愛とは何だろう?
「とにかく今のアドニスは間違った思考の神学者に育てられたのに、初めての早朝礼拝でカイルのように壮大な教会の魔法陣の魔力の流れから世界の真理の一端を掴んだ状態じゃ。……まあ、カイルは通常の祠巡りから世界の真理を察したとんでもない幼児じゃったぞ」
うちの子は天才!とはしゃぎそうになった第三皇子にマナさんはぼくを例に出して牽制した。
「魔力奉納した魔力がどこに流れて行き、どんな作用を働いて、その先がどうなっているのかを丁寧にたどれば見えてくることじゃ。カイルがその真理に辿り着いたのは、魔力の流れの先を知りたい、と思う知的好奇心からじゃったが、アドニスは生きのこるために必死に身につけた知恵があってのことじゃろう。精神を蝕む邪神の欠片を齢三歳で移植されたアドニスは、自身の魔力を邪神の欠片に奪い取られ過ぎないようにするために、邪神の欠片を右半身に圧縮して内側に閉じ込めておくことに成功したのじゃ。アドニスは自分の魔力がどこに行くかについてとても敏感になっているから、真理に到達したのじゃよ」
なんてこった!
ディミトリーの皇帝襲撃に失敗したゾーイは王家の秘宝に邪神の欠片を移植するのではなく、幼いアドニスの体に邪神の欠片を移植していたのか!
ぼくたちがゾーイの悪行に怒りに身を震わせていると、教皇は腹の底から息を出し尽くすほどの溜息をついた。
「先ほどのゾーイの聴取で、アドニスの所持していた邪神の欠片を消滅させたのに魔術具の回収ができなかったので、そこを先に問いただしたら、ゾーイが嬉々として移植の話を語り出したので、思わず威圧で失神させてしまった。どうにも、ディミトリーの失敗は邪神の欠片の魔術具を皇帝に奪われたせいだと勘違いして、ならば直接体内に埋め込んでしまえばいい、という発想になったようだ」
ゾーイの聴取が済んでから第三皇子に連絡を入れようとしたのは、常軌を逸したゾーイの行いをじゅうぶん取り調べてから知らせるべきだ、と教皇は判断したからのようだ。
「ゾーイの携帯していた邪神の欠片の魔術具は、帝都で魔術具暴発事件を起こしたようなものではなく、かつての不遇の天才魔導士が制作した特殊なもので、転移魔法や飛行魔法など特殊な移動方法を可能にする魔術具だった。あと二つほどその、天才魔術師が製作した魔術具があるようだが、ゾーイはそれを所持している逃走犯の行方は知らないと言っている」
その場で転移魔法が使用できる逃亡犯がまだ二人もいるのか、とぼくたちは眉間の皺を深くした。
「ああ、そうなんだ。邪神の欠片をアドニスに移植したという内容も理解しがたいが、百年以上前に没したその天才魔導士が、上級魔導士が簡単に扱える邪神の欠片の魔術具を制作していたことに衝撃を受けて、あと二つ残っている魔術具の行方と、その技術を継承した者がいるのではないか、という新たな疑惑に直面してしまったんだ」
教皇が現状の困難さを語ると、ぼくたちよりも動揺したのがクレメント氏だった。
「教皇猊下。私は病弱ゆえに領地で静養していたので、これと言って経歴はございませんが、とある分野の研究においては一家言があると自負しております。カイル君は魔術具を破壊せずに邪神の欠片を消滅したのですよね。ゾーイの所持していた魔術具を私に検分させてください」
クレメント氏の申し出に、ゾーイが所持していた邪神の欠片の魔術具の制作者は前前世の皇帝で、聖職者になり消息が分からなくなってから作成された魔術具ではないか、とぼくとケインと兄貴とウィルが気付き青くなった。
「どんな手掛かりでもいいから知りたいので、こちらからも助力をお願いする。魔術具としては季節と場所から時間を計算する魔術具で、邪神の欠片が消滅しても時計として使用できる状態だ」
ディミトリーの王家の指輪を破壊せず邪神の欠片だけを消滅させたように、ゾーイの収納ポーチにおさまっていた邪神の欠片の魔術具を破壊することなく、邪神の欠片だけ消滅させることができたようだった。
「そうですか。それは実に興味深いです。私はとある人物に着目して研究をしていますが、彼が教会の大聖堂島に入ってからの記録を追えないでいるのです。彼の影響を受けているかと思われる人物の研究もしています。是非ともその魔術具を拝見させてください」
恭しく一礼したクレメント氏に、よろしく頼む、と快諾した教皇の背後にいた月白さんと従者ワイルドが頷いているということは、前前世の皇帝が製作した魔術具という疑いが濃いのだろう。
ぼくのスライムのタブレットに映るマナさんは第三皇子にアドニスが気付いた魔力の流れについて説明をしていた。
「緑の一族が土地の為政者にも教会にも属することなく行動している基本的な考え方は『世界の理』に準じているに過ぎないのじゃ。わしらはこの世界に神々の御力である魔力がきちんと循環する状況を『世界の理』と呼んでいる。大いなる神々の御力が巡り巡っていきつく場所を『世界の理』と呼ぶ場合もある。魔力の流れを辿れればわかることなのじゃが、えてして人間は自分に都合よく判断する生き物なので『世界の理』を体感していないのに、これが世界の理か、と勝手に解釈するので、わしは『世界の理』がどのようなものかなど、口にはしない」
マナさんの説明に首を傾げていた第三皇子は、世界の真理に辿りついていないのに、これが真理だ、と言い出す例は理解できたようで苦笑した。
画面を見ていた教皇は、うんうん、と何度も頷いた。
「じゃが、教会の秘密組織の連中は『世界の理に則ってこの世界を正す』と主張しており、とんちんかんな主張なのに、『世界の理』から土地の護りの結界が離れている状態は、ある意味、正しいように聞こえてしまうところが厄介なのじゃ」
秘密組織の主張は『世界の理』に則って正しく魔力を循環させることではなく、教会、いや、聖職者が世界の頂点に立って各地の為政者を任命することだ、と気付いた第三皇子は、苦笑を通り越して失笑した。
「そうなんじゃ。為政者の護りの結界と教会の護りの結界は意味が全く違う物じゃから、教会が、というか、聖職者が権力者の頂点に立つ必要なんてないんじゃ」
「教会の護りの結界は世界中に魔力を行き渡らせることであって、為政者の護りの結界はそこで暮らす人々が安心して暮らせるようにするために国土や領土を護る結界なのですよね」
第三皇子があらためて確認するように言うとマナさんは頷いた。
「じゃがな、ここにも曖昧なところがあって、世界の端っこを護っている国は教会の護りの結界の端っこを補完しているんじゃ。その結界の呼び名は知っているけれど、あえて言わない。その名を聞いて勘違いする奴らが多いからじゃ。まあ、何にせよ世界の端っこの国家が破綻すると教会はとんでもない負担がかかるのじゃ」
マナさんが言わんとしている意図を察した第三皇子は深く頷いた。
「南方戦線を中止しなければ、世界は破綻してしまうのですね」
「ああ、今の教会は秘密組織を駆逐したことで人材不足が深刻なんじゃ。このまま世界の端っこが不安定になれば、頑張っている教皇猊下には申し訳ないが、ちょっと今の教会は頼りない」
マナさんの発言に教皇はがっくりと項垂れた。
「まあ、それは、最も悲観的な考え方で、実際は祠巡りの世界的な流行でちょっとばかり司祭の人数が足りていなくても教会の護りの魔法陣は維持できるじゃろう。なにより、これから成人を迎える子どもたちの魔力量は間違いなく今の大人たちより多い。期待できる未来もあるんじゃ」
頼んだよ、と言いたげな視線を教皇はぼくたちに向けた。
「お前さんも気付いているじゃろうが、ガンガイル王国の留学生一行の元に集まっている東西南北の子どもたちは世界でも有数な魔術師になるじゃろう。アドニスはあの子たちの中にいれば特段に魔力量が多いようには見えなくなる。老婆心ながら忠告するが、王宮に引き取ることはくれぐれも用心した方がいい」
マナさんの忠告に第三皇子は朝日を仰ぐように見上げると、首を小さく横に振った。
「……邪神の欠片を移植された娘が無事に生還しただけでも奇跡なんだとわかっているのに、嫁に出す日まで共に暮らしたいと願ってしまうのです。あの子が痛みから解放された笑顔を守るべきだとわかっているのに、あの子の人生に私は父としてかかわり続けたいと考えてしまうのですよ」
力なく本音を口にした第三皇子に、そういうものじゃ、とマナさんは呟いた。
「話は変わるが、わしの娘たちの中に深酒をすると家族に暴力をふるう男に恋をした娘がいてな、わしは男が信用ならんかったから結婚も反対していたんじゃが、娘と男は駆け落ちしてしまった。案の定、階段から落ちただの、足が滑って井戸に落ちただの、娘と生まれてきた孫は怪我が絶えなかった。回復薬を差し入れすると、また怪我をすることの繰り返しじゃった」
「おお、それは男が殴っていますね」
第三皇子が即答するとマナさんは頷いた。
「見かねたわしが、娘と子どもが寝ている間に保護すると、目覚めた娘は泣きながら、酒さえ飲まなければいい人なのに、と嘆くんじゃ」
「本当にいい人だったら、酒に飲まれて妻子を殴ったことに気付けば、酒を断ちますね」
「ああ、客観的に見ればそうに決まっているのに、殴るのは家族だけだから、と娘は愛されている証拠のように語るのじゃ」
画面をのぞき込んでいたみぃちゃんとみゃぁちゃんが、駄目な娘だ、と言うかのように首を横に振った。
「愛ゆえの盲目でしょうか?」
第三皇子の突っ込みにマナさんも頷いた。
「愛とは厄介なものなんじゃ。わしは、あのまま娘が男の元にいたらいつか殺されてしまう、と思って遠くの町に保護したのに、娘はすっかりふさぎ込んで笑わなくなってしまった。男は緑の一族の分隊の村に押し掛けて、自分がいかに娘を愛していたかを切々と訴えると、一族の中に男にほだされてしまった人がいて、娘の隠れ家を明かしてしまったんじゃ」
ああ、これは悪い結果しかないわ、とみゃぁちゃんが精霊言語で突っ込むと、ああ、それは駄目だ、と教皇まで最悪の結末を予想した。
「愛する二人の再会は、男が素面だったからそれは感動的じゃったよ。だが、わしはどうしても男が信用ならなかったから、子どもだけでも置いて行けと、条件を付けたんじゃ。二人の愛の結晶だよ、諦めてくれると思ったのに、二人は子どもを置いて出ていったんじゃ。娘は男の家に帰った翌日にテーブルの角に頭をぶつけて死んだよ」
案の定の結末に第三皇子は残念そうに項垂れた。
「愛とは何じゃろうな。愛する者を守るために、わしはどうすればよかったんじゃろう?あの娘は死ぬ前に愛する人の元に戻れて幸せじゃったんだろうか?あのままわしが介入しなかった方が孫は母を失わずに済んだのじゃろうか?と悩んだよ」
「マナさんが娘さんとお孫さんを保護しなかったら、お孫さんも亡くなっていたかもしれませんね……」
第三皇子はマナさんの選択を認めながら、アドニスへの対応を慎重にしろ、という自分への忠告だと気付き、何度も頷いた。
「愛ばかり叫ぶのではなく、愛するがゆえに本当の幸せとは何かを見失わないようにしなけらばならないのですね……妻とよく話し合います。ご忠告、ありがとうございます」
第三皇子は意を決したように頷くとマナさんに礼を言い立ち上がった。
朝食会場の方をじっと見たまま、あの子を助けてくれたカイルたちに礼を伝えてください、とマナさんに伝言を託すと、大聖堂の転移の間へと戻っていった。




