愛は打ち克つ
「いや、特別なことは何もない。古来の洗礼式に戻るだけだ」
ワイルド上級精霊の言葉に月白さんが頷いた。
「教会の魔法陣が完全に光り輝き神々の祝福を授かる。洗礼式のシーズンは世界中のそこかしこで教会が輝いて綺麗だったものだ」
教会が光るのは定時礼拝でも光るのでその程度ならまあいいか、とぼくたちが納得しかけたが、そんなに光り輝くのですか、と母さんがため息交じりに呟き、上級精霊がうっとりする輝きなら半端ないだろう、とぼくたちの心境は焦りに変わった。
「なに、三つ子たちもいるが、ガンガイル領には不死鳥の貴公子がいるではないか。悪目立ちしたって彼がいるから大丈夫だ」
ワイルド上級精霊の言葉に、また不死鳥の貴公子にプレッシャーがかかる、とぼくたちの脳裏をよぎったが、ああ、そうですね、としか誰も口にしなかった。
「今回はね、道連れを用意したから大丈夫だよ。ハロハロの息子と、ラウンドール公爵家のエリザベスと東方連合国の預かりっ子のキールが、洗礼式の登録は地元でするけれど、踊りだけ参加することになるはずだ。洗礼式に高貴な身分の子どもが参加するのに、光の神や闇の神役に選ばれなかった時にどう対処するかの勉強会を兼ねているから、七大神役を一人で担当せずに大勢の子どもたちを交ぜて配役を決める方法を教会関係者が学ぶ場になる」
どうやら三つ子たちの洗礼式が、ハロハロの息子が七大神役から漏れないように配慮する方法を教会関係者が学ぶ場になるようだ。
「競技会観戦終了後に洗礼式の踊りをするように時間の調節をしたら、黒い霧が暴れ出す時間と重なりそうだな」
「辺境伯領の教会から引き籠りの現場までずいぶんと距離があるのに影響があるのでしょうか?」
ワイルド上級精霊の言葉に母さんが素朴な疑問を口にすると、二人の上級精霊は、ある、と即答した。
「教会の護りの結界は大きく四つに分かれており、現場は北に属しているから大いに関係がある」
ワイルド上級精霊の言葉に月白さんが頷いた。
「現地からも護りの結界を補強しよう。皇帝には抜き打ちで領地の視察をさせ、領城の庭の大地の神の祠から護りの結界を補強しておけばだいぶ状況が変わるはずだ。領城は皇帝への対応にてんてこ舞いになるから、二、三人皇帝が若い衆をつれていても不自然じゃない」
月白さんの提案に、それでは中庭にしか行けないか、と礼拝室前の現場まで行きたかったウィルが残念がった。
「ワイルド上級精霊様が付き添ってくださるのですか?」
確認するように父さんが尋ねると、ワイルド上級精霊が頷いた。
「ああ、皇帝の側近に紛れることは可能だ。皇帝は実績を上げなければ来世で嫁と結ばれないから、月白から説明を聞けば、状況を打破するために必ず礼拝室前の廊下に行くだろう。皇帝は邪神との親和性が高いから黒い霧が発生したらのまれる前に亜空間に放り込む。皇帝は礼拝室の扉を開けなくていい。皇帝が礼拝室の廊下に護りの結界を上書きして元研究員の男が開けた小さな扉を封じてしまえば、黒い霧を抑えられるだろう。皇帝の役目はここまでだ」
「小さな扉を封じてしまえば、普通に扉を開けなければ差し入れができなくなるのですね」
黒い霧や蔦に奇襲されることはなくなるが、邪神の欠片を体内に取り込んだ男が扉を開けた時に直接対決することになる。
「散々美味しい物を口にしてきた男は扉の外の差し入れの匂いに負けて扉を開けるでしょうが、……危険ですね」
“……あたい、まだやれる”
別の亜空間で時を止められているはずのぼくのスライムの思念を感じて、どこだ?とぼくは首を伸ばした。
“……負の感情なんかに負けない。あたいはご主人様に愛されているんだもん”
うん。そうだよ。
失敗なんて気にしなくていい。ワイルド上級精霊に見守られているからぼくたちは大丈夫だ。
“……ご主人様。あたいたちは愛されているから負けないよ。わかってる。それが心の支えになっているから”
時を止められている亜空間にいるアナベルの残滓とぼくは会話をしているのだろうか?
いや、これは五回目の失敗の後のぼくのスライムの思念を思い出しているだけだ。
世界各地で競技会の上映会をしているアナベルの分身が、ガンガイル王国留学生チームの優勝に沸き立つ中で、突如として精神汚染をされた影響で、その場にいるすぐ近くの人や魔獣たちに強烈な負の感情が波及し、罵詈雑言を吐き出したり突然の暴力を起こしたりして混乱に陥った。
その被害者たちから、さらに精神汚染が伝染してしまい、上映会場は阿鼻叫喚の大混乱に陥るところで、ワイルド上級精霊の亜空間に招待され、アナベルがぼくと離れる瞬間に、絶望の中から希望を見出そうとした時の精霊言語だ。
実家の悲劇だけでなく、魔猿の村やジャミーラ領、キリシア公国やドグーラ王国、オレンジのハンスの町や猛虎の森、など、ぼくが気にかけていた世界中の地域で友人たちや魔獣たちが精神汚染に苦しむ事態に発展してしまった。
当時のぼくは現状を知ろうとアナベルと意識を共有して、世界各地の惨状を知り、あんなにアナベルを励ましたのにぼくが絶望感に囚われてしまったのだ。
“……カイル!それは、もう、なかったことになっている!”
ぼくの意識にワイルド上級精霊が精霊言語で直接語りかけた。。
“……カイルの友人たちは辛い経験をしたものが多く、邪神の欠片の影響力が大きかったけれど、カイルと出会って幸せになったことで、時を戻して精神汚染の記憶をなくしても、心の奥で嫌な感じが少しするだけで、今の幸せを噛みしめて生きていける強さを持っている”
そうだ。
終わらない苦痛に耐え抜いたハンスは、中級魔術師の試験に合格して地元で活躍しながら上級魔導士試験の受験のためにガンガイル王国王都に留学することを楽しみにしている。
あの痛みや苦しみの記憶に一時的にでも晒されたことは申し訳ないが、ハンスならこの先も前向きに生きてくれると信じられる。
……それでも、もう、同じ過ちは犯したくない!
五回も繰り返したアナベルが一番そう思っていたはずだ。
だから、五回も拘束されたアナベルは何かを感じていたはずだ。
「どうしたの?」
黙り込んで真っ白い床を眺めていたぼくにウィルが声をかけた。
「ぼくのスライムが何か情報を掴んでいたのではないかと考えて、いやな記憶に触れないように気を付けながら思い出そうとしていたんだ」
ワイルド上級精霊に記憶の蓋をされるようなひどい目に遭ったのに思い出そうとしたことに、全員がぼくに非難するような視線を向けた。
「記憶に蓋をしてもらったおかげで、昔のことをなんとか思い出すようになったから、衝撃的な出来事にも落ち着いて考えられるようになったよ。だから、大丈夫だよ」
ぼくの言葉にみんなが安堵の表情を見せると、ふと思い至った。
「アドニスやディミトリーが自我を保てたのは、愛されていたからじゃないかな?愛されて育った温かい気持ちは邪神の欠片には浸食されないのかもしれない」
ぼくの言葉に、それだ!と全員が力強く頷いた。
「スライムたちはスライムだというだけで、けっこう罵詈雑言を言われることがあったし、ぼくのスライムは危険なことをたくさんしたから、それだけ恐怖心を内包していたんだよね」
アナベルの負の感情はアナベルの経験を誇張したように増幅されていた。
スライムたちは思い当たることがあるようで頷き、喧嘩友だちのみぃちゃんとみゃぁちゃんは、確かに昔罵り合ったわ、と呟き、ただの精霊だった頃の失態を思い出したシロは無言で俯いた。
「元研究員の男があまりに後ろ向きの性格だから邪神の欠片が操りやすいのか」
父さんが溜息をつきながらそういうと、ぼくたちは頷いた。
「ぼくのスライムが光影の魔法を行使している状態で黒い霧や蔦に拘束されて精神汚染が始まっても、ぼくのスライムは愛されている記憶を鮮明に持っているから、完全に取り込まれることがない。イザークの声の魔法の援護があるのに、それでも邪神の欠片を消滅させられないのは、男と邪神の欠片の融合が進んでいて邪神の欠片を消滅させてしまうと男が死んでしまうからじゃないかな?」
ぼくとアナベルは光影の魔法を行使する時に邪神の欠片だけを消滅させるように強く念じている。
「失敗の原因がそこだったとしたら、邪神の欠片を消滅させたことで男が死んでも、カイルの責任じゃない!」
父さんが声を荒げると、ワイルド上級精霊が、そうだ、と頷いた。
「邪神の欠片が人間と完全に融合してしまっているなんて、生きる死霊系魔獣のようなものだ。気にすることはない……いや、そこまで配慮するからカイルなんだよな」
月白さんの言葉にみんなが頷いた。
「いっそのこと、厳重に扉を封鎖して男が死ぬまで待ってから邪神の欠片を消滅させたらいいんじゃない?」
キュアの発言にみんなで頭を抱えた。
「差し入れをしなくなった時点で事実上の死刑執行だよ」
「男の恨み節が加速して邪神の欠片を成長させるようなものだよ」
みぃちゃんとみゃぁちゃんの突っ込みに、それはマズいね、とキュアが残念がると気落ちして床に着地した。
「どうしたって邪神の欠片は消滅させなければならないのだから、男を礼拝室から出し、亜空間に閉じ込めてしまう必要がある。そこから男の寿命が尽きるまで監禁してしまえば、カイルが健康で幸せにさえ暮らしていてくれたら、何の問題もなく邪神の欠片を消滅させることができるだろう」
「生きる死霊系魔獣のような状態になっている男が事実上の無期懲役の状態でも問題あるまい」
ワイルド上級精霊と月白さんの言葉にぼくたちは頷いた。
「何が何でも被害がなく成功させたいが、そこに拘って、こちらが負の感情を高めてしまうと、邪神の欠片に精神汚染されてしまう可能性がある。私が危ないと判断した時には即座に亜空間に避難させる」
ワイルド上級精霊の言葉に、そうですね、と母さんとお婆が頷いた。
「細かく時間を止めて少しずつ修正しながら、慎重に対応してみたらどうでしょう」
母さんは危険がないようにコマ送りで時を進めることを提案した。
「「できないとは言わないが、やったことがない」」
二人の上級精霊が同時に答えると、シロが首を傾げた。
「邪神の欠片も学習するでしょうから難しいですね」
「いや、それでも、とりあえず避難することを優先にしようよ。やったことのないことをするときは多少の危険は覚悟しなければならないでしょう?」
時を戻すことを繰り返している膠着状態から抜け出すことを優先しようと提案すると、邪神の欠片が強くなればぼくの危険が増すことを心配している父さんと母さんとお婆とジェイ叔父さんは眉を顰めたが、渋々ながら頷いた。
細かな作戦を練り直すと、作戦を実行する全員の覚悟が決まった。
「カイルが別の亜空間にいるカイルのスライムに光影の剣で精神汚染を排除すると、時を戻す」
ワイルド上級精霊の言葉にぼくたちが頷いた瞬間、アナベルが閉じ込められている亜空間に転移していた。
「……ご主人様。……あたい、もう一度やれるわ」
真っ白な床にべったりと張り付いているアナベルは精神汚染による負の感情に負けていなかった。
そんなアナベルに頷きかけると、ぼくは光影の剣をスライムに突き立てた。
「愛しているよ、アナベル」
「ご主人様!あたい、幸せだよ……」
剣先がアナベルに触れると、アナベルは閃光に包まれた。
“……ワイルド上級精霊様の亜空間でご主人様から愛の告白を受けたら幸せに決まっているじゃない!”
闇に包まれる直前に最期の思念を発したアナベルの精霊言語がアナベルらしくて、クスっと笑うと、体が浮くような転移する感覚がした。




