8 婚約解消してください
ヴィンスがヒロインに惹かれてきているのであれば、悪役令嬢は潔く身を引くべきっていうのはわかっている。
わかっているけど、私はなかなかそれができない。
ヒロインがすごい良い子なら、たぶんちゃんと身を引けたんだろう。でも、アイリーン嬢は見た目はヒロインだが、前に嫌な子だと感じた通りやっぱり性格も最悪だった。
先日、いつもお茶の準備でお世話になっている王宮メイドが怒って教えてくれた。
使節団と宮廷薬師の上層部の会議で、メイドが準備したお茶をあとは配るだけってところでアイリーン嬢はやってきて、さも自分が準備したかのように振る舞ったらしい。
もちろんみんなからの評価は「聖女なのにこんなことまでやって素晴らしい」というものだったとか。
準備が大変なのに、人の手柄を横取りするなんて……。
ヴィンスは本当にこんな人、好きになるのかな。
それにヒロインに惹かれ始めていると思ったヴィンスだけど、根っから優しいせいか決して私に冷たい態度をとったりはしない。
だから私はみっともなくヴィンスの婚約者の座に縋り付く。
ただ、昔から私以外の女性に不必要に触られるのを嫌がるヴィンスがヒロインの治療という名のキスを毎回受け入れていると思うとやっぱりヒロインに心が惹かれ始めているのだと思う。
ヴィンスはアレ以来私の前で治療を受けたりはしない。
だけど、昼にはあった指の傷が夕方にはなくなっている。しかもほぼ毎日。
ということはほぼ毎日アイリーン嬢からのキスを受けているのだろう。
そしてわかってはいたけど、それをヒロインはウキウキと私に報告しにくる。
「あー、そうそう、クレア様! ヴィンセント王子様だけどね、毎日傷だらけの手で私のところにやってくるの。それでね、癒しのキスをしてあげると喜んで受け入れてるわよ!」
「っ!」
心のどこかで、もしかしたら研究中の魔法薬で治しているのかもという期待があった。
だから、はっきり聞かされるとやっぱりつらい。
「うふふっ、卑怯な手を使っても、ヒロインの力は超えられないみたいね! 王子様は私のものなんだから!」
だいたい、王太子の執務は書類仕事が多いのはわかるのだけど、毎回毎回そんなに指を怪我するかな?
ヴィンスもヒロインからキスしてもらうために怪我してきているように思えてならない。
◇
一度姉が私に会いに王宮に来てくれたから、そのときに相談してみた。
姉からはヴィンセント殿下がクレア以外を好きになるなんてあり得ない。ヴィンセント殿下のことを信じて、余計なことを考える暇があったら、本でも読んで過ごすようにと言われた。
そして姉おすすめの小説を貸してくれた。王子様がお姫様の裏切りで闇堕ちして魔王になるストーリーらしい。お姫様には裏切らなければならないお姫様の事情があった、みたいな話だけど、これ、面白いのかな。
そして、今はまたヒロインに中庭でのお茶会を邪魔されている真っ最中だ。
アイリーン嬢はずーっと、こないだヴィンスの同行した魔法薬の素になる魔法花の花畑への視察の話をしている。
たくさんの魔法花がこんなふうになって、あのときは楽しかったですねー! って話。魔法花のこんな変化も興味深くて──みたいな、まるで二人でお花畑でデートをしたような話を聞かされて、私の心にドロドロとしたものが溜まっていく。
私は魔法花の花畑には行ったことがない。魔法薬の素になる大切な花だから、王宮の管理下にあり勝手には出入りできない特別な場所だ。
そんな特別な場所に王子様と一緒に行けて、お姫様になった気分ってアイリーン嬢が楽しそうにクスクスと笑うと不快な心地になる。
そしてイライラしてしまった私は失敗する。
「ヴィンス、覚えていますか? 私たちが初めてこの中庭で会った日もこのオレンジケーキが出されたんですよ」
そんなふうに私が話しかければ、ヴィンスは楽しそうに返事をする。懐かしく思いながら昔の思い出話に花を咲かせると、アイリーン嬢はもちろん面白くないわけで。
突然ポロポロと涙を流し始めた。
「お二人で私のわからない話をして……」
「あ、ごめんね。アイリーン嬢」
すぐにヴィンスが謝ると、アイリーン嬢がヴィンスに縋りつきながら「ひどいです」と訴える。
始めに私のわからない話をしてきたのはあなたでしょうと言ってやりたい。
そして、運が悪かったのは偶然廊下を歩いていたメッテルーナの神官長が窓からアイリーン嬢が泣いているところを目撃してしまったようで、慌てて中庭にやってくる。
「またあなたですか! アイリーン様は聖女なのですよ! なぜ泣かせるようなことをするのです!」
神官長がすごい剣幕で私を責めてくる。
「神官長、クレアが悪いわけでは──」
「神官長様! 良いんです。私がお二人の邪魔をしたから……」
アイリーン嬢が涙を流し悲しげな表情で微笑んだ。
まさにいじめに耐えるいじらしい少女の絵面だった。
本当にアイリーン嬢が私たちの邪魔をしていたのだけど、神官長は私を見て「本当に邪魔者はどっちなのか」ってボソッと言った。
その台詞でハッとした。
私は悪役令嬢で、彼女はヒロイン。ヴィンスはヒロインに惹かれ始めている。
ヴィンスは優しくていまだに私をお茶に誘ってくれるけど、ヴィンスが本当に一緒にいたいのはヒロインの方。
ヒロインに邪魔をされているのではなく、私が二人の邪魔をしているんだ。
昔の思い出話を引っ張り出したのはヴィンスにこちらを向いて欲しかったから。ひとりぼっちにされて寂しかったから。ヒロインも同じ目に遭えば良いと思ったから。
私、いじわるとわかってて、ヒロインのわからない話題を振ったんだ……!
それを自覚したら、猛烈な吐き気が込み上げてきて何も言わずに席を立った。
マナーは最低だし、心配そうに「クレア!」とヴィンスが私を呼ぶ声が聞こえたけど、あの場は涙を堪えることに必死で急いでその場を去った。
なんとか自室までたどり着いたら、トイレで吐きながら思いっきり泣いた。
その夜、ヴィンスが心配そうに部屋へ様子を見に来てくれたけど、顔を合わせるのがつらくて部屋の扉を開けられなかった。
◇
はぁ、このタイミングで夜会とか最悪だ。
夜会の支度を手伝いに来た侍女には悪いことをしちゃったわ。
真っ赤に腫れた目をなんとかするため彼女は冷たいタオルと温かいタオルを交互に当てて一生懸命メイクでカバーしてくれた。
ヴィンスは婚約者だから私をエスコートするために部屋まで迎えにきてくれた。
「調子悪そうだけど大丈夫? 昨日メッテルーナの神官長にはクレアは悪くないと説明しておいたけど、調子悪いなら無理しなくても良いよ」
ヴィンスは優しくそう言ってくれるけど、この程度で体調を崩すようなら王太子妃に向いていない。私は「平気です」と言ってヴィンスの腕を取る。
そして、ヴィンスの腕の温もりを感じながらこっそりと自嘲する。
王太子妃には向いてないって体調不良で引っ込んでしまえば良いのに、無理して夜会に参加するなんて、私、全然ヴィンスの婚約者の座を諦めきれてないじゃん。
夜会が始まって、アーロン様と談笑をしていたアイリーン嬢はヴィンスを見つけるとすぐにこちらに駆け寄ってくる。
そして、ヴィンスの隣を私から奪う。
胸が痛い。
二人並んでいる姿が視界に入るのが不快で私はその場を離れた。
いつもはそれなりに社交を行うけど、今日は調子も悪いからいっそ、壁の花にでもなろうかな。
会場の隅で佇んでいるとなぜかアイリーン嬢が近づいてきた。
「クレア様」
にっこりと嫌な笑顔を向けてくる。
「……なんでしょう」
私は顔を強張らせてアイリーン嬢の攻撃を待った。
「昨夜、ヴィンス様と一緒に過ごしたんですよ」
「は?」
かなりパンチの効いた攻撃で、淑女らしからぬ声が出た。
「私、初めてで、すごく痛かったんですけどぉ、ヴィンス様はいっぱい優しくしてくれて、朝まで一緒で……うふふっ」
どういうこと?
アイリーン嬢はクスクスと笑いながらヴィンスの方に戻ろうと歩き出した。
それだけ聞くとヴィンスと身体の関係ができたのかと聞こえるけど、そんなの嘘だと聞き返そうと彼女の肩に触れてしまったのが失敗だった。
「待っ──」
「キャーっ!!」
軽く肩に触れただけで、アイリーン嬢は大袈裟に倒れ込んだ。
「えっ……?」
アイリーン嬢の叫び声で一気に注目が集まり、真っ先に飛んできたのは例の神官長。
「アイリーン様! 大丈夫ですか!」
アイリーン嬢は神官長に支えられながら、ゆっくりと身体を起こす。
「アイリーン様、何が……!」
アイリーン嬢はポロポロと涙を溢しながら説明する。
「クレア様が……、口汚く罵ってきて……、それでも私がクレア様と仲良くしたいなんて言ったから……、クレア様が怒って私のことをすごい力で突き飛ばしたんです……」
は? 何言ってるの?
私は肩に軽く触れただけで、倒れるほど強く押したりなんかしていない。
「またあなたですか!!」
神官長が眦を吊り上げたとき、ヴィンスの「それって本当?」という声が聞こえてきた。
良かった、ヴィンスが来てくれた。公平な彼なら私の話をちゃんと聞いてくれる。
ポロポロと涙を流すアイリーン嬢はいたいけな少女に見えるが、ちゃんと公平に見てもらえれば、私が酷いことなどしていないってわかってくれるはず。
ヴィンスが私の話を聞いてくれると期待した。けど、次に続いた言葉を聞いて、私の中の何かが壊れた。
「それって本当? ……アイリーン嬢」
彼は私の話よりもアイリーン嬢を優先した。
ドロドロとしたものが一気に身体に流れ込んできた気がした。
「本当ですぅ! 私、クレア様とも仲良くしたかったのに……!」
一瞬だけ、誰にもわからないように私に見せたアイリーン嬢のしたり顔。「勝った」という顔をしていた。
ヴィンスが公平に見てくれないのであれば、やってもいない冤罪で私はヴィンスに嫌われていくんだ……。
私は耐えきれず何も言わずに逃げ出した。
マナーが悪いが走って逃げた。
みんなの視線から逃げるように走ってバルコニーへ逃げ込んだ。
バルコニーの柵に手をかけ涙を堪える。
あまり知られていないけど、バルコニーの奥には扉があって、その扉は隣の休憩室のバルコニーに続いている。
もう今日はこのまま逃げちゃおう。
そう思ったときだった。
「クレア!!」
ヴィンスが私を追ってきていた。
「ヴィンス……!」
確認するのは怖いけど、私は震える声でヴィンスに聞く。
「昨夜、アイリーン嬢と朝まで一緒だったって本当ですか……?」
せめて、今ここでちゃんと否定の言葉が聞ければ……
「ん? ああ、昨夜はアイリーン嬢と一緒だったよ。うん、朝まで──」
ああ、もうむりだ……。
「あ、あの!」
まだ彼は話をしている途中だったが、私は最後まで聞きたくなくて、それを遮った。明るい月が冴える濃紺の夜空の下、一筋の涙を流して彼に告げる。
「……殿下、お願いです。────婚約解消してください」
お読みいただき、ありがとうございました。