狼少女のカタる夢
「今夜が峠でしょう」
意識の片隅に転がりこんできた宣告を、拾いあげることもできずに放ったまま、奇妙な味の酸素を吸った。
舌先にからみつく、独特のくさみ。もうすっかり慣れてしまったけれど、息苦しさは変わらない。清潔を煮詰めたような味だ。身体に良すぎて、心に毒。
昇華して消えてしまえばいいのに。ぜんぶぜんぶなにもかも。そしたらきっと、楽になれる。
いつからか喉につまった嫌悪感は、ぽとりぽとりと雫を垂らし、私という存在を侵食した。思いどおりには動かない手指の先から順に溜まって、いまではもう、心臓さえも蝕んだ。
とっくに体重を支える機能を失った棒切れのような両足も。青白く血管の浮きでた両腕も。私を構成するものすべて、黒々と歪んだ感情に支配されている。
「春が来るよ。もうすぐ。約束した季節が巡る」
シャア、と鋭い音がして、黒一色の世界に赤みが指した。限りある力を振りしぼって、鉛のようなまぶたを持ちあげた。
かすれた視界の中で、柔らかいブラウンの髪が揺れていた。野暮ったい抹茶色のセーターを着こんだ背中が、窓のそばで落ち着きなく上下する。ああ、……泣いているのか。
「もうすぐ、なんだよ」
ひとりごとのように呟いて、抹茶色が小さく丸まる。力なく崩れ落ちていく背中を、限られた視野のすべてを使って見つめていた。
唇が震える。わきあがる想いの奔流は、けれど言葉にならない。
ごめんなさい。たった一言、謝れたなら。内側から私を食いつぶす淀んだ感情も、すこしは薄まるのだろうか。
「ぅ、……」
――嘘だから。ぜんぶぜんぶ、嘘だから。
必死の思いで声帯を震わせても、あなたの耳には、届かない。
自由の効かない身体で、コトリ、とベッドの柵を打った。ブラウンの頭が、びく、と揺れて、抹茶色は静かにふり向いた。
どうか、動いて。あと少しだけ、頑張って。
頬をむりやりひきつらせて、口の端を心なしか持ちあげる。ああ、恨めしい。誤魔化すのは、十八番でしょう。最期くらい、ゆるしてよ。
――笑って。どうか。約束したでしょう。
真白い世界の中で、あなたがほほ笑む。赤い眼を誤魔化すように細めて、くちびるを震わせながら、それでも不恰好な笑顔を、見た。
黒々とした感情の渦が、ほんの少しだけおとなしくなる。ひどく、穏やかな心持ちだった。
ああ……いまなら、言える気がする。
最後まで、振りまわしてごめんね――。
「いままで、ありがとう……」
見守り続けてくれた、あなたへ。
嘘つきな私から、送る言葉。
幼い日の面影を残した、人の良い少年の瞳が揺れる。背も伸びてたくましくなって、でも、変わらなかった。希望に満ち溢れていた濃茶の光彩。
すべてが白に溶けてしまう前に、必死で焼きつけた。口もとから力が抜けて、とり繕ったいびつな微笑が崩れていく。
その途端、ぐしゃりと、彼の顔が歪んだ。間を開けずに、病室を飛びだしていく。戸が開いた瞬間、涙声で呟かれる名前と、嗚咽が、耳に届く。
――だめな人。嘘をつくならつき通さなければ。誤魔化すと決めたのなら、決してばれてはいけないの。
親族に交じってすすり泣く彼の声を、遠のく意識の片隅で聞いた。
笑って。私の世界。私の唯一。あなたが言ったんじゃない。嘘つくの下手なんだから、慣れないことするんじゃないわ。
けれど、そんな不器用なあなただから、私は。
たまりきっていた淀んだ想いが決壊して、勢いよく流れだす。開け放したカーテンの向こう側に、猛々しく降りそそいだ。
雨音。嗚咽。
もし、次にめぐり逢えたなら、素直に言えるのかしら。今度は、間違えずに、傷つけずに、あなたを手に入れられるの?
きっと、……無理ね。
白に、溶ける。混ざりあって、溶けあって、そして。
雨音を切りさく悲壮な慟哭を、聞いた。
*****
「さよならするときは、笑っていよう」
「なあに、それ」
「約束だよ、約束。だって、お別れするってことは、最後ってことだろう? なら、笑っていなくちゃ」
「最後だから、悲しいんじゃないの」
「だけど泣いちゃだめだよ。僕だったら、泣き顔より笑った顔を覚えていたい」
「ふーん。いいけど、大丈夫?」
「なにが」
「だって――くん、嘘つくの嫌いでしょ」
「それは……いいんだよ、嘘でも」
「どうして」
「きっと、最後だから」
「へんなの。あ、そうだ、これなんだけど」
「――。また騙した?」
「きのせいきのせい」
*****
一時間後、無機質な機械音が、彼女の終わりを告げた。
*****
拝啓
ようやく春めいてまいりました。つつがなくお過ごしでしょうか。
突然、このような手紙を差し上げる無礼をお許しください。あなたが、これを読んでいるということは、私はきっと、もうこの世にはいないのでしょう。三度目の桜を見ることは、叶いそうにありません。
あー、やめやめ。堅苦しいのは嫌になっちゃうね。私がこうして筆をとったのは、一言、あなたに伝えるため。ちょっと泣かないでよ? これ、破ったら祟ってやるから。
すべてのことには限りはあるけど、それがいつかは自分次第。って、よく言ってたっけ。どうにもならないこと見つけたからって、不貞腐れないでね? 神様ってのは意地悪なものなの。
それから、覚えてる? すべての人に心はあるけど、きみにだけは笑っていて欲しい。って、いちいちクサイのよあなたの言うことは。でも、わからなくもないわ。
もう少しだけ。あと少しだけ。欲を出したらきりがないわね。つかの間の幸せを掴んでいたかった。でも、もうタイムリミット。お別れの時間よ、笑いなさい。――笑って、生きて。
ごめんなさい、嘘をばらすのは苦手なの。だから、ちょっと緊張してる。手が震えて上手く書けないや。
……ぜんぶ、嘘よ。
あなたを解放してあげるわ。
かしこ
平成25年2月某日
狼少女より
最愛のあなたへ