嵐の夜
四六時中、妹だけには構っていられないらしい。頭領というものは案外忙しいようで兄は
「明日戻るからね。いい子にしているんだよ」
と言ってどこかへいってしまった。部屋には当然鍵がかかっている。
リウヒはため息をついて、寝台に寝転がった。外に出ることさえもままならない。
唯一の楽しみは、キジがご飯を持ってきてくれる時だ。この船の出来事を色々話してくれる。
「ヤバいんだよ、今。食中毒にかかってさ、十人ぐらい寝込んでしまってんだ。厠がえらい事になってて、もう勘弁って感じ。可哀そうにクロエも死んでいる」
笑ってはいけないと思っても、ついクスクス笑ってしまう。
大部屋はなんだかとても面白そうだ。いってみたいとねだると、キジは顔を青くした。
「駄目だって。お前をこの部屋から出したら、おれが頭領に殺されちまう」
「キジのケチ」
「そういう問題じゃねえ」
じゃあな、ちゃんと飯くえよ。とキジはさっさと消えてしまった。
夕餉を食べ終わると、リウヒは窓の外を覗いた。雨が降っている。なんだか揺れも大きいような気がする。不安になって、慌てて寝台の隅に陣取った。枕を抱えて小さくなった。
「おーい。飯食ったかー。なんだ、残してるじゃねえか。ちゃんと最後まで食べなさいってかあちゃんから…何してんの、お前」
「いや、あの、その」
寝台の隅で掛布を頭からかぶり、枕を抱きかかえているリウヒをみて、キジが目を丸くした。
「なんかのおまじない?」
「そ、そう。食後のおまじない」
ふうーん。丸くなっていた目は、小馬鹿にしたように変わる。
「この船の揺れが怖いのかー。いやいや、さすが箱入り娘はビビりだなあ」
その言葉にムッとする。
「怖くなんかない! 馬鹿にするな! 食後のおまじないっていっただろう!」
「はいはい」
嫌らしく笑いながらキジが手を振る。
「でも、これからもっと荒れるぞ」
「えっ…?」
「久しぶりにでかい奴が来そうだ」
恐怖に目を見開いたリウヒを尻目にキジは「嵐を呼ぶ男―」と歌いながら食器を下げて、出ていってしまった。
夜。キジの予言通り、船は大揺れに揺れた。しかも雷鳴が雄叫びをあげまくっている。
リウヒは雷が苦手だった。大の苦手だった。
菜飯か雷、どちらを選ぶと聞かれたら喜んで菜飯を選ぶくらい嫌いだった。
東宮にいる時は、トモキや侍女三人が駆けつけてくれたし、船に乗っている時は兄が付いていてくれた。しかし、今は一人でこの恐怖に耐えるしかない。
つんざくような大音に、悲鳴を上げてしまう。両手で耳をふさいで丸くなっても、恐ろしい音は容赦なく鼓膜を突き刺す。
船は音をたてて、右へ左へ、上へ下へと妙な感覚と共に動く。
そうだ、お酒をのめば何とかしのげるかもしれない、と思いついても、酒瓶のある棚まで行くことができない。それでも、必死になって寝台から降りた。
部屋の中心までよろめきながら歩を進めた時、かつて無いほどの爆裂音が響いた。
「いやーっ!」
悲鳴を上げてうずくまる。と、船が音をたてて傾いだ。両手で耳をふさいでいるため、均等を崩してそのまま倒れてしまった。恐ろしさのあまり、涙が出てくる。体は冷や汗で濡れている。
その時、
「リウヒ!」
扉のあく音と共に、キジの声が聞こえた。
「キジ! キジ!」
無我夢中で叫ぶとさすがは海の男、大揺れの中スタスタとリウヒの元までやってきてしゃがんだ。
「お前…なにやってんだよ、すごい悲鳴上げて」
風の勢いで、扉が大きな音をたてて閉まる。
ひィ! リウヒが首をすくめた。
「とりあえず、こんな所で座り込んでないで、寝台に戻…」
再び、雷鳴の爆裂音が響いた。空気が振動する。
「ぎゃーっ!」
耳をふさいで丸くなる。ああ、今わたしはものすごい恰好をしているだろうが、そんなのは関係ない、早くこの音が去ってほしい。祈るような気持ちで震えていた体を、いきなり引っ張られた。何事かと思う間もなく、気が付いたらリウヒの体はキジにすっぽりと納まっていた。頭を両手で抱えられている。
今まで外にいたのだろう、キジの体はびしょぬれだった。
怒りで目頭が熱くなる。
この男も、わたしの体が目的だったのか。信じていたのに。好みじゃないと言っていたくせに、兄と一緒だ。このまま押し倒されて弄ばれるのか。身をよじると、さらに力を込められる。
「馬鹿、暴れるな」
それは上からではなく、キジの体の中から聞こえた。
「こうしとけば、少しはましだろ」
確かに恐ろしい音は、遠くでかすかに聞こえているだけだ。しかも男の手は自分の体を這ったりしない。ただ、恐怖から守るようにしっかりと頭を抱えてくれている。そして自分の頬は、その男の胸に強く押し付けられている。
「おれもさ、ここでこんなことしている場合じゃねんだよ」
怒ったような声とは裏腹に、腕の力は緩まない。
「ただでさえ今、人数少ないのにさ、船が沈んだらお前のせいだぞ」
「じゃあ、わたしのことなんてほっといて」
「泣き叫んでる女をほっとく訳にはいかねえだろ、馬鹿」
心臓がトクンと跳ねた。ああ、この人はなんて優しい。
それからキジは黙ってしまった。ただ雷鳴や豪雨の音が遠くに聞こえる。が、それ以上に聞こえるのは、キジの鼓動音だった。リウヒの耳に心地よく響く。
この場所はとても安心する。恐怖はすっかり去ってしまった。
目をつぶって、力を抜いていた両手を男の背中に回した。少しだけ力を入れて抱きつくと、キジも無言でリウヒの頭を抱え直した。しばらく二人はその状態で抱き合っていた。
「もう大丈夫だろう」
揺れが小さくなったころ、腕が緩んで体が離された。
「う、うん。ありがとう」
もう少しだけあの場所にいたいと思ったが、しぶしぶ離れる。
「しかし、お前は本当にやせっぽちだな。骨が痛かったー」
キジがニヤニヤ笑いながら腕を回す。悲しくなってしまった。やっぱりわたしはこの男の好みじゃないのだ。
「飯、残すからだぞ。ちゃんと食べて成長しろよ」
おやすみー。呑気に去ってゆくキジの背中を見送る。自分がこんなにどぎまぎしていたのに、まったく何事もなかったかのような男の態度。なんだか悔しい。寝台に飛び込んで寝転がる。
雷雨も船の揺れも、おさまってきた。おさまらなくていいのに。また雷が鳴ってくれたらいいのに。そうすれば、キジが駆けつけて抱きしめてくれる。
兄は翌日、血相を変えて戻ってきた。
「悪かったね、一人にさせて。さぞかし怖い思いをしただろう」
降り注ぐような口づけを受けながら答えた。
「ええ、兄さま。とても怖かった」
昨夜の事は言わなかった。言えばすぐさまキジを、遠ざけられてしまう。
それは嫌だった。とてつもなく嫌。嘘も芝居も方便ということを、リウヒはここで学んでいる。
ああ、この船にキジがいてくれて本当に良かった。