希望の灯2
海と空の見える窓まで這ってゆき、窓枠に手をかけて力を入れて立ち上がったリウヒは遠い海原を眺めている。
最近、体に力が入らず、歩くことも難しかった。筋肉が衰えているのだろう。体の節々や痣が痛む。
キジのお陰で目が覚めた。ああ、本当にわたしは馬鹿者だ。
すべてを放棄していた。国のことも、宮廷へ帰る願望も、考えることも。キジ、クロエや海賊たちと過ごした楽しい時間でさえ、取り上げられてしまった。
それからは、生きることさえ投げ出していた。
自分さえ死ねば、世界はきちんと機能しはじめる、そんな気がしていた。
兄は正気に戻るだろうし、海賊たちもそんな兄におびえることもなくなるだろうし、クロエやキジにも迷惑がかからなくなる。
アナンに報復する気持ちもあった。この苦しみを、わたしの死によって思い知るがいいと。
――ティエンランの国民全員が、悲しみと失望のどん底に叩き落とされるんだぞ。
お前、王さまだろう。
キジの声が響く。
ああ、本当にわたしは馬鹿者だ。大切な責任を、楽になりたいあまりに忘れるなんて。
大切な民を悲しませることなんて、できない。三百年続いた王家をわたしで途絶えさすことなんて、できない。ティエンランを、わたしの国を不幸にさせることなんて、できない。
わたしは王なんだから。
上意の礼をした時、わたしは国民になんと誓ったか。
生きなくては。生きて宮に帰らなくては。汚れきった体でも、わたしは宮に帰らなくては。
みんなのもとへ。アナンなんかに負けるものか。
***
アナンは室内に入って驚いた。部屋のいたるところに物が散乱し、いつも寝台にいる妹は窓辺に立っている。
「おかえりなさい、兄さま」
こちらを向いて、ゆっくりと微笑んだ。
死んだような人形の表情はなく、光を受けてキラキラと生命力にあふれている。
「どうしたんだい、リウヒ。そんな所に立って。それにこの有様は…」
思わずうろたえた声が出る。扉の横には小刀が刺さっていた。
「まさか、誰かが侵入したんじゃないだろうね」
「癇癪をおこして、物にあたり散らしてしまいました」
妹に手を伸ばそうとすると、すいと逃げる。
「だって、淋しかったんだもの」
詰るように黒い瞳で睨みつける。
「すまなかった、一人にして」
「いいえ」
ふいと目線を逸らせた。窓の外をじっと見ている。
「ここはどこの近くなの?」
「ジンだ」
「行きたいな」
「陸地についても、お前を下ろさないよ」
後ろからゆっくり抱きしめると、その体が僅かに硬直した。
「お前はこの部屋から出てはいけないのだからね」
「分かっています、兄さま」
妹は微笑んで、身をよじると兄に口づけた。
***
兄が呆然としたように、自分を見ている。
「本当にどうしたんだい」
「どうもしていません」
リウヒは咀嚼をしながら、茶碗を差し出した。
「おかわり」
「これで四杯目だよ……」
体力をつけないと。歩くのが困難であれば、いざというとき動けない。時期が目の前にきている時に、指をくわえて見送るのは嫌だった。
幼少期、どんなに絶望していても、食事だけはきちんと食べた。いざ逃げる為に。機会を逃さない為に。
母さんが言ってたもの、ご飯は大切だって。ちゃんと栄養をとらなければ、肉体は衰えて闇に囚われたままになってしまう。幼いころは本能で分かっていたことが、今は全然分かっていなかった。本当にわたしは馬鹿者だ。
「もうやめておきなさい」
「どうして? わたしがふくよかになっても、兄さまは、愛してくれるでしょう?」
アナンは一瞬詰まったが、もちろんだよ、とほほ笑んだ。
「ああ、でもそうなったら、キジにもてちゃう」
笑ったら、さっさと食器を下げられてしまった。
ごちそうさま、と手を合わせて立ち上がる。それでも真っ直ぐに歩けなかった。ふらついて倒れてしまう。
体力をつけないと。ちゃんと食べて、歩く練習をして、走れるようにならないと。
わたしは宮に帰るのだ。一点を睨みつけるリウヒの目は、燃えるような決意に溢れていた。