遺言伝言ゲーム
「おじいちゃん……ぐすっ、ぐすっ」
「うえーん」
「お父さん……」
「親父……」
灰色の雲が低く垂れこめる空の下、時代から取り残されたかのように静かに聳え立つ大豪邸、曾根山家。その当主、曾根山源蔵は長きにわたる闘病生活の末、ついに息を引き取った。享年九十四。大往生だった。
その訃報を聞いた親族一同が駆けつけ、和室で布団に横たわる彼を囲む。
「……ほんと、無駄に長生きしやがってよお」
「兄さん、なんてことを言うんだ!」
「そうよ! 非常識だわ!」
長男の一成が吐き捨てた言葉に、すぐさま次男の修二と長女の麗美が同時に声を上げた。その反応の速さに、一成は思わずふっと笑みを漏らし、次に鼻で笑って言い返した。
「はっ、よく言うよ。さっきの芝居がかったセリフはなんだ、修二。『親父……』ってさ」
「な、僕は本気で悲しんで……」
「お前もだぞ、麗美。ガキに泣き真似までさせてよ」
「は!? 失礼なこと言わないでよ!」
「ママー、おじいちゃんが死んだからおもちゃ買ってくれるんでしょ? 早く帰ろー」
「黙ってなさい!」
「ははは、素直でいい子じゃないか。まあ、おれと光也ほどじゃないけどなあ」
「ははは、一緒にしないでよ、一成兄さん。僕はちゃんと悲しんでるさ。……まあ、正直このあとが楽しみだけどね」
三男の光也が苦笑した、その直後。背後の襖が静かに開き、黒いスーツをまとった中年の男が姿を現した。
「えー、皆さんお揃いですね。私は弁護士の――」
「おーおー! おいでなすったあ! お待ちかねの財産分与発表タイムだ!」
一成が手を叩きながら芝居がかった口調で叫ぶ。麗美と修二はその軽薄さに眉をひそめるが、否定はしない。無言のまま、弁護士を見つめた。
「ええ、源蔵様の遺志に従い、これより遺言状の開封を行いたいと思います。つきましては、相続資格をお持ちの、長男・一成様、次男・修二様、三男・光也様、長女・麗美様以外の皆様には、一時ご退室をお願いします」
「ほら聞いたな! 出てった出てった!」
手で払うような仕草をする一成に、麗美が苛立った様子で声を上げた。
「ちょっと! ここでそんな話をするつもり? お父さんの前なのよ。私たちが別室に行きましょうよ。あの子たちだって、おじいちゃんにお別れを言いたいでしょうし……」
「ママー、この部屋カビくさーい」
「もう! パパと一緒に出てなさい!」
ばたばたと退室していくそれぞれの配偶者と子供たち。部屋には弁護士と四人の兄妹だけが残された。弁護士は静かに封筒を取り出し、封を切る。紙の擦れる音がやけに大きく響いた。高まる緊張感に、四人は思わずぐっと唾を飲んだ。
「えー、遺言書にはこう記されております……『遺産の配分は伝言ゲームで決める』と」
「……は?」
「伝言ゲーム?」
意味が理解できず、四人はその場で固まった。弁護士は淡々と続きを読み上げた。
「はい。まず私が長男の一成様に遺産配分の内容をお伝えします。一成様はそれを修二様に伝え、修二様が光也様に、光也様が麗美様に、という順で伝え、最後に麗美様が私にお伝えください」
「え、ちょっと待ってよ。それでどうなるの?」
「聞いてなかったのか? それで遺産の配分が決まるんだろ。ちょっと面白そうじゃないか」
「修二、お前馬鹿か? それだと最後の麗美が全部決められるだろうが」
「たしかにそうだね。『遺産をすべて麗美に譲る』って言っちゃえばさ。このゲームは破綻してるよ」
「ちょっと、私を強欲みたいに言わないでくれる?」
「じゃあ最後に、元の内容と照らし合わせるのか? 一番かけ離れていたやつが失格とか」
「それでも最終的に麗美が何を言うかで全部決まるよ。わざと自分の取り分を減らして他の人を多く見せかける、なんて手も使える」
「いや、それがそのまま配分に反映されるかもしれない。麗美もそう簡単にリスクは冒せないぞ」
「だから、私のことを何だと思ってるの。ちゃんと光也兄さんの言ったとおりに伝えるわよ。まあ、それが最初の内容と一致するかどうかは知らないけどね」
「そろそろ始めてもよろしいですか?」
弁護士の一声で、場の空気が変わった。兄妹たちの表情から笑みが消え、眼差しに真剣さが宿る。
「では皆様、互いに聞かれないよう少し距離を取ってください。源蔵様を中心に四角形を作り、自分の番以外はその場から動かないように。伝え終えたら、元の位置へお戻りを」
指示に従い、四人はそれぞれの位置に立った。布団の上に横たわる父の遺体を囲み、沈黙の四角形ができあがる。弁護士は頷くと、一成の元に近づき、耳元で静かに囁いた。
「では、一成様にお伝えします。お耳を拝借。『遺産は……………………譲る』」
「……ふふ、ふふ……ははははっ!」
一成が突如、声を上げて笑い出した。その場違いな笑いに、他の三人の顔が曇る。修二が引きつった笑みを作り、声をかけた。
「ははは、どうしたんだよ、兄さん。次は僕だろ? 早く教えてくれよ」
「ああ……そうだな。だが少し待て」
一成は口元に手を当て、深く目を伏せた。何かを思索するように、わずかに眉根を寄せている。
その沈黙に、修二、光也、麗美の三人も息を呑み、考え込む。
弁護士が伝えた言葉の短さからして、遺言の内容自体はそこまで複雑ではないはず。でも、一成兄さんはなぜ笑ったんだ? 父らしくない内容だったのか? 一族全員に均等に配分するとか……。いや、いずれにせよ兄さんがこうして考え込んでいるということは、そのまま伝える気はないってことだ。何かしらの改ざんをしてくるに違いない……。
「……よし。修二、伝えるぞ。いいか、『遺産は…………と…………に譲る』だ。おい、ちゃんと聞いたか?」
「あ、ああ……光也、ちょ、ちょっと待ってくれ」
「うん、いいよ」
何を待つというのか。光也は、あえてそれを指摘しなかった。微笑を浮かべたまま、静かに考えを巡らせる。
おそらく、一成兄さんは修二兄さんを取り込みにかかったはずだ。たとえば、『遺産は一成と修二に均等に譲る』とか。……いや、一成兄さんのことだから、自分に多く割り当てていてもおかしくない。六対四、下手すれば七対三くらいか。
もっとも、修二兄さんがその内容をそのまま僕に伝えるとは考えづらい。僕が納得するわけがないし、当然僕にも取り分があるように修正してくるだろう。その場合は、修二兄さんが六で、僕が四。もしくは公平を装って三等分か?
だが、父の本当の遺言をそのまま伝えてくる可能性も捨てきれない。一番有利なのは最後に見えて、実は最初の者なのか?
ただ、僕が気をつけなきゃいけないのは、麗美への伝え方だ。仮に修二兄さんが『四・三・三』の配分で伝えてきた場合、僕もその内容を改ざんしなければならない。麗美が納得するはずがないからだ。そうなると、結局遺産は均等に分けられることになる。なんだ、意外にも父さんは公平になるように、このゲームを考えたのかもしれない。
「よし、光也。伝えるぞ。『遺産は………………』」
「え……? ちょっと兄さん、もう一回いいかい?」
「修二様。お戻りください」
「だそうだ。伝えたからな」
淡々と告げてその場を離れる修二。光也はまばたきし、再び逡巡する。一方の麗美も、兄たちの微妙な反応を見て、心中で次々と思考を巡らせていた。
聞き返す必要なんてある……? もしかして、あれも演技? 普通に考えれば、『均等に配分する』って伝えてきそうだけど。あるいは自分を少し多めにして……いや、そもそもそんな単純な話じゃないか。遺産を種類ごとに分ける形なのかもしれない。現金は一成兄さん、美術品は修二兄さん、土地は私と光也兄さん、とか。そんな内容なら、誰が得なのかすぐには判断できない。だとしたら困るわ。資産の詳細も把握しきれてないし。
……いいえ、関係ない。聞かされる内容がどんなものであれ、私はもう何を言うか決めている。『兄妹均等に』。これが最も公正で、好印象な答えでしょ? 正直言えば、うちには子供が二人いるし、しかも今お腹の中にもいるから多めに欲しいけどね。
そうよ。一成兄さんのところは子供が一人だけだし、修二兄さんのところなんて作る気配もないし、光也兄さんはまだ独身なのよ。妹に多めにくれるくらいの度量を見せてほしいものよね。
ちょっと多めにもらおうかな……いや、でも、あの父さんのことだから、最後に伝えられた内容の“逆”を正式な遺言として採用するとか、そんな仕掛けがありそうよね。あるいは、一番少なかった人に全額譲るとか。一番多い人は失格とか。もしくは改ざんした人には一円も渡さないとか。ああ、ほんと厄介……あのジジイ……。
「麗美、麗美?」
「ああ、ごめんなさい。ぼーっとしてたわ。伝えてくれるのよね? どうぞ」
「ああ、じゃあ言うぞ。『遺産は………………』」
「そう…………」
「麗美様?」
「あ、はい。何かしら?」
「私にお伝え願えますかな?」
「え、ええ、もちろん。では、言いますね。『遺産は…………』」
「……はい、確かに承りました。では、前の方々がどう伝えられたか、順に確認いたしますので、皆様、その場でお待ちください。一成様は私がお伝えしたので、修二様からです」
「あ、ああ……」
弁護士は一人ずつ丁寧に話を聞いていき、再び定位置へ戻った。次に彼は源蔵の遺体の前へと行き、深く一礼すると、静かに膝をついた。
「あの、弁護士さん? 何をしてるの……?」
「お伝えするのです」
「伝えるって……それ、親父だろ?」
「ええ、お静かにお願いします……『ご子息の皆様は…………』」
戸惑う四人の目の前で、弁護士は源蔵の耳元にそっと囁いた。そして、その直後――。
「ははははははは! 全員失格! ははははははは! 失格! 失格失格失格失格! ははははははははははははははははははははは!」
源蔵が跳ね起きた。目を見開き、口を大きく開け、哄笑を響かせる。その異様な光景に、一成は仰け反って数歩下がり、修二は尻もちをつき、光也は凍りついたように固まり、麗美は甲高い悲鳴を上げた。
その騒ぎに気づき、親族たちが部屋へ駆け込んできた。しなびた観葉植物のように腰を曲げて笑い続ける源蔵を見て、彼らは恐れ慄いた。
気が狂いそうな笑い声が響く中、麗美の子供が鼻をつまんで言った。
「うんちくさーい」