連絡先︰「しねよ、カス」
#連絡先︰「しねよ、カス」
ドアが閉まる音が、妙に優しかった。
それだけが、今日の“違和感”。
足音も文句も残さず、男は出ていった。
テーブルには、飲みかけのグラスと――
置いていったはずの財布。
中身だけ、きっちり消えてる。
女はグラスを手に取って、
自分の唇が触れたあたりを、そっとなぞる。
男の指が掴んだ場所に、体温が追いつかない。
ソファに崩れ落ちるように座り、スマホを開く。
指先が、迷いもなく連絡帳を辿る。
『しねよ、カス』
その五文字に、
どこか愛着すら覚えてしまった自分が、いちばん怖い。
「……今日も、“あたしの全部”、持ってってくれて…ありがと」
そう呟いて、女はスマホを胸に押し当てた。
誰にも言えない秘密を、心臓の代わりにして。
---
一度だけ、
あの人が、心から笑った夜があった。
まだ「付き合ってた」のか、
もう「都合のいい女」になりかけてたのか、曖昧な頃。
冬の終わり、雨の夜だった。
「寒いね」って言いながら、
コンビニの前でホット飲料を二本買って、
片方を、ポケットに押し込まれた。
「あっち、風すごかったろ?
ほら、あったかいの。飲める温度まで待ったから」
渡された缶コーヒーは、もうぬるかった。
けど、指先が火傷しそうなくらい――あたたかかった。
……あのときだけは、
ちゃんと“彼女”だった気がした。
金も、身体も、何も差し出さずに、ただ隣を歩けた。
それが、最初で、最後だった。
「……ずるいよ、あんたは」
ぽつりと零れた声が、
誰もいない部屋の空気に、静かに沈んでいく。
その夜だけが、
今でも、あたしを引き戻す罠になってる。
――酒が、切れていた。
代わりに飲んだ常温の水が、
喉を刺すみたいに冷たく感じる。
スマホの画面に浮かぶ名前を、
ぼんやりと見つめる。
『しねよ、カス』
……この名前をつけたのは、いつだったっけ。
たしか、喧嘩の勢いで。
最初は、冗談のつもりだった。
でも今では、これがいちばんしっくりくる。
いちばん、“本音に近い仮面”になった。
「……なんで、来るたびに奪ってくの?」
小さく呟いた声が、
止まらなくなっていく。
「……なんで、あたしだけ、
ずっと“さよなら”の準備してなきゃいけないの……?」
「あんたはさ、優しくして、抱いて、笑って、
そのまま“何もなかった顔”して帰っていくじゃん……」
「あたしは、ずっと、
ずっと、すり減ってるのに……!」
「死ねよ、カス……死ねよ……
愛してるなんて言わなくていいから、
一回くらい、あたしのこと、見てよ……!」
嗚咽が混じる。
涙か、汗か、息か、
もう自分でもわからない。
「……変わらないって、わかってるのに。
なんで、“また来てほしい”って思っちゃうんだよ……
……最低だよ、あたし……」
誰にも届かない声が、
部屋の壁に跳ね返って、また胸に刺さる。
---
気づけば、ソファの下で朝を迎えていた。
電気は点いたまま。
昨夜の涙で張りついた頬が、重い。
のろのろと身体を起こし、スマホを見る。
充電は切れかけ、通知はゼロ。
それが少し、ホッとしてしまった自分が気持ち悪い。
キッチンでぬるい水を一杯。
空っぽの胃に落とし込んだあと、
もう一度、スマホを手に取る。
その瞬間――震えた。
着信。
名前は、いつもどおりの五文字。
『しねよ、カス』
無音の部屋に、
その通知だけが、やけに生々しく響く。
女はスマホを持ったまま、数秒動けなかった。
心臓が、また“嘘の鼓動”を始める。
出る理由はない。
でも、出ない理由も、ない。
指先が画面に触れる。
「応答」か「拒否」か、
選ばないまま数秒が過ぎた――
やがて、着信は切れる。
何も言われないままに。
その代わりに、通知バーには別のアイコンが並んでいた。
『新しい出会い、見つけませんか?』
→マッチングアプリ・本日おすすめ3人を表示中
女は、無言でそれをタップする。
画面が切り替わり、
“自己紹介を入力してください”の文字が浮かぶ。
しばらく黙ったあと、
女は、震える指で一言だけ打ち込んだ。
――『優しくしないでくれる人、いませんか。』
画面の右下には、“保存”のボタン。
タップするだけで、
あたしはようやく“違う誰か”になれる気がしていた。
……けど。
指がそのボタンに触れる、ほんの一瞬前。
スマホが、震えた。
着信。
『しねよ、カス』
女はしばらく、画面を見つめる。
「……はやいな」
そう呟いて、そっとスマホを伏せた。
――保存は、しなかった。