祈りが届いた先
試験を見守っていた第三皇子夫妻は涙目でアドニスを抱きしめると明るくなった空を見上げて、シシリアとして見送った魂が天界の門を潜って魂の錬成を受けられますように、と呟いていた。
その言葉を耳にした緑の一族の女性たちも目に涙を浮かべていた。
「フエの母以外にもうちの一族も戦渦に巻き込まれて亡くなった親族がいる。市民カードが回収できればいい方で、難民になって帝国軍に処分されてしまった人々は市民カードさえ行方不明じゃ」
悔しそうにマナさんが嘆くと、偽造市民カードの出所は難民からもあったのか、と教皇と第三皇子は眉を寄せた。
「戦争の犠牲者たちは戦禍に巻き込まれた人々だけでなく、戦争の影響で暮らせなくなった全ての人たちだから、それらすべての人々の魂も今頃、天界の門に導かれているといいですね」
先に試験を終えていたキャロお嬢様が、荘厳な儀式でしたと言いながら、深く息を吐いて目尻に溜まった涙をぬぐい昂った気持ちを整えていた。
「戦後処理はこれからが本番だ。傷痍軍人の年金を拠出するには国土が荒れていては資金が潰えてしまう。南方征服地は扱いを間違えればゲリラ組織が発達しかねない。私はしばらく軍の仕事にかかりきりになるから、帝都の別邸の件を頼むよ」
第三皇子が夫人に頭を下げると、夫人は嬉しそうに微笑んだ。
「宮廷内の派閥が滅茶苦茶になっている時期に毎日、宮廷を抜け出す口実があるのはありがたいですわ」
アドニスは安心したように両親を見つめた。
「私たちは大聖堂島を後にしたら、観光一辺倒で帝都に向かいます」
キャロお嬢様が宣言するとミーアが手帳を開いていきたい場所を読み上げた。
「白亜の都市の大浴場を皮切りに魔猿の村や滑空場を回ってから帝都入りします」
ああ、楽しんでおいで、と第三皇子や教皇が、やっと子供らしいことができるな、と言うとマナさんや緑の一族の女性たちも頷いた。
「お母様、お父様、しばしのお別れです」
「「ええ、私たちは私たちのやるべきことをして待っています!」」
アドニスが第三皇子夫妻と抱き合って別れの挨拶をしていると、教皇は村長夫妻に面会と試験の場の提供に感謝の言葉を述べていた。
「私たちは独自の基準で行動していますが、こうして時代が大きく動くときに教会の長である教皇猊下と会談ができる機会があったことに意義を感じています」
村長の言葉に教皇も頷いた。
「では、皆さん戻ります……」
マナさんの言葉が終わる前にぼくたちは亜空間を経由して大聖堂島のみぃちゃんのスライムのテントの中に戻っていた。
「教会都市は部分日食だったので、少し薄暗くなる程度だったのですが、晴れているのに霧雨が降りました」
緑の一族の村に同行せず、教会都市で魚の養殖事業の打ち合わせをしていた商会の人たちが、初級魔導士試験が鎮魂の儀式になった時の大聖堂島の上空に、霧雨の粒に火竜と水竜の激闘が朧気に映し出され、両者相打ちとなって消滅すると、地上で犠牲になった人々の魂が天界の門に向かって空高く昇っていくかのように精霊たちが、明るくなった大空に上がっていった、と証言した。
正午の礼拝前の移動時間だったこともあって、多くの神学生たちも目撃し、同じような見方をしていた。
翌日移動した、白亜の都市のスーパー銭湯では、屋上露天風呂から大聖堂島上空の火竜対水竜の対決が見えたようで、目撃した市民たちが代わる代わる湯船に浸かるぼくたちに興奮気味に説明してくれた。
スーパー銭湯の食堂の片隅で内緒話の結界を張ったぼくたちは、どうしてこうなったかを話し合った。
「一周目の試験の時は大きな魔法を行使しなくてもいい、という教皇猊下のお言葉通り、火球を転がして七大神のお力を表現しただけだったんだ。二周目で何かした?」
最初に火の玉を出現させたウィルがマルコに尋ねると、マルコは首を横に振った。
「いえ、火竜を出現させようとしたのではなく、火の神様のお力をできるだけ簡素に表現しようとしたので、ただの火球です」
現場でぼくたちが見た物は間違いなく丸い火球だった。
「一周目の試験で最後にカイル兄さんが水蒸気になった水球を霧雨にして地面に降らせた、その水滴をスクリーンにして二周目の火球を大聖堂島の上空に映し出していたような気がするんだ」
ケインの指摘にぼくたちも頷いた。
「二周目の試験の時に次に教皇猊下の追悼の祝詞が来ることがわかっていたから、大聖堂島の礼拝所の魔法陣を鮮明に思い浮かべて、鎮魂の祈りが世界中に届くように強く念じたよね」
ぼくの言葉にケインと兄貴とウィルとテーブルの上のスライムたちが頷いた。
「もしかして、世界中の上空で火竜と水竜の対決が繰り広げられていた……。なんてね」
軽い口調で言ったクリスの言葉に、あり得る、と全員が力強く頷いたので、マジか、とクリスは呟いた。
「辺境伯領の様子をお爺様に聞いてみましょう」
「帰国したイザーク先輩に王都の様子を聞いてみましょう」
「南部の激戦の跡地ではどう見えたのか、マナさんに訊いてみたいですね」
キャロルとケインとマテルが各地でどう見えたのか、現地の声を集めたいと口々に言った。
「人間はね、水に浮かぶ油の模様から魔獣の形を連想できる生き物だから、霧雨の中にそれぞれの人間が見たい物が見えただけかもしれないですね」
柔和な笑顔で従者ワイルドがそう言うと、確かにそうだ、とみんなは納得して話題はスーパー銭湯の五色の湯の話に移った。
目撃者の証言の最後に、精霊たちが地面から湧き出るように出現し空高く上がっていった、とあるのだから精霊たちが関与しているような気がするのにな。
ぼくがジト目で従者ワイルドを見ると、フフッと従者ワイルドは軽く笑った。
霧雨のスクリーンの中に精霊たちが何を映し出したって、それが何かはそれを見た人間が判断しているのだから、従者ワイルドの言葉に間違いはない。
だって、本当のことを言うとは限らなくても、精霊は嘘をつかない。
塩湖の入浴剤が早くも商品化されており、スーパー銭湯で楽しめたことに話題が移っていた。
「貴族の生活では貴婦人は大浴場に行けないのですよね。こんなにお肌がつるつるになるのに!」
お母様は大浴場に入れないのね、とアドニスが嘆くと、ククク、とキャロルが含み笑いをした。
「辺境伯領城には大浴場も露天風呂もありますわ!時間帯をずらすことで城の使用人たちも全員使用できるのです!」
羨ましいでしょう!とキャロルが自慢すると、辺境伯領にお嫁に行きたい!とアドニスが軽口を叩いた。
「兄上の前で言わないでください。軽口だと理解する前に脳が沸騰するかもしれませんよ」
洒落にならない、と小さいオスカー殿下がアドニスに言うと、そうだそうだ、と大爆笑が起こった。
人間は油のシミ形からでさえ見たいものを見る、とワイルド上級精霊は言っていたが、それは魔獣たちも同じだった。
植物学の先生に頼まれていた植物を採取するために魔猿の村に立ち寄ると、村人たちに大歓迎された。
日食の日は魔猿の村ではほとんどの村人たちは日食があったことさえ気づいていなかったが、パートナーの魔猿たちが村人の服を摘まんで空を見上げるように指をさすので見上げると、霧雨の中に魔獣たちの幻影が見えた、と村人たちは証言した。
村人たちの見た魔獣たちとは、渡り鳥であったり、鹿であったり、とどちらかと言えば仕留めて食べたい魔獣が多かったようで、近隣の森の植生が整ってきたので猟ができる日も近い、と楽しみにしていた。
パートナーの魔猿たちも頷いている。
スライムたちが魔猿たちに確認すると、猪だったり、山盛りになったどんぐりの影だったりと、里山が豊かになって食べ物が増えることを霧雨の中に見たらしい。
「あの霧雨はまさに、慈雨でした。枯れた山に魔力が補充されたこともあったのでしょうが、もう死んでいると思っていた木の切り株に霧雨が降り注ぐと、新芽がにょきっと出てきたのですよ!」
山で柴刈りをしていた村人の一人がそう言うと、あの雨から山の緑が濃くなった、と村人たちは口々に証言した。
緑の一族の村で祈ったからだろうか?とぼくたちは思ったが、誰も口にすることはなく、不思議ですね、と誤魔化した。
魔猿の村を初めて訪れた面々も伝説のボス猿に認められ、ご神木の実を食べて猿の楽園に足を運ぶことを許された。
谷間に隠れる秘湯に、蒸気を利用した温室のバナナ園、小猿のためのアスレチックコースまで出来上がっており、ぼくたちは猿の楽園で存分に羽を伸ばした。
水着着用の混浴でぷかぷか浮かぶスライムたちと小猿たちが戯れているのを楽しんで見ていたら、ぼくとウィルの間にいつの間にかボス猿が湯に浸かっていた。
“……久しぶりじゃのう。また来てくれて嬉しいよ”
満面の笑みでぼくたちを歓迎してくれたボス猿に新メンバーを紹介した。
“……ああ。東西南北の砦を護る一族の末裔たちだね。太陽が月に隠された日に私がこの地を護り続けなくてはいけなかった意味が分かったよ”
ボス猿がぼくたちに語り掛けた精霊言語の内容にぼくたちは驚いて顎を引いてボス猿を凝視した。
“……なに、私の役割を再確認しただけで、やることは何も変わらない。だから、砦を守る一族の末裔たちも何も変わらずそのままでいいでしょう”
ボス猿は上空の霧雨のスクリーンの中に大聖堂の礼拝所の魔法陣を見たようで、自分が護ってきたご神木が多くの魔法陣を繋ぐ場所に立っていたことを知ったようだ。
“……小さいオスカーは母親の領地を探しなさい。魔力を秘めながら公にならずに隠されている植物?魔獣?鉱物?わからないが、なにか秘密があるはずだ”
「わかりました。帝都に戻ったら、もう一度母の領地を尋ねてみます」
“……キリシア公国はそのままでよい。大陸の地脈が交差する場所をこのまま護り続けるがよい”
はい、とマルコは頷いた。
“……他の地もいろいろありそうだけど、猿の私にはわからないよ”
デイジーやアーロンやマテルを見遣って、ハハハ、とボス猿が笑うと、ただの猿じゃない、とぼくたちは首を横に振った。
“……これからもいろいろあるだろうけれど、うちの山では寛いでいっておくれ”
はい、とぼくたちは返事をすると、話題はスライムが中継した競技会の話になった。
ボス猿も試合を楽しんでくれたようで、デイジーの刺股を生で見たいと言い出した。
湯から上がると魔猿たちと競技会ごっこをして遊んだ。
魔猿たちと戯れながら、ぼくたちはまだ子どもだったんだよな、としみじみと実感した。