庫本を手に取る。


 すると、何を思ったのか男は私の手から文庫本を取り上げた。


「ちょっと、なに?」


「今日から、俺が来てる時は本読むの禁止!」


「はい?」


「この本の持ち主の決めたルールに従えないなら、もうこれは持って帰るけど?」


「うっ……分かったよ。分かったからそこ置いといて」


 腐っても読書好き。

続きが気になる本を取り上げられる事程辛いことはない。

男が帰ってから読もうと思うけど……いかんせん、彼は面会時間ギリギリまで病室に居座っていたりする。

面会時間が終了して三十分後には消灯になるので、本を読める時間なんてほとんどない。


 心中で項垂れる私をよそに、男は学生鞄を棚の上に置いてからパイプ椅子へと腰掛けた。


「……」


「……」


 暫し、無言の見つめ合いが続く。

なんなんだ、一体。

得も言われぬ不思議な感覚に戸惑い始めた時、男は口を開いた。


「……そんなに、白かったっけ」


 独り言の様に漏らされたそれに、返事をして良いものかと考えあぐねる。

彼は、未だ私の顔を凝視していた。


 色白かと聞かれれば、そうだろう。

もうずっと外の日を浴びることなくここで過ごしているのだから。

日焼けすることも無くなり、元の肌よりも更に白くなったような気さえする。


 だけど、彼と会わなかったこの何時間かの間に私の肌の色が急に白くなるかと聞かれれば、答えは否だ。

そんなはずはない。

別段、体調に変化があるわけでもないのだから。


 しかしこうして彼を見た後に自分の腕を見ると、確かに白い。

病的に。いや、実際病気なのだから、なんらおかしなことはないのだけど。


 私も元気な頃は部活に励んでいたから、こんがり焼けていた時期もあったなぁ……等と懐かしい事を回想してみる。

いつからか、思い返すことも少なくなった。


 思い返したところで当時の健康な体に戻れるわけでもないのだから、無駄なことはしないに越したことはない。

辞めよう辞めよう、と私は脳内の思い出達を振り払った。


「ーー触っていい?」


 あまりにも唐突だった。

今の今まで自分の世界に入り込んでいた私は、問われた意味が分からずに思わず首を傾げる。


「顔、触っていい?」


 数秒間を置き、漸く意味を理解した私は、じわりと頬が熱を持つのが分かった。


 何を言うのだ、突然……。


 動揺して視線をさ迷わせていると、男は徐に手を伸ばした。

日に焼けた筋張った腕にうっかり見とれている間に、男の指の背が私の頬に触れていた。


「……っ」


 思わず肩が跳ねたが、男は何も言わずにするりと頬を撫でる。

触れられた箇所がじんと甘い熱を持ち、私の心を震わせた。


 沈黙が、耳に痛い。

頬と胸がじりじりと焼けている様な気がする。

鼓動が早い。


 動悸……息切れ……先生を呼ばなくちゃ。

ナースコールはどこだっけ?


 そんなことを考えていると、男の指が名残惜しげに離れていった。

少し、震えていた様な気がした。


 触れられていた熱が外気によって冷まされていくのを、どこか寂しく感じる。


「ーーあー……ごめん。何て言うか……」


「……」


 もはや何も言えない。

今まで経験したことの無い異性との急接近に、私の心は完全に掻き乱されていた。


 全身が熱を帯びていく。


「……ごめん。今日は帰るわ」


「えっ……」


 引き止める暇もないまま、男は風のように去っていった。

少し、頬が赤かった様な気がした。







 あれからも、男はなに食わぬ顔で私の元を訪れていた。

次第に、私もいつもの調子を取り戻した。


ーー正直、これ以上深い関係にはなりたくないと思っている自分がいる。


 病気の事が発覚して余命宣告を受けてからは、むやみやたらに人と関わらないようにしていた。

大切な人を作ってしまうと、死ぬに死にきれないからだ。


 かけがえのない存在を置いて先立たなければいけない辛さ。

かけがえのない存在に、先立たれてしまう辛さ。

まだ経験したことのない私には到底分かり得ない感情だけど、"かけがえのない存在を置いて先立たなければいけないかもしれない"辛さならもう十二分に経験した。


 もうこれ以上は、互いに辛い思いはしたくない。

せめて家族だけに留めておきたい。


 だから、彼とも、もうこれ以上は。



ーー踏み込んではいけないラインの、ギリギリに立っているのは自覚している。


 これ以上踏み込むと、もう取り返しはつかない。

だから、彼を「男」と称し、「あんた」と呼んだ。


 彼が名乗ろうとするのを拒否した私を、彼は咎めなかった。

『まぁ、俺はお前の名前知ってるから。別にそれでいい』と。


 彼が何を思って私に関わるのかは分からない。

だけど、彼も踏み込んではいけないラインのギリギリで、同じように踏み留まってくれている。


 ラインを挟んで向かい合った状態のままでいれば、きっと大丈夫。


 

ーー大丈夫だと、思っていた。







 彼から手渡された文庫本は、もう終盤を迎えていた。

今日は珍しく、いつもの時間になっても彼はやって来ない。



 ちらりと時計を見上げた視線を、再び手元の文庫本に落とす。

またひとつ、ページを捲る音が響いた。



 残り十五ページ。

十ページ……五ページ……。



 最後の一文を迎えた頃、ガラリと引き戸が開け放たれた。





"少女は笑顔のままそっと息を引き取り、風になりました。"





 読み終えた文庫本を閉じ、暫く余韻に浸る。

本を持つ手が、僅かに震える。


 ゆっくりと瞼を押し上げると、いつになく真面目な顔をした男と目が合った。

男はそれに気付いて、いつもの笑顔を浮かべようとする。

だけど、不自然に引き上げられた口角は、次第に苦く歪んでいった。



ーー何故、いつも汗だくだったのか。



ーー何故、あんなルールを作ったのか。



ーー何故、私にこの本を授けたのか。





ーー何故、あの日、私の元に訪れたのか。





 聞きたいことは山ほどあった。

だけど、口をついて出たのは、なんの捻りもない、だけどずっと互いが待ちわびていた言葉だった。




「……ねぇ……名前、何て言うの?」




ーー今まで積み上げてきたものが全部崩れ落ちる。




 そう分かってはいても、私はそう問い掛けずにはいられなかった。

認めずにはいられなかった。

彼の存在が、もう既に私の中でかけがえのない存在に変わってしまっていたのだという事を。




 男は、暫く目を伏せた後に、くしゃりと破顔して名前を声に乗せた。



 初めて聞く彼の名は、私の鼓膜を震わせ、心にぽつりと染み込んだ。




 胸を、じわりとした熱がせり上がる。

もう後には戻れない。

だけど、後悔は無かった。




 私は、彼の名前を聞き慣れた自分の声で繰り返す。

窓から吹き込む風が、柔く二人の頬を撫でていった。




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