1.複雑化する現代社会と分断された思考
私たちが生きている現代社会は、過去のいかなる時代とも異なる“情報密度”と“複雑さ”を持っている。
一人の人間が日々触れる情報量は、百年前の国家指導者すら凌駕すると言われる。
通信は瞬時に国境を越え、思想はSNSを通じて拡散し、仮想空間では無数の価値観がぶつかり合う。
あらゆる分野で「専門化」が進み、人は“自分の理解できる領域”に閉じこもるようになった。
この現象は決して悪意に満ちた分断ではない。
むしろ、処理できないほどの情報洪水に対応するために、人間が本能的に選んだ“適応”の形である。
だがその結果、社会全体では「思考の分断」が進行している。
科学者は事実に語り、宗教家は信仰に語り、政治家は利に語り、若者は感情に語る。
それぞれの立場は正しく、それぞれの論理は自足しているが、共通の地盤を持たないがゆえに対話は成立せず、すれ違う。
「話が通じない」という体験は、もはや日常的だ。
家庭内でも、学校でも、社会の中でも、“理解しあえなさ”が前提として存在してしまっている。
この思考の分断は、必然でもあり、危機でもある。
なぜなら、情報が爆発し、AIが進化し、社会が地球規模で結びついているにも関わらず、私たちの“思考の構造”そのものは、まだ“古い階層”にとどまっているからだ。
人は今なお、「善か悪か」「正しいか間違っているか」といった二項対立的な思考法を抜け出せずにいる。
あるいは、専門性を極めた代償として、他分野を切り捨て、全体像を見失っている。
そしてこの「部分と部分の対立」こそが、分断を固定化し、社会全体の進化を遅らせているのである。
世界は複雑であり、重なり合い、循環し、螺旋のように伸びている。
にもかかわらず、私たちはそれを直線的な思考で見ようとする。
その差異が、時に争いを生み、誤解を生み、孤立を生み出している。
だからこそ今、求められているのは「新しい構造理解のフレーム」である。
感情と理性、信仰と科学、過去と未来、死と生、現実と仮想──
それらを“繋ぐ”構造を、私たちは思考の中に持つ必要がある。
分断された思考に橋をかけるには、世界そのものの構造を問い直すことから始めなければならない。
そしてそれは、いまこの瞬間を生きる私たちが“考えるべき責任”なのだ。