思い出の味
「発酵は飼料用の干し草にも使用するから魔法陣に加えて祝詞も仕込んだ刈草用のとん袋を作ったら餌の食いつきが変わって家畜も美味しくなるかな?」
「いいね!帝都に帰ったら試験農場で試してみよう」
「いっそのこと生ハム用の発酵の魔術具を作ったら、誰にでもデイジー姫の美味しい生ハムが作れるかもしれないね。一度にたくさん仕込まなければ消費魔力量も少なくて済むかもしれないよ」
ぼくたちは自分たちしか使用できない祝詞だと安定して美味しいものを生産できないので獲得した能力をどう生かすかについて話し始めた。
「祝詞を魔術具に使用するなんて!……邪道だと言いたいところだけれど、試してみたい」
教皇は生ハムの塊を見ながらそういった。
この味を誰でも作れるようにならなければデイジーが帰ってしまうともう二度と口にできない味になってしまう。
フフフと枢機卿たちは笑った。
「教皇猊下が神学の基礎知識がない状態で聖典を読んだ方がいい、とおっしゃったときは、教会関係者と別視点での聖典を研究することに意義があると考えていました。それがまさか、今までの人生で最高に美味しい発酵食品を口にすることになり、祝詞を一般人が魔術具として使用する話に繋がるなんて想像もできませんでした」
祝詞は教会関係者が独占している状態だから誰も試したことがなかっただけだろう。
チベット仏教のマニ車みたいに回転させるだけでお経を唱えるのと同等な功徳がある仏具の知識があるせいか、祝詞で魔法が発動するなら利用しないなんてもったいないと考えてしまう。
「聖典の闇の神の章を我々も今一度読み返してから、カイル君の光影の剣を見せてもらってもいいだろうか?」
枢機卿たちは目から鱗が剥がれ落ちたかのように自分の常識を疑い、一語一句そらんじられるはずの聖典を読み返すと張り切った。
聖典の七大神の内容は変化していないのに意味があるのだろうか?と思いつつも、はあ、と返答を濁した。
「光影の剣がなぜ今出現したかを考えると、帝都で暴発した魔術具の一個を光影の剣で破壊してみるのもいいかもしれませんね」
ぼくの発言に、自分から言い出さないの!とギョッとした顔でケインがぼくを睨みつけた。
「あれの管理には手を焼いているから正直破壊できるのなら助かる。でも、厳重に封印しているから、そう急がず、明日以降でかまわないだろう。いずれにせよ、光影の剣の検証はしなければならないことだから、私が立ち会った方がいいだろう」
ケインの顔色を見ながら言葉を選んだ教皇の発言に、大聖堂島で教皇立ち合いの元、光影の剣の検証をすることにケインは頷いた。
光影の剣に一体どんな効果があるのか、言葉と文字が失われていた時代に出現した物だけに魔本にも記録がない。
「神学が特別に隔離されたように管理されていたのは祝詞の魔法効力が異様に高いからなのですね」
ぼくがしみじみと言うと祝詞の効果を実感した留学生代表者たちも頷き、教皇と枢機卿たちは首を横に振った。
「聖典を読んだその場で祝詞の発動に成功する例なんて聞いたことがないし、まして上級上位の呪文に匹敵する祝詞を編み出すなんて前代未聞です」
「お手本があったとしても、それを集団で成し遂げるなんてあり得ないことが目の前で起こっても信じ難いです。くれぐれも取り扱いに気を付けてください」
ぼくたちは顔を見合わせてこれからは、発言に気を付けます、と元気よく返答した。
ぼくたちは教皇の謁見の間を退室するのに窓から飛び降りず、修練の間を通り抜けて礼拝所に戻ると、さっそく発酵させた食品を祭壇に奉納した。
礼拝所に居残って聖典を読み込んでいたボリスたちは、ウィルやキャロルも発酵の神の祝詞が成功したことを喜んでくれた。
大きな生ハムを半分ほど噴水広場に持ち帰ると、その味にベンさんが大喜びした。
「ああ、今晩はパスタの予定だったから、たっぷりこいつを使うよ」
夕食の支度を手伝いながら竈の火起こしに祝詞を使いたかったぼくたちは、じゃんけんで決めることにした。
勝ったウィルが嬉々としてタブレット型に変身したスライムが聖典を映し出す祝詞を読み上げると、負けた面々も諦めきれずに大聖堂島中の竈や入浴施設の焚きつけを買って出るために分散した。
「発言には気を付ける、と教皇猊下と約束したんですよね」
大聖堂島の皆さんのためにお役に立つうえ、初級魔導士見習いの修行です!と言い訳して留学生たちが出かけてしまったことを、ジュードさんがぶつくさとぼやいた。
「ジュードさん!夕方礼拝の前に清掃魔法を掛けさせてください!」
焚きつけが成功した後も祝詞を使用したいぼくたちがジュードさんに迫ると、ジュードさんが断らなかったのをいいことに、水魔法でごしごしと洗い、風魔法で乾燥させる荒業に付き合ってくれた。
「あっ!それは狡い!スライムが聖典をそのまんま表示した内容を唱えて祝詞を発動させるなんて、口頭試験に聖典を持ち込んでいるようなものじゃないか!」
ジュードさんは愚痴をこぼしつつも頼まれたら断れない性分らしく、何度も清掃魔法をかけられていた。
ぼくはと言えばイメージで魔法の出力をコントロールするため風魔法で玉葱の皮をむく方法を開発して喜んでいた。
「お前たち!ジュードさんはもう十分に綺麗だからそこの芋を洗ってくれ!」
見かねたベンさんが助け舟を出すと、人間に試す前に先に芋を洗ってからにしてくれよ!とジュードさんはもっともなことを言った。
みんなが夢中になるのがわかるほど祝詞を使用する魔法は面白い。
魔法陣を使用する魔法は魔法陣を設計する段階で結果を固定しており、魔力を流す際のイメージはあくまでその補佐にすぎないのだが、祝詞を使用する魔法は一味違った。
魔法の発動をイメージすることは一緒なのだが、魔法陣を使用するより神々に直接呼びかける高揚感があり、長い祝詞を唱えるまでの間により具体的なイメージに整える時間があり、途中でイメージを変更することも容易にできた。
発声魔法を習得している魔獣たちも小声で祝詞を唱えて竈の火加減の微調整をしたり、噴水広場の噴水の水を制御したりして地味に練習していた。
今日ぼくたちと合流したばかりのマテルはぼくたちのノリに戸惑っていたが、バターが足りないから発酵させてくれ、とベンさんに声を掛けられると、ぼくのスライムが遠心分離を掛けるミルクに発酵の神の祝詞を唱えていた。
「さすが聖地!特上の発酵バターに仕上がっている!いや、マテル君も頑張ったよ。明日の朝はクロワッサンを焼きたいから、もう少し作ってくれ!」
クロワッサンが何かもわからないマテルはベンさんに頼まれるがまま発酵バターを作り続けた。
「神学を学ぶ宣誓をしたその日に祝詞を使いこなす凄いことをしているのに、修練が生活に密着しすぎていて、それが日常の一幕でしかないのが空恐ろしいです」
そう言うジュードさんにも糖化させた麦汁が入った瓶を手渡したベンさんがにっこり笑った。
「大聖堂島は独立自治だからどの国の酒税法にも引っ掛からないだろう?」
酒の神と発酵の神の魔法陣が描かれたテーブルクロスに瓶を置き、ぼくたちは発酵の神の祝詞しか知らないが聖典を丸暗記しているジュードさんならできる、と踏んだベンさんが最高のビールが出来上がることを期待した眼差しでジュードさんを見た。
「急がないと夕方礼拝に間に合いませんよ」
清掃魔法で綺麗になったジュードさんは沐浴を省略できるはずなのでジュードさんをベンさんに任せてぼくたちは大浴場に向かった。
夕方礼拝には早朝礼拝よりも多くの精霊たちが出現して、礼拝所はこれから朝を迎えるかのように光り輝いた。
ベンさんが一般礼拝所の祭壇に出来立てのビールを奉納したせいか一般礼拝所にもたくさん精霊たちが出現したらしい。
日が落ちた噴水広場は今日も精霊たちが食卓を照らし、光に誘われて立ち寄った一般礼拝者たちにベンさんは生ハムとパンを一切れ味見してもらい宿泊施設に帰るように促した。
精霊たちが人々の流れを誘導するように宿泊所まで送り届けるので、目立った混乱もなくぼくたちは夕食の席に着くことができた。
生ハムとチーズとバジルのパスタは最高でミネストローネスープの夕食にぼくたちは大満足だった。
後から合流した教皇や教会関係者が席に着くとビールと干し肉が追加された。
オレンジのヨーグルト掛けのデザートを食べ終わると、ぼくたちのお腹はパンパンだったが、ベンさんと従者ワイルドは発酵させたキリシア公国の保存食を薄くスライスしただけのものを載せた皿をテーブルに並べた。
「発酵の神の祝詞で発酵した食品はどれもこれもとてつもなく美味しくなったのだけど、これだけが何か微妙なんです。食べる人によって味の表現が大きく異なるので、皆さんの感想を聞かせてくれませんか?」
白カビのようなものが付着した保存食は教皇の謁見の間での試食でも、これといって感動の声は上がらなかった。
発酵前はほとんど味のない食べ物だったのが、口の中でとろりととろけてほんのりと甘みのあるものになっただけだったので感想を言うほどでもなかったのだ。
「ちょっとボヤけた味だけで、あっさり塩ラーメンのような味がして、ぼくはけっこう好きですよ」
水を飲んで口の中を整えたケインが一口齧ってそう言うと、キャロルが、えっ!と声を上げた。
「ぼくはみたらし団子の味がします!塩味もあるけど甘くて美味しいです」
キャロルの例えに、綿あめのように口の中で消えます、とミロは、甘いという以外共通項がない例えを言いながら頷いた。
「いえ、もっとこう、ヨーグルトのように酸っぱくないですか?」
感想がばらばらすぎて同じ食べ物について話しているとは思えない。
ぼくも一口口に入れると、やっぱりドロッとした糊のような食感の奥にほんのりと甘みがある……遠い記憶でどこかで食べたような……いや、思い出せない。
「ボヤっとした味の奥に、結構きつめの塩味がして……。わかった!これ、干し肉だ!発酵させた美味しい方じゃなくて、迷子になった時に洞窟で一欠けらだけ齧った干し肉の味だ!」
ボリスは口の中で保存食がとけなかったのか、もぐもぐと噛みしめながらしきりに、懐かしい!と言った。
人によって味と食感が全く違うことを確信すると、ボヤんとした味の正体に思い当たりがあった。
「ああ、わかった!これは風邪をひいた時に実母に食べさせてもらった葛湯みたいなやつの味です!」
「おお、俺もそんな味がするんだ!」
ぼくの例えにベンさんが頷いた。
「もしかして、心の奥にある忘れられない思い出の味がするから、一人一人感想が違うのでしょうか?」
ウィルの言葉に全員思い当たる所があったようで黙り込んだ。
「……あの時、俺は最年長でカイルとケインを先導していたはずなのに迷ってしまって……年下のカイルに頼ってばかりで、薄暗くなっても怖がらないように前を向くケインが立派に思えて、情けなくて仕方なかったんだ。……でも、洞窟に避難して、ポケットの中に三枚の干し肉があった時に嬉しかったんだ。……やっと自分もみんなの役に立ったと思ってね。でも、あの時はカイルが飴玉を持っていたから、そっちの方が格段に美味しかったのに、思い出の味が干し肉なんて、なんだか変な感じだなぁ」
ボリスのぼやきに、ぼくとケインは頷いた。
「あの時の干し肉は美味しかったよ。しょっぱくて硬かったからいつまでも口の中に残って、一口だけで我慢して明日に取っておこうと思えたもん。あの味は特別だね」
ケインがしみじみと言うと、何でケインは思い出の味が塩ラーメンなんだ、とボリスが突っ込んだ。
「カイル兄さんがね、小さい体で踏み台を使って台所で熱心に鶏ガラを洗っていたから、食べる前から絶対に美味しいはずだって思っていたら、本当に美味しかったんだよ。その後、ラーメンはどんどん美味しくなったけど、何だろう、あの素朴な味わいは忘れられないんだよね」
ぼくが新しい家族と馴染む前だったのに、その頃からぼくを信頼していたかのようなケインの一言に目頭が熱くなり涙がこぼれ落ちた。
思い出の味は今まで食べた中で一番おいしかったものではなく、食べ物にまつわる記憶と共に心がグッと熱くなるものだったようで、気がつけばみんな目に涙を浮かべていた。
食べるって、そうだった。
美味しさだけではなく、明日も生きるための糧であり、誰かと共に食べた思い出も、また食事の醍醐味なんだ。
「風邪をひいてもこんな糊みたいなものしかなかったんだよ。それだって家族全員に当たらない病人のための特別な食べ物だった……。懐かしいな。これを食べたら明日には熱が下がると信じていたんだ……」
ベンさんの言葉に、心配そうにのぞき込んで幼いぼくの額に手を当てたユナ母さんを思い出して、また涙が溢れだした。
「非常食を食べなくてはならない状況で、明日を信じて生きる底力を引き出すために、思い出の味がするのかもしれませんね」
イザークの言葉にぼくたちは頷いた。




