ノア先生の血圧
「ゆっくり深く息を吸ってください。そうです、胸をパンパンにする手前でいいです。そうです、ちょっと息を止めてください。いいですよ。ゆっくりと深く息を吐いてください。次はそこまで深く息を吸わなくていいです。トントントン、トントントンのリズムで吸って吐いてをくりかえして……」
手を叩いてお婆がノア先生に呼吸法を指導しているが、ノア先生の腕に巻いたジェイ叔父さん特製の魔術具で状態を観察しているのはオーレンハイム卿だった。
小さいオスカー殿下の情報をノア先生に告げる前に、ノア先生の状態を整えておこう、ということになって、気持ちを落ち着かせる呼吸法をお婆がノア先生に伝授しているのだ。
ノア先生以上にノア先生の助手の方が今後に備えて熱心に聞き入ってお婆の言葉をメモに取っていた。
助手の熱量の入れ方から推測すると、ノア先生が興奮して事態が滞ることに助手はそうとう業を煮やしていたに違いない。
「小さいオスカー殿下。もういい頃合いですよ」
ノア先生のバイタルサインを確認したオーレンハイム卿が小さいオスカー殿下に声を掛けると、期待値でノア先生の脈拍が上がったのかオーレンハイム卿に、呼吸!と一喝された。
そんなやり取りに受講生たちから笑いが起きると、つられてノア先生もオーレンハイム卿も笑った。
笑ったことでノア先生のバイタルサインが安定したのかオーレンハイム卿が親指を立ててゴーサインを出した。
「事の始まりは、休暇中に訪問した魔猿の村で聖獣と化したボス猿との面会が叶った時に、不意に神託を授かったのです」
話に矛盾か生じないようにボス猿の存在を語りつつ猿の楽園の話を省力した小さいオスカー殿下に、それでいい、と兄貴とシロが頷いた。
「皇后陛下にご心酔の皇帝陛下が国土や派閥のバランスを鑑みて妻を娶り、もう十分だったところに、十七人目の妻をめとるのは不自然でした。派閥のバランスも関係ない小さな領出身の私の母が輿入れしたのには理由があるはずだ、お前は、母方の領地についてもっと知るべきだ、と神託が降り、休暇の後半の全て費やして母方の領地に赴きました」
小さいオスカー殿下が長期休暇中、帝都を不在にしていたことを知っていたノア先生のバイタルサインはまだ安定しているようで、話を続けていい、というかのようにオーレンハイム卿が頷いた。
「母方の領地で、ガンガイル王国の躍進と、ガンガイル王国独自の文化が発展を産む土壌があったのだ、と熱弁すると、この地もガンガイル王国に並び立つ歴史があり独自の文化や風習がある、と領主の祖父からいろいろな話を聞くことができました。私がそれを熱心に聞き入ると、私を外孫としてではなく内孫のように受け入れてくれたので、一族秘伝の話を聞くことができました」
小さいオスカー殿下の話が核心に向かってくると、お婆が膝の上で指をあげてオーレンハイム卿にノア先生のバイタルサインを確認させた。
オーレンハイム卿が確認する前にしびれを切らしたノア先生が、それで、と話の先を促すと、大丈夫だ、と苦笑しながらオーレンハイム卿が頷いた。
「一族の秘密にかかわる部分は話せませんが、帰宅後もとある場所の管理人との文通を欠かさず続けたことで、飛行魔法学講座の関係者になら特別に見学を許可してもよ……」
小さいオスカー殿下は結論を言いきる前にノア先生の状態を窺うようにオーレンハイム卿を見た。
肝心要の伝承について語らなかったことでノア先生のバイタルサインはまだ安定していたようで、よくやった、とオーレンハイム卿は小さいオスカー殿下に頷いた。
ノア先生ばかりに注目が集まっていたが、大岩の見学を許されたことに狂喜乱舞したい気持ちをグッと抑えて、本当かい?とぼくたちは目力で小さいオスカー殿下に訴えた。
「その特別な場所の見学が飛行魔法学講座にとって重要なことなんだね」
「荒唐無稽な一族の伝承が史実だと証明することになると、管理人は期待しています」
核心を言わない小さいオスカー殿下にしびれを切らしたノア先生のバイタルサインに変化があったのか、呼吸!とオーレンハイム卿が声を掛けた。
お婆が手を叩くリズムに合わせてノア先生が呼吸を整えると、心配そうに助手がノア先生を見て眉を顰めた。
オーレンハイム卿が頷くと助手はホッとした表情になり、小さいオスカー殿下が話し出した。
「その、荒唐無稽な伝承というのは、大聖堂島にまつわることです」
ノア先生がゴクンと息をのむと、吸って、と助手が声を掛けた。
「その昔、大聖堂島が天空に浮かんでいた時代、祖父の領地は大聖堂島と交易をする拠点となっていた土地の一つで、大きな石が空を飛び交い物資や人々を運搬していました」
小さいオスカー殿下の話に瞳を輝かせたノア先生は自主的に深呼吸を繰り返して血圧上昇を抑えた。
オーレンハイム卿が頷くと小さいオスカー殿下は口を開いた。
「……今回見学が許された場所には、その時、飛行していたといわれる大岩が祀られているのです」
ガタっと椅子から立ち上がったノア先生に向かってぼくたちは一斉に、どうどうどうどう、と馬を宥めるかのように声を掛けた。
事前の打ち合わせもなかったのにみんなで同じ行動をしてしまったことに、ぼくたちが顔を見合わせて笑うと、ノア先生も笑い出した。
「アッハハハハハハ!ヒィーッ!……気を使わせてすまなかった。馬鹿だね、私は。『神の見えざる手』はあるんだな!飛行魔法学の受講生の選定に、小さいオスカー殿下より成績のいい受講希望者がいながら、小さいオスカー殿下を選んだのは飛行魔法学では大量の魔力を消費するから魔力量を加味して小さいオスカー殿下を選ばなければならない気がしていたが、今年度の研究に小さいオスカー殿下の参加が必要不可欠だったから選定したんだ!」
ノア先生が感慨深そうにしみじみと言うと、ぼくたちは頷いた。
「大岩は大聖堂島の湖底の礫と同じように魔法が効かず、私の魔法では欠片を採取することができませんでした。今回は見学許可だけなので大岩に魔法をかけることは認められないかもしれません」
小さいオスカー殿下は大岩を守る一族だから魔法を使用する許可が下りただけだ、と念を押すと、実物が見れるだけでもいい、とノア先生は涙目で頷いた。
「現地を訪問することに意義がありますよね。タイルをいくつか持参して大聖堂島までタイルが飛ぶのか?大聖堂島まで飛んだタイルは飛ばした地点に戻ってくるのか?など検証したいことがいくつもあります」
「できれば大岩周辺の土も採取したいですね」
ぼくの言葉にケインが便乗するとノア先生は頷いた。
「ああ、そうだね。やってみたいことを整理して先方にお手紙を書かなくては!」
「先生!学校長に校外実習許可を取る方が先です!いつもの滑空場とはわけが違うのですよ!」
助手に手順を指摘されたノア先生は、ああ、そうだ、と頷いた。
「それでも、概要をまとめておかないとならないから、やりたいことを整理しよう!」
ぼくたちは授業時間が終わっても校外実習でやってみたいことを熱く語り続けた。
ノア先生ほどではなかったが、校外実習に興奮しており事前準備に奔走する日々が続くと、ある日、飛行魔法学の受講生たちが寮長室に呼び出された。
「ふむふむ。小さいオスカー殿下の祖父の領地に校外実習に行くことは、ほぼほぼ決まったんだね。……なになに、魔法学校長の許可も下りて、大岩の管理人の許可も下りているんだね。……楽しそうだね。それより、校外実習についての第一報が食堂のおばちゃんたちから私へもたらされたのは、どうしてなのかな?」
淡々と相槌を打っていた大きいオスカー寮長の最後の言葉にぼくたちは青ざめた。
誰かが大きいオスカー寮長に報告しているはずだ、とみんなが考えていたようで、自分たちの事前準備にかまけてすっかり寮長に報告すること失念していた。
校外実習の期間は食事がいらない、と食堂のおばちゃんには話していたので、そこから寮長に話がいってしまったらしい。
大抵のことはスライムたちが話しているとばかり思っていたが、今回はスライムたちも事前準備に夢中になり過ぎていて、寮長の存在をすっかり忘れていたらしい。
「悪かった。本来なら年長者の私が気付かなくてはならなかった」
オーレンハイム卿が寮長に頭を下げると、卿は寮生じゃありませんよ、と冷静に寮長に突っ込まれた。
「校外実習の届け出は参加する寮生全員がしなければいけませんでした。申し訳ありません」
お婆が頭を下げるのに合わせて、申し訳ありません、と全員で頭を下げた。
「まあ、いい。通常は魔法学校側で校外実習の詳細が決定し、参加者の募集があってから寮に許可の申請をするものだから、今回はだいぶ順番がチグハグになっていたということで処理しよう」
ありがとうございます!とお咎めなしにしてくれた寮長にぼくたちは礼を言った。
「実験内容がまだ正式決定していないのですが、大聖堂島側でスライムの乗ったタイルを待ち受ける役を私とジュンナさんでしようかと考えているのです」
平民女性、という立場のお婆を心配したオーレンハイム卿が、聖地巡礼を兼ねてオーレンハイム卿夫人を連れて大聖堂島に行くことにしてはどうか?とノア先生に提案していた。
伝統を守り続ける小さいオスカー殿下の祖父の領地は、貴族階級と平民とがキッチリと分けられている文化があり、平民たちも親や親族の職業を継ぐことで伝統を守っているので、魔法学校生とはいえ傍系王族が守る場所に平民が立ち入るのは快く思われない可能性があるらしい。
「美しいジュンナさんは平民立ち入り禁止、といわれて隔離される危険がないわけではないが、平民といいだしたら、カイルやジェイ君は準男爵相当の爵位を賜っているけれど、ジョシュアやケインはまだだろう?」
寮長の疑問にキャロお嬢様が不敵な笑みを浮かべた。
「オホホホホ!今回、奥の手を使うのです」
奥の手、というキャロお嬢様の言葉に心当たりのあった寮長は破顔して爆笑をした。
「あれを使うのか!いやはや、寮生ならば合理的な行動が好きなキャロライン嬢の詭弁だと理解するだろうが、世間一般では美少年を囲う恋多き令嬢に見られかねないぞ!」
「帝国での評判なんて気にしませんわ。将来、今の私の決断を誤解するような男性と結婚するつもりもありませんから、大丈夫ですわ」
キャロお嬢様の発言を止めるべき立場にいるミーアまで頷いた。
「じゃあ、ジョシュアやケインの市民カードの裏書にラインハルト殿下の一筆をもらうからといって、将来、ジョシュアかケインと結婚する意志が今あるわけではないんだね」
大きいオスカー寮長は二人のどちらかがキャロお嬢様の本命かどうかを探った。
キャロお嬢様とミーアは顔を見合わせて首を傾げた。
「いえ、大きいオスカー寮長は何か誤解なさっていますね。ハルトおじ様に『養子候補』と裏書をしていただくのはジョシュアやケインだけではありませんよ」
キャロお嬢様の婚約者候補として平民でありながら貴族階級の待遇を受けようとしていたのは兄貴とケインだけだ、と考えていたぼくたちはキョトンとなった。
「ジョシュアやケインだけを私の婚約者候補としてしまうと、先方が変な風に気を回してしまうかもしれませんし、私が他の男子生徒に話しかけると、それだけで私がふしだらな令嬢にされかねません。ですから、参加する男子寮生全員に裏書をしてもらえば、全員同じ待遇になるではありませんか!」
ぼくたちがあんぐりと口を開けると、寮長は手を叩いて大爆笑をした。
「ずいぶんたくさんの美少年を囲う令嬢ということになるぞ!」
「最も優秀な男性を探そうとする魔獣系令嬢を目指すのです!」
逆ハーレム状態を魔獣系と表現したキャロお嬢様の宣言に、寮長だけでなくオーレンハイム卿もジェイ叔父さんも、魔獣系令嬢!?と噴き出した。




