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仁鳥の短編集  作者: 仁鳥
2/9

バレンタインの日





「おはよ、宮本」


 聞き覚えの無い女子の声に呼ばれて後ろを振り返ると、見知った男が爽やかに片手を上げて応えた。


「よー、おはよう」


 こいつの名前は宮本。俺の名前もまた、宮本。

同じ名字の生徒が同じクラスにいるというのはなんとも不便なことだ。

今のように、名前を呼ばれて反応したものの俺じゃない方の宮本だったということが、1日に何度もあったりする。


 見慣れた光景を背にして、俺は歩みを再開した。


 俺じゃない方の宮本は、実に優れた人間だ。

容姿端麗文武両道、おまけに気さくで優しいときた。

クラスだけに留まらず、学年中の人気者になるのも納得してしまう。


 対して俺は平凡な顔に成績も運動神経も同じく平凡。

ものすごく良い奴というわけじゃないし、嫌な奴でもないと思う。

俺単体がクラスにいる分にはなんら目立つこともないが、同じ名字の奴がすこぶる有能な人間であるが為に何かと比較されることが多かった。


 宮本を恨む気持ちなど更々ないが、劣等感を抱えていないと言えば嘘になる。



 「おはよ、宮本」


 聞き慣れた声と共に、肩を叩かれる。

今度こそ何の不安もなく振り返れば、見慣れたクラスメイトがいた。


「倉澤。おはよ」


 いつも通りそう返せば、倉澤は八重歯を見せて気の良い笑みを浮かべ、緩く波打つ栗色の髪を背中へと払った。

クラスの女子の中でもずば抜けて人当たりの良い彼女は、冴えない俺の唯一の女友達だ。


「今日は何の日でしょう」


「何だよ、急に。知らん」


「それ本気で言ってる? いくら縁がないからって……さすがに多少の期待ぐらいするもんじゃないの?」


「何が言いたいのか分からん」


 得意気に問い掛けてきた倉澤をあしらいつつ、俺は靴箱を開ける。

そして空いた左手を突っ込んだ瞬間、固い感触が指先を掠めた。


「何だこれ……」


 首を傾げてそれを取り出すと、背後から俺の手元を覗き込んできた倉澤と共に声を失った。


 正方形の赤い包みに、白いリボン。

間に挟まれたメッセージカードには、印字された"HAPPY VALENTINE'S DAY"の文字と、小さく書かれた"宮本くんへ"という丸い文字。


「バレンタイン……」


「……宮本にチョコ渡す子なんていたんだ」


 二の腕の辺りから聞こえた声にじろりと見下ろすと、倉澤はさっと首を引っ込めて自分の靴箱へと駆けていった。


 俺はもう一度手元のそれを見る。

確かに書かれた名前は俺の名前でもある"宮本"だ。

が、しかし。視線を靴箱へ戻すと、"宮本"と書かれた名札が上下に並んでいるのが見える。

つまり、俺の靴箱の下には宮本の靴箱があるのだ。


 自慢じゃ無いが、俺は生まれてこのかた母親以外にバレンタインチョコを貰った事がない。

学校で女子と関わることはあっても、いつも友達止まりだったから本命チョコなんて貰える筈もなく。

クラスの女子が「義理チョコ~」と言って配って回っているものを押し付けられたことはあるが、あれを貰ったバレンタインチョコとして数えるのはどうかと思うので辞めておく。


 つまりは何が言いたいのかというと、俺の手にあるこのチョコは俺に宛てられた物ではなく、もうひとりの宮本に宛てられた物の可能性が高いということだ。


「……つか、絶対俺宛てじゃないだろ」


ーー普通に考えて。


 小さく呟いた俺は、それをひとつ下の靴箱の中へと放り込んだ。






「えー今日はお前らにひとつ報告がある」


 朝のHRの時間、ざわつく教室に担任の声が響く。

欠伸を噛み殺しつつ窓の外からそちらへ視線を移すと、担任に手招きされた女子が席を立った。

小柄なその子は、肩口で切り揃えられた黒髪を揺らしてゆるりとこちらを振り返る。

白い肌に映える赤い唇と、ほんのり色付いた頬。

クラスの男子の中で密やかな人気を集める彼女は、戸和さんといって比較的大人しい女の子だ。


 明るく美人な倉澤が好きだと言う奴も多いが、俺は戸和さん派だった。

1年間同じクラスにいて会話らしい会話をしたことなどなかったが、目が合うと必ず目を細めて微笑んでくれる。

ほんのりと染まる柔らかそうな頬に期待を寄せた男は俺だけじゃない筈だ。


「戸和が転校することになった」


 担任のその言葉に、先程までざわついていた筈の教室が急にしんと鎮まる。

促されて別れの言葉を述べた戸和さんが席に戻る時、ふと目が合ったような気がして、俺はなんとなく窓の外へと視線を逸らした。






「やあ、失恋ボーイ」


 1時間目が終わった休み時間、イヤホンを装着しようとする俺の手を制してそう言った倉澤は、にたりと八重歯を覗かせた。


「何だよ、失恋って」


「あんた戸和さんのこと好きだったでしょ」


 前の席の椅子を引いて横向きに座った倉澤は、我が物顔で俺の机に頬杖をつく。

間近で見る顔はやはり綺麗であるが、なんとも小憎たらしい表情だ。


「そんなんじゃないから。そりゃ、可愛いとは思うけど」


「ふーん。可愛いとは思うんだ」


「復唱すんなよ。やな奴だな」


 むっと顔を顰めて見せると、倉澤はケラケラと笑う。

その動きに合わせて、緩く弧を描く長い髪が俺の机の上の消しカスを拐っていく。

髪に絡まった消しカスを取ってやると、「ありがと」という言葉と共に穏やかな笑みが返ってくる。


「そんな優しいキミに、あたしから良いものをあげよう」


「何だよ」


 すす、と机の上をスライドして差し出されたのは、いかにもお店で買ったようなバレンタインチョコの箱だった。


「あたし手作りとか苦手だからさ~バレンタインは毎年既製品で済ましちゃうんだよね。あ、高いやつとかじゃないから。コンビニとかで売ってるやつ」


「つまり義理チョコってことね。ありがとう」


「全然嬉しそうじゃないねキミ」


 またケラケラと笑った倉澤は、チャイムに合わせて席を立った。

手を出して纏わり付く奴らをあしらう姿に苦笑していると、不意に前の方の席の戸和さんと目が合う。

今度は逸らしそびれた俺に、こちらを振り返っていた戸和さんの方が慌てて前へと向き直った。


「……」


 少しだけ窓を開けて、熱を持った頬を冷気にさらす。

自分の席が窓際の一番後ろで良かったと心底思った。

有らぬ期待に赤面する姿なんぞ、倉澤辺りに見られでもしたら後が面倒だ。


 グラウンドでは体育の授業が始まったところだった。

だるそうに体操をする奴、やたらと張り切って存分に体を解す奴。

その少し手前では、遅刻だろうか、のんびりと自転車を漕ぐ男子生徒の姿がある。


 教室の中には世界史の教師の気だるげな声と、シャーペンが紙の上を滑る音が心地よく響いていた。

黒板を見るふりをして視線を移した先には、少しだけ顔を俯かせて教科書を捲る戸和さんがいた。






「あの……宮本くん」


 耳触りの良い声が俺の名を呼んだのは、昼休みのことだった。

弁当箱を広げて手を合わせたまま固まった俺の目の前には、スカートを握り締める白くて柔らかそうな手。

恐る恐る視線を上げると、長い睫毛に縁取られた凛とした瞳にかち合った。


「戸和さん……」


 思わずそう呟いた俺は、飛び回る心臓をバスタオルにくるんで抱え込みたくなった。

頼むからじっとしていて欲しい。


「どうしたの?」


 箸を置いて少し高い位置にある顔を見上げる。

いつも挨拶や些細な言葉を交わす時は立っている為、戸和さんの顔は俺の胸の辺りの高さにある。

そのせいか、彼女の顔を見上げるというのはどこか新鮮だった。


「えっと……わたし、今朝宮本くんの靴箱に……その……」


 じわじわと頬の赤さを増して辿々しく言い淀む戸和さん。

「今朝」「靴箱に」その単語だけで俺は察してしまった。



ーー俺の靴箱に間違えて入れたのは、戸和さんだった。



「……もしかして、あれ戸和さんだった?」


「……!」


 ぼっと音が出そうな程頬が赤に染まる。

ああ、ちくしょう。宮本が羨ましい。


「紛らわしくてごめん、宮本の靴箱下の方なんだ。でもちゃんと入れ直しといたから多分本人の手に渡ってる筈」


 淡々とそう言った俺に、戸和さんは一拍置いて瞳を揺らした。

そしてぎこちなく微笑むと、「……そっか、ありがとう」と言って自分の席へ戻っていった。


 何事もなかったかのように箸を取ろうとして、自分の指が僅かに震えていることに気付く。

情けないそれをぐっと握り混み、俺は深く息を吐いた。



「……ちくしょう」






 夕日が照らす階段を、のそのそと降りる。

廊下ですれ違う生徒は、小洒落た紙袋を手に浮かれていたり、これから渡すであろうそれを手に強張った顔をしていたり。

そんなお祭りムードの廊下を抜けて靴箱を開けると、見慣れたローファーが出迎えた。

踵が少しすり減ったそれを地面に置いて、脱いだ上靴をまた靴箱にしまう。

1年間履いたローファーは履き心地が良く、俺の足をすんなりと受け入れた。


 昇降口を出てふと校舎の隅に目を向けると、向かい合う男女の姿が目に入った。

遠くからでも分かる二人は、戸和さんと宮本だ。

漏れた白い息を置き去りにして歩みを再開しようとした瞬間、不意に宮本があの赤い包みを戸和さんに差し出すのが見えた。

戸和さんはそれをそっと受け取ると、泣きそうな笑みを浮かべた。


 瞬間、カッと頭に血が上るのを感じた。

足早に去っていく戸和さんを横目に、こちらへとやってくる宮本に詰め寄る。


「おう和樹、どうしーー」


「お前、せっかく貰ったもん突き返したのかよ」


 俺の勢いに目を見張った宮本は、思わずといったように数歩後ずさる。

悪気のない顔を見て、ポケットに突っ込んだ両の手を痛い程握り込む。


「あー……いや」


「気持ちに応えてやれなくても、チョコぐらい貰ってやればいいだろ」


 八つ当たりだというのは分かっていても、抑えきれない苛立ちを宮本にぶつけた。

戸和さんの泣きそうな笑みを思い出すと、どうしても言わずにはいられなかった。


「んー……つーか、あれ俺のじゃないっていうか」


「は?」


 頬を掻きながら気まずげに視線をさ迷わせていた宮本は、意を決したように息をついた。


「あれ、お前にだってさ。俺の下駄箱に間違って入れたらしい」


「は……いや、違うだろ……?」


「だから返して欲しいってさ。俺戸和さんにチョコ貰えたーって結構浮かれてたんだけど」


 苦笑する宮本は、「実は告白とか期待してた」と言って情けなく眉を下げた。

部活があるからと去っていった宮本の背を見送りつつ、俺は呆然と立ち尽くす。


 朝から気になっていた戸和さんの視線。

昼休みに俺の前に立った時、スカートを握り締めていた華奢な指。

俺に見せたぎこちない笑みと、宮本からチョコを受け取った時の泣きそうな笑み。

全てのパズルが綺麗に収まった瞬間、俺は走り出していた。



 初めは、可愛いけど大人しい子だと思っていただけだった。

1年間同じクラスで過ごすうちに、ひっそりと微笑んで周囲を見る横顔をぼんやりと眺めることが増えていた。

初めて目が合った時は、吸い込まれるかのように目が離せなかった。

些細な言葉を交わす時、目が合って微笑む時、僅かに色付く頬に見とれていた。


ーー戸和さんが好きだったかと聞かれれば、自信を持って頷くことはできない。

だが最後に見たのが彼女の泣きそうな笑みが、どうしても頭から離れなかった。






「戸和さん……!」


 人混みの中から見つけ出した彼女の腕を取り、電車の中へ流れ込む波から引き寄せる。

目を見開いた戸和さんと目が合って、背後のドアが閉まる。

動き出す電車に見送られながら、俺と戸和さんは静かなホームで向き合っていた。


「宮本、くん……?」


 相変わらず心地よい声に名前を呼ばれて、俺は思わず掴んでいた華奢な腕を離した。


「ご、ごめん……びっくりしたよな」


「うん……」


 俯く戸和さんの、色付いた頬から目が離せない。

今まで何度も期待させられてきたこの色に、やっぱり俺の心臓は煩く音を立てる。


「……あのさ、間違ってたら言って欲しいんだけど」


 そこまでひとことずつ噛み締めるように紡いで、唇を湿らせる。

俯く戸和さんは、華奢な両の手でスカートを握り締めていた。

走ったせいで上がっていた息を整えてから、彼女の震える睫毛に目を移す。


「……あのチョコ、俺にくれようとしてた?」


「……!」


 弾けるように顔を上げた戸和さんは、みるみるうちにその頬を真っ赤に染め上げた。

大きな瞳はじわりと潤み、赤い唇はわなわなと震えている。


「戸和さん?」


 視線を落として良い淀む戸和さんに焦れた俺は、身を屈めて顔を覗き込む。

思ったよりも低い位置にある顔に、心臓が淡く疼くのを感じた。


 そして、戸和さんが小さく頷くのを確認した俺は、咄嗟に自分の鼻から下を片手で覆い隠した。

信じられない程熱を持つ顔は、彼女に負けず劣らず赤く染まっているに違いない。


「ーーっそ、だろ……ほんとに……?」


 すると、ごそごそと鞄の中からあの赤い包みを取り出した戸和さんは、僅かに震える手でそれを差し出した。


「……宮本、和樹くんに……貰って欲しいです」


 今度は林檎のように赤い顔を隠さずにこちらを真っ直ぐ見つめる戸和さんは、花が咲くような笑みを浮かべた。


 記憶の中の泣きそうなそれが、塗り替えられていく。



「ーーうん、ありがとう」




 自慢じゃ無いが、俺は生まれてこのかた母親以外にバレンタインチョコを貰った事がない。

学校で女子と関わることはあっても、いつも友達止まりだったから本命チョコなんて貰える筈もなく。


 だから、高校1年生で漸く訪れた俺だけのバレンタインは、驚く程に甘く深く心に染み込んでいった。

 




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