希望の灯1
翌日、頭領が船を降りた隙に、迷った末、キジは体を屈めて頭領の部屋へ侵入した。
ちょっとリウヒが心配なだけだ、ただそれだけだと思いながら。念のためハルさんに、見張りをお願いする。
「酒一本でいいかな」
「酒も金もいらんよ。おいらも嬢ちゃんが心配だ、無償で協力してやるさ」
「わりいな、ありがとう」
勿論、鍵がかかっていたが、お茶の子さいさい、針金で鍵を開ける。
「リウヒ。返事しろ」
声をかけながら部屋に入ると、寝台で少女が横たわっていた。緋の衣から伸びている白い手足には、青や紫の痣が所々にあった。藍色の長い髪が寝台に散っている。
「キジ」
自分をみても、まるで人形のようにぼんやりしている。唇の端が切れていた。
「お前……大丈夫か?」
「キジこそ大丈夫なの?」
白い手が伸びて、寝台の前に跪いたキジの頬を撫でる。ゆっくりと愛おしそうに。
「おれは、口を切っただけだから。でもクロエが熱をだして、お前の名前を呼んでるんだ。そうだ、大部屋に来てくれないか、ちょっとだけでいいから」
クロエもリウヒに会えば、少しは元気になるかもしれない。
細い体を抱き起こそうとすると、身をよじって嫌がった。
「この部屋から、わたしを連れださないで。兄さまに知られたら、足を切られる」
頭領、どこまで狂ってんだよ。
「そうか」
体を離すとリウヒの顔が歪んだ。
「ごめんね」
「なんでお前が謝るんだよ」
「キジとクロエに迷惑かけた。クロエに伝えて。かばってくれて、ありがとうって」
「おれもクロエも、迷惑なんて思っちゃいねえよ」
頬にかかっていたその手を取ると自分の指と絡ませた。リウヒの白い手は、華奢で小さく、日に焼けてゴツゴツしたキジの手とは対照的だった。
「キジもここを出て行って。わたしは狂っているもの。キジを襲ってしまうかもしれない」
「本当に狂っている奴は、自分の事狂っているなんて、いわねえぞ。お前が襲ってきたら、その時はおれがまた頭をはたいてやるさ」
リウヒが笑う。
「ねえ、キジ」
リウヒはうつ伏せになって、髪の隙間から絡まる手を眺めている。
「ん?」
白い指は、日に焼けた手を愛撫するようにいじっている。
「どうして、あの時来てくれたの」
兄さまが普通の状態じゃないって分かっていたでしょう。
「決まってるじゃねえか、馬鹿」
キジが微笑んだ。
「泣き叫んでいる女をほっとく訳にいかねえだろう」
「本当にキジは優しい人」
あのね、キジ。
「キジがいなかったら、わたしはとっくに狂っていたと思う」
まるで踊るように小さな手は絡まってゆく。
「キジがいて、すごく楽しかった」
クズハの客室での拳骨、嵐の夜、船の先端から叫んだこと、台所の掃除、クロエと一緒に甲板でしゃべったこと、いろんな雑用、ハルさんの衣、水かけ合戦。
「迷惑かけてごめんね」
そのまま、キジの手を引きよせる。そしてごつごつした手に唇を落とした。
「ありがとう、キジ」
「お前、まさか、まさか……」
手を振り払って、立ち上がる。
「死ぬ気じゃねえだろうな!」
リウヒは無言でキジを見上げたが、黒い瞳に否定の色は無かった。
「馬鹿っ!」
キジの拳が藍色の頭に落ちる。ゴッと音がした。
あまりの痛みにリウヒが頭を押さえて体を折った。
「痛い……」
「痛いじゃねえ!この……この大馬鹿者!いいか、自殺なんて、最っ低の卑怯者がすることだぞ! 世の中にはお前より、散々苦しんでいる奴がいっぱいいるんだ。絶望に喘いで、それでも必死に生きている奴がよ! 己の不幸を嘆く前に、打開策を考えろ!」
「そんなの、わたしだって散々考えた!」
痛みと怒りにリウヒが涙目になって、勢いよく起き上がった。
「でも、兄さまには全く敵わなかった、もがけばもがくほど締め付けられる!」
「それで流されて大人しくいいなりかよ! 弱っちい女だな。挙句の果てに命を断とうとする。どこぞの旅芸人の芝居みたいだ」
吐き捨てるようにキジも応ずる。
「安くて陳腐で吐き気がするぜ」
人間、図星を突かれると逆上するらしい。リウヒの髪が逆立った。
「バカバカバカバカ、キジの馬鹿――!」
泣きながら、物をやたら滅多らに投げつけてきた。
「おい、こら、それは反則……ぶふっ!」
枕の直撃を受けた。
「どうしたんだ、キジ……うぉう!」
心配して扉から顔をだしたハルさんの横の壁に、小刀が突き刺さった。
「ちょっと、今……忙しい、後で声かけて!」
物理飛行攻撃にいっぱいいっぱいのキジが怒鳴ると、ハルさんは慌てて引っ込んだ。
「落ち着け、リウヒ」
「わたしは落ち着いている」
肩で息をしながら、血走った目は室内を見渡している。投げられるものを探しているのだろう。何かを見つけて走り寄ろうとした瞬間、音をたてて蹴躓いた。
「ああ、ほらもう、いわんこっちゃない……」
「離せ、馬鹿! 馬鹿キジ!」
抱え上げるとジタジタと暴れたが、すぐに力尽きて大人しくなった。
「おれはな、リウヒ」
寝台に連れ戻し、自分もその端に腰を下ろす。
「今回は言いすぎたとは謝らねえぞ。もう一度言う、自殺は最低の卑怯者がやることだ」
リウヒはふてくされたように横を向いていた。
「残されたものを考えてみろよ。おれ、クロエ、頭領、お前の仲間、宮の人間、いやティエンランの国民全員が、悲しみと失望のどん底に叩き落とされるんだぞ。お前、王さまだろう」
キジの言葉と共にリウヒが目を見開いてゆく。
「王さま……」
「おれは、親友が……」
「キジ、キジ!」
リウヒが勢いよく抱きつき、不意を突かれてキジはひっくり返った。
「ちょっとまてこら、ここからがいいところ……きゃー! おれ、襲われてる! 貞操の危機、貞操の危機、ダレカタスケテー!」
リウヒはわめくキジに構わず、頬に口づけをすると、その体を思い切り抱きしめた。
「痛え! おま、結構馬鹿力……!」
「ありがとう、キジ。目が覚めた」
キジはわめくのをやめて、横に張り付いているリウヒを見る。
リウヒが顔をあげてキジを覗きこんだ。その黒い瞳がキラキラ光っている。
「キジが、わたしの人生の中にいてくれて、よかった。本当によかった……」
「それ、すごい殺し文句……」
至近距離で見つめあう。キジの手がリウヒの頭に回った。ゆっくりと自分の方に引き寄せる、リウヒも真っ直ぐそこに向かってくる。お互いが目を閉じ、唇が触れた。
その瞬間。
「キジ! 頭領が帰ってくるぞ!」
扉が慌しく叩かれた。二人は弾かれたように離れ、リウヒは勢い余って寝台から転げた。
「やべ!」
キジが慌てふためいて起き上がる。うろたえている男を見て、寝台に頭を持たせかけながら、リウヒが呑気に言った。
「なんだか、間男を見送る気分だ」
「なに寝言いってんだよ。どうすんだよ、この部屋」
先ほどリウヒが怒りにまかせて投げつけたものが散乱している。
「キジが片づけて、わたしは動けない」
「馬鹿。自分で散らかしたものは、自分で片付けろ」
ぽすんと藍色の頭をはたく。
「じゃあな、リウヒ。元気になってよかった」
「ありがとう、キジ。大好き」
笑顔を一つ残して、キジは部屋を出、部屋の前に立っていたハルさんに声をかけた。
「頭領はどれぐらいで帰ってくんだ?」
「もうすぐ着く。なあ、嬢ちゃんは……」
「いや、なんだか滅茶苦茶に元気になってしまった」
針金で鍵をかけながら、苦笑した。
「ありかとな、ハルさん」
「いいってことよ」
「さて、と。おれ、ちょっと舳先で一眠りしてくるわ」
呑気に手を振って舳先へふらふらと向かう。
いつもリウヒが座っている場所へ、崩れるようにへたり込むと、頭を抱えてもだえ始めた。
うおおう、やべえ。あの時声がかからなかったら、そのままいっちゃってたぞ、おれ。
……。
いや、いっちゃいたかったな、むしろ。
いやいやいやいや、何を考えてるんだ、おれは!
両手で頭をかきまわし、唸り声を上げる。
――キジが、わたしの人生の中にいてくれて、よかった。
――ありがとう、キジ。大好き。
畜生、可愛い声で頭ん中、クルクルまわるんじゃねえ。
両足をばたつかせて、多々良をふんだ。近くの小樽を思い切り蹴飛ばす。
ああああ、もう。どうしたおれの心臓! 静まれおれの心臓!
キジの奇っ怪な行動を、空を飛ぶ鳥たちが無関心に眺めていた。