祝詞の発動条件
「だぁぁぁぁぁぁ……。こんな事態は初めてで、ど、どど、どうしたらいいかわかりませんよ!」
床に座り込んで天井を見上げたジュードさんは頭を抱えた。
「しっかりしてください。ぼくたちには何がどうなってこうなったのかわからないので、説明していただけると助かります」
ぼくがジュードさんに近づくとジュードさんはひれ伏すように上体を前に倒した。
「……聖典の神々の章をまるまる唱えて魔法を発動するのが初級魔法。聖典の内容を要約した一文を唱えて魔法を発動するのが中級魔法。独自に開発した単語一つで魔法を発動するのが上級魔法、と神学においては定義されています。先ほどのカイル君の祝詞は単語一つではなかったので、中級魔法かと思いましたが、発酵の神の章の要約とも言えない内容でしたから、どう考えればいいのかわかりません!」
顔を上げたジュードさんは困惑気味に眉を寄せてへたり込んだ。
味噌と醤油と料理酒としての日本酒を作りたいがために麹菌の入手を神頼みした結果、発酵の神が誕生したのだから、今後とも美味しい物を作るために努力を惜しまないと言っただけ……。
あれ?
そもそも発酵の神が誕生した理由は神々が美味しい供物を所望したから誕生したのだから、発酵によって美味しさを追求する、と宣言するだけで発酵の神の章を要約したことになる……。
つまり、祝詞になるのではないか?!
ぼくの表情から何か閃いたと察したウィルが自分の収納ポーチから非常食を取り出した。
「まって、カイル兄さん!何か検証をしようとしているのだろうけれど、聖典の続きを早く読め!と精霊たちがせかしているよ!」
演壇上の聖典に群がった精霊たちが自分たちの推す神のページを読ませようとせわしなくページをめくっていた。
ジュードさんへの説明を一旦、放棄したぼくは、右手に持っていた発酵した保存食を祭壇に祀り、お礼の魔力奉納をして演壇に戻った。
パラパラと勝手にめくれる聖典に手を差し込んで出たページを読もうとしたのに、ぼくの手をすり抜けて聖典の冒頭の闇の神のページになってしまった。
そこに何らかの力が働いたように思えたぼくたちはまた何かあるかもしれないと息をのんだ。
聖典の内容は主語が抜けた表記で、読むことができても解釈が難しく、このページから読み始めていたら心が折れそうな内容だった。
世界が言葉を失ってからもう一度文字を確立した後、神々から与えられた聖典とはいえ、最初のページはぼくたちにとってはもはや古語でしかない。
何とか読み解くと、世界の誕生の章の冒頭は闇の神の成り立ちと光の神の誕生が記載されていた。
「えー。世界は闇から始まる。全てを吸収する闇の神がその役目を終えて消失する直前に二つに分裂し、分裂する力から光が誕生し、一つの闇は光を吸収したが、もう一つの闇は光が突き抜け、抜けた光が光の神となり、光の神の裏側に闇の神が合わさったことで消滅を逃れこの世界が誕生した、ということのようだね」
ざっくりと解釈したぼくの説明に、全てを吸収する闇、という言葉がいまいちピンとこないみんなは首を傾げた。
まるでブラックホールの終焉に粒子や反粒子から発生した光を吸収しきれなくなるように、闇の神が分裂する際に発生した光が闇の神に吸収されずに残った光が光の神となった、ということだろう、と解釈した。
この説明では、そもそもブラックホールの知識がないみんなには何のことだかさっぱりわからないだろう。
「まあ、闇と光は表裏一体だけど、世界の始まりは闇の神が先に誕生していた、と解釈したらいいんじゃないかな」
演壇に両手をついて説明していたぼくの掌が熱くなり、両手を離して聖典の上で掌を合わせた。
やっちまったか、というような表情を兄貴とシロとデイジーがしたが、そんなこと気にするより熱を帯びた掌から光の剣のような形が現れたことに驚いた。
演壇を取り囲んでいた留学生一行は見えざる力が働いたかのようによろよろと四、五歩後退した。
見えざる威光に影響を受けなかったのは兄貴とケインとウィルとイザークだけで、四人に共通するのは家族と家族同然ということだった。
「で、でで、で、でででで、でん、伝説の光影の剣!」
ぼくたちが聖典を読む様子を後方から背伸びして見守っていたジュードさんは、演壇から下がった留学生一行に押されてひっくり返ったまま叫んだ。
光影の剣って何だ?
そう思いつつも掌の間から出現した剣は片側が光っているが反対側の側面は形容しがたいほどの漆黒だった。
掌をずらして柄の部分を想像して握ると、ぼくのイメージに引っ張られたのか、ジュードさんが光影の剣と呼んだ剣は、日本刀に変身した。
何だかわからないが、やらかしてしまったことを自覚したぼくが両掌を開いて柄を手放すと、光影の剣は消滅した。
それでもまだぼくの両掌は熱を帯びていたので祭壇に手をついてそのまま魔力奉納をした。
ごっそりとぼくの魔力が引き出されると掌の熱が抜けて、礼拝所内がほんのりと光った。
やれやれ。
こいつは厄介な祝詞を唱えてしまったようだ。
ごっそりと魔力を抜かれた喪失感に片膝をついたぼくは回復薬の瓶を取り出して一気飲みした。
「いやあ、まいったね。かなりの魔力を消費したよ!」
振り返ったぼくが見たのは、ジュードさんや留学生一行だけでなくぼくの魔獣たちや水竜のお爺ちゃんまで顎を引いたドン引きした表情でぼくを見ている姿だった。
「何とかなったみたいだから、続きを読もうよ」
再びぼくが聖典に向き合うとケインとウィルに両肩を掴まれた。
「この続きを読んでまたあんなことが起これば、魔力枯渇を起こすよ!」
真っ青な顔色でケインが言うとウィルも頷いた。
「明確な根拠はないんだけれど、この状況で魔力枯渇をすることはないような気がするんだ。だって、祠巡りで七大神の祠巡りをしても魔力枯渇を起こさないでしょう?聖典を読んだだけで魔力枯渇を起こすわけないじゃないか!」
ぼくの主張に兄貴とシロとデイジーが頷いた。
「祝詞を使用する宣誓をした状態で迂闊に聖典の内容を声に出すと魔法が発動してしまうことがわかったから、もう、音読もしないし、要約もしないよ。せめて、七大神の部分を黙読しないと精霊たちが落ち着かないよ!」
精霊たちは光影の剣の騒動にも気にすることなく聖典のページをめくり続けていた。
ああ、そうだね、ことが収まらないかもしれない、と留学生一行は精霊たちを宥めるすべは聖典を読むことしかない、と観念して再び演壇を囲んで顔を見合わせた。
黙読となると後方にいる面々には見えにくいだろう、とぼくのスライムが気を利かせ、聖典の真上から撮影すると留学生のスライムたちに映像を送った。
後方の面々は聖典を覗きこまず、タブレット端末のように変身したスライムの映像から聖典を読み込んだ。
七大神の誕生の順番は、意外にも空の神の前身の神が三番目に誕生したことが仄めかされており、その後、火の神と風の神と水の神と土の神がほぼ同時に誕生していた。
空の神の前身の神が創造神に反旗を翻し世界が混沌とする最中、空の神が誕生したようだ。
こうして七大神が揃い踏みし、確固たる神々の魔力を人々に提供し世界は再び安定するのだ。
七大神の序列がわかりにくいのは最初に誕生した光と闇の神と、特別枠の空の神以外、ほとんど同時に誕生しており、どの神も基本神なので人間には特別な神様だから、本質的に序列などないのだが、神々の中には序列意識というか、プライドがあるのか、魔力奉納で集める魔力の量で人間からの人気の度合いを自慢したがっているようにちょっとずつ多く魔力を引き出すから、神々の間に差があるように見えてしまうのだ。
「カイル!光影の剣を出したとは本当なのかい!」
夢中になって聖典を読み込んでいたぼくは礼拝所に教皇が来ていたことに気付かず、声を掛けられてから顔を上げた。
「光影の剣とやらがなにかわかりませんが、聖典を要約すると魔法が発動してしまうようなので、黙読していました」
そうなのか、と教皇は額に手をあてたが、教皇の背後にいる枢機卿たちは口をパクパクさせて何か言いたそうにしていた。
「カイル。ちょっと私の部屋で詳しい話を聞いてもいいだろうか?」
教皇の言葉に、はい、と言いかけたぼくは躊躇した。
「詳しい話をすることに異存はないのですか、同じ話を何回もすることになりそうなので、留学生たちを数人、同行してもいいですか?」
「みんなが目にしたことだから、かまわないよ」
教皇の返答に、家族代表としてケイン、ガンガイル王国代表としてキャロルとウィルが譲り合わなかったので二人とも参加することになり、特別招待枠でイザークとマテル、ムスタッチャ諸島代表のアーロン、キリシア公国代表のマルコ、東方連合国代表のデイジー、帝国代表に小さいオスカー殿下となり、地下通路へ大急ぎで移動した。
修練の間では月白さんが扉を押さえて全員を通過させたので、違和感を覚えた本人以外は実力の差を感じることはなかった。
「なるほど、事の始まりは最初に見た発酵の神の章で、早々に中級魔法の祝詞を行使することができてしまったんだね」
事の始まりをかいつまんで説明すると、教皇と枢機卿たちはこの時点で頭を抱えてしまった。
「当時ぼくは幼かったですが、発酵の神が誕生した時期の記憶がしっかり残っているので、大人たちが大騒ぎになっていたことを覚えています。ジュードさんは教会では一晩中新たな祝詞を唱え続けた、と仰っていましたから、それが原因で自宅の裏庭の山葡萄が発酵して栗鼠が酔っぱらってしまったことまで覚えていますよ」
そんなことがあったね、とケインが頷いた。
「発酵の神の祝詞は、発酵によって誕生した美味しいものを神々に捧げます、という気持ちがこもっていれば有効な祝詞になるのではないか?と推測しました」
ぼくの説明にウィルも頷いた。
「そうですね。発酵の恩恵で美味しくなったものは全て神々への供物として教会に奉納しています」
味噌も醬油も日本酒も味見の次に教会に献上していた、とケインが言うと、教皇と枢機卿たちは納得したように、ああ、と言った。
「十分に功徳を積んだ状態で発酵の章の内容をしっかり理解し、すでに誓約も済んでいる、となれば中級魔導師として魔法を行使できるのは当然なのかもしれないな。しょせん、資格や試験は人間が定めた範疇の話で、神々がお決めになったことではない」
教皇の言葉に枢機卿たちも頷いた。
「資格に試験があることはいいことだと思います。ぼくの場合はもともと発酵の神の誕生に興味を持っていましたし、魔法学校で魔法陣を学んだ後、常時、発酵の神の魔法陣を使用してその恩恵を十二分に受けた状態でした。偶々、祝詞を発動させても問題ない下地がありましたが、神学を学び始めの未成年がうっかり祝詞を発動させると危ないような気がします」
年齢を理由に上級魔術師の試験を受けていないだけで、私生活で上級魔法を連発しているぼくが中級魔法を使用しても問題がないが、魔法学校と並行して神学を学んでいる未成年たちには危ない、と指摘すると、全員が納得した。
「いやはや、発酵の神の件は理解できるが、光影の剣が出現した理由は何だろう?」
夕方礼拝までに真相の概要を知りたいのか教皇は発酵の神の話を一旦置いておいて、謎の剣の出現について質問した。
「ぼくの発した言葉の何が祝詞になったのかわからないのですが……」
うっかり何か言って祝詞が発動したら厄介だと考えたぼくは言い淀んだ。
「カイル兄さんは特別なことは何も言っていなかったはずです。もしよければぼくが復唱しましょうか?」
ケインの申し出に教皇と枢機卿たちは頷いた。
「まあ、闇と光は表裏一体だけど、世界の始まりは闇の神が先に誕生していた、と解釈したらいいんじゃないかな」
一語一句間違えずにケインが復唱したのに何も起こらなかった。
「……こんなことだろうと思いましたよ。カイル兄さんの説明の前半部分はぼくには全く理解できなかったので仕方ないですね」
何も起こらなかったことにケインはガッカリもせずに言うと、当時、現場に居合わせた全員が頷いた。
「闇の神の章の解読は高位聖職者の間でも見解が分かれている。一読しただけでとても理解できるものではないよ」
教皇の説明に枢機卿たちは頷いた。
ブラックホールからヒントを得たなんて言いにくし、どうやって説明したらいいのだろう?
ぼくが首を傾げると、本当にわかってないのに、光影の剣を出現させたのか!と教皇と枢機卿たちは頭を抱えた。




