背を裂かれた海老たち
蒸し暑さが肌にまとわりつく、夏の日だった。
私たちは、新たな命という祝福が訪れていることさえ忘れるほど、
ありふれた日常の中で暮らしていた。
隣家の人々とともに、
汗ばむ暑さの中で冷麺をすすっていた。
そのとき、路地の奥から声が響いた。
「アイスケーキ!」
隣の子どもが真っ先に反応し、
私のもとへ駆け寄ってきて、ねだるように見上げた。
私はその子と並んでアイスを食べながら、
家主の男性にふと尋ねた。
「どうして、私たちとこんなに親しくしてくれるんですか?」
彼は一瞬きょとんとしたあと、
腹を抱えて笑い出した。
「他の日本人は、みんなこの国から逃げようとしてたろう?」
「正直に言えば、最初はお前のことも気に入らなかったさ。
日本人だからな。」
そう言って、少しだけ真面目な顔になる。
「でもお前は違った。」
「日本人なのにここに残って、
朝鮮人の妻と一緒に必死に生きてる。」
「他の連中は搾り取ることばかり考えてたが、
お前は自分の力で稼いでる。」
「それに――」
少し間を置いて、彼は言った。
「蔑まれても、逃げないお前がな。
なんだか放っておけなかったんだ。」
照れくさそうに笑う。
「そういう真っ直ぐなところ、嫌いじゃない。」
焼けつくような夏だった。
--1.9.5.0/0.6/1.5--
その日も、私たちは冷麺を食べていた。
不意に、門を叩く音が響いた。
開けてみると――
「スミス?どうしたんだ?」
彼は言葉を選ぶようにして言った。
「今すぐ基地に来てくれ。厄介なことが起きた。」
私は急いで支度を整え、
彼の用意した車に乗り込んだ。
基地に着くと、
事務室の中は慌ただしい空気に包まれていた。
スミスが低い声で告げる。
「北が南に攻めてくるっていう情報が入った。」
「もし戦争になったら、俺が迎えに来る。」
私は思わず聞き返した。
「戦争……?どうしてそんなことに……」
だが彼自身も確信はないようだった。
「最近、北の軍が集結してるらしい。」
「この話は誰にもするな。」
私は、自分の立場よりも先に
妻のことを思った。
(もうすぐ出産なのに……)
「お前だから話したんだ。」
「少しは事情も分かるだろうしな。」
帰り際、車を降りたとき、
スミスは短く言った。
「……幸運を祈る。」
その一言が、
妙に重く胸に残った。
戦争――
もし本当に起きたら。
逃げるべきか。
妻に話すべきか。
誰かに知られたらどうなる。
考えがまとまらないまま、
私は家の前に立ち尽くしていた。
そのとき――
「あなた、どうしたの?」
大きくなったお腹を抱えたチヨが、
ゆっくりと外へ出てきた。
「……いや、なんでもない。」
私は笑ってごまかした。
「今日の晩ごはんは?」
結局、何も言えなかった。
この日常が、
少しでも長く続くことを願うしかなかった。
--1.9.5.0/0.6/2.5--
その後も、私はいつも通り仕事に出た。
だが最近は、めっきり仕事が減っていた。
米軍は次々と撤収し、
日本人もほとんど姿を消した。
日雇いのような仕事を転々としながら、
その日その日を生きていた。
唯一のアメリカ人の友人、
スミスもまた、日本へと配置換えになった。
龍山駅前の広場。
子どもたちの笑い声、
線路を走る列車の轟音、
行き交う人々の足音。
それらが混ざり合い、
広場を満たしていた。
だが――
その日は、どこか違っていた。
夏の盛りだというのに、
妙に兵士の数が多い。
軍用トラックが列をなし、
兵士たちが小隊を組んで行き交う。
軍靴の音が、
まるで黒い雲のように広場を覆っていた。
いつも通りの朝のはずなのに、
どこか歪んでいた。
収穫もなく家へ戻ると、
家主の男が飛び出してきた。
「どこへ行ってた!」
腕を掴まれ、そのまま家の中へ引き込まれる。
そして――
「戦争が始まった。」
「……戦争?」
彼は声を潜めた。
「北が攻めてきた。
戦車を引き連れてな……!」
頭の中で、
朝の光景が一気につながった。
トラックの列。
兵士たちの動き。
そしてスミスの言葉。
すべてが現実だった。
その夜。
眠りにつく前、
私は妻の顔を見つめた。
「こんな時に……」
胸が締めつけられる。
声にならない涙を飲み込みながら、
私は逃げるように眠りへ落ちた。
--1.9.5.0/0.6/2.6--
白い雲が空一面に広がる日だった。
チヨが久しぶりに味噌汁を作ろうと、
重い体を引きずるように台所へ向かった。
その一歩が――
すべての始まりだった。
「……あなた……」
振り向いたときには、
すでに遅かった。
破水していた。
私は慌てて彼女を支え、
寝かせると、すぐに隣家へ走った。
「おじさん!」
事情を伝え、
夫婦を連れて戻る。
様子を見た奥さんが言った。
「まだ痛みは来てないのね。」
「でも安静が一番よ。」
外へ呼び出された私は、
家主の男の重い言葉を聞いた。
「北の軍が、もうすぐそこまで来てる。」
「ここにいたら……お前は危ない。」
私は思わず口にした。
「じゃあ……妻は……」
「チヨさんはうちで預かる。」
「お前は南へ行け。」
その言葉が、胸に突き刺さった。
――ここから先は、もう一歩で“別れ”になる。
私はしばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
やがて、かすれるような声で言った。
「……嫌です。
子どもが生まれるのを、この目で見てから行きます。」
――その瞬間。
パシンッ、と乾いた音が響いた。
頬に鋭い痛みが走る。
「目を覚ませ!」
家主の男の怒鳴り声が、胸を打った。
「その意地で、妻を未亡人にする気か!」
「お前はもう一人じゃないんだ!父親になるんだぞ!」
「生まれたばかりの子どもを見て、死ぬつもりか!?
答えろ!」
言葉が、何も出なかった。
ただ、視界がにじんだ。
「……実は……」
絞り出すように、声が漏れる。
「戦争が起きるかもしれないって……知ってました……」
堰を切ったように涙があふれ出した。
「でも……怖くて……」
「この日常が壊れるのが怖くて……」
「誰かに言ったら、全部終わる気がして……
何も言えなかったんです……」
男は大きくため息をつき、
私の背中を強く叩いた。
「まったく……情けないやつだ。」
だが、その声はどこか優しかった。
「荷物は用意してやる。
日が落ちたら出発しろ。」
家に戻ると、
チヨが静かに待っていた。
「……私は大丈夫です。」
その一言に、
胸の奥が崩れた。
「大丈夫なわけないだろ……!」
声が震える。
「ごめん……本当に……」
「こんな時に、そばにいられないなんて……
こんな夫で……ごめん……」
私は彼女のそばで、
子どものように泣いた。
彼女は、そんな私を
そっと包み込むように撫でた。
まるで陽だまりのような、ぬくもりだった。
どれほど時間が経ったのか。
気がつけば、彼女の隣で眠っていた。
目を覚まし、隣家へ向かうと、
奥さんがチヨにお粥を食べさせていた。
家主の男は、
出発の準備を手伝うと言ってくれたが、
私は首を振った。
「自分でやります。」
チヨはすでに疲れきっている様子だった。
私は、静かに言った。
「……必ず、戻る。」
彼女は弱々しくも、微笑んだ。
「……どうか、ご無事で……」
その笑顔は、
まるで風に揺れる花のようだった。
門を出た瞬間、
涙が視界を遮った。
(俺は……父親だ。)
男の言葉を、何度も反芻しながら
私は歩き出した。
しばらくして市街へ出ると、
すでに混乱が広がっていた。
「北がもうすぐ来るらしい……!」
「もうソウルに入ったって話もあるぞ!」
「どうすればいいんだ……!」
人々のざわめきの中を、
私は無言で進んだ。
遠くから、太鼓のように響く爆音。
途切れることなく走る軍用トラック。
流れに導かれるように、
私は漢江へとたどり着いた。
橋の前は、
兵士と避難民で埋め尽くされていた。
「……橋は無理か。」
そのとき、
橋の下にある船着き場が目に入った。
荷物が少なかったのが幸いした。
私は船頭に声をかけた。
「対岸まで……頼みます。
お金は払います。」
握らせたのは、米ドルだった。
船頭は渋い顔をしたが、
やがて小さくうなずいた。
船が静かに動き出す。
川の上で、彼はぽつりと呟いた。
「――間於斉楚って言葉、知ってるか。」
私は首を振った。
彼は続けた。
「強いもの同士の間に挟まれて、
弱いものが苦しむって意味だ。」
その言葉は、
まるで今の状況そのものだった。
私は何も言えず、
ただ水面を見つめ続けた。




