叡智の女神の加護
「ねえ、おきるよ。おきるよ」
小さな手がぼくの頬っぺたをぺしぺし叩く。
「もう起きたよ」
「にいちゃんおきた!」
部屋から元気に出ていくケインの後についていくと階段で一段一段お尻をつきながら器用に降りていく姿が見えた。弟は可愛い存在だ。ぼくは壁伝いに行けば普通に降りれる。
「おはよう、カイル、ケイン」
「おばば、おはよう」
「おはようございます」
ケインはジェニエに抱きついて抱っこで運ばれる方をえらんだ。
「今朝はもうジュエルは仕事に行ってしまったから、朝食はお庭のテラスでゆっくり食べようね」
「おにわ、すき!」
「遊ぶのは着替えとご飯がすんだ後よ」
「「はぁい」」
広めの庭の半分が畑でもう半分が小さい子用の木製のベンチブランコや砂場があり、子どもの遊び場になっていた。
朝食を終えたころにはもう日が高くなっていて、結構な時間寝ていたようだ。
食器を下げる手伝いをしようとしたらジーンが大きめの箱を持って来てその中に入れだした。
「お皿をきれいにしてくれる魔術具なのよ」
食洗器があるのか。町の人の生活レベルは思った以上に高いようだ。
「ジュエルが作ってくれたんだけど、家事で大変なのはお洗濯の方なんだけどね」
洗濯機はないのか。トイレは水洗、お風呂はあってもシャワーはない。文化レベルがよくわからない。
「ジュエルからあなたは叡智の女神のご加護があると聞いているの。だからね、知らないことや知りたいこと聞いてみたいことは何でも質問していいのよ」
ジーンとジェニエは昨夜のうちにぼくの状況をジュエルから聞き取り調査済みだったようでぼくと並の三才児との会話をする気はないらしい。
「ね、叡智の女神のご加護ってなあに?」
「子どもの育ちが早いときには神様のご加護があると言われているんだ。歩き回るのが早ければ武勇の神のご加護、しゃべり始めが早ければ言語の神のご加護、教えていないことまで知ってるような子は叡智の女神のご加護を賜ったと言うんだ」
「ぼくはもっと別のご加護が欲しかったな」
「ちっぽけな人間の都合なんて神様は考慮してくれないよ。だいたい神様は大雑把なところがあって、雨乞いの祈りもちょっとした加減で大雨になってしまう。だから神事の手順は厳密で秘匿とされてる。でも、ご加護があると魔法の行使が楽にできるようだね。魔法を行使する魔術具を一般市民が発動できるのは厳密な魔法陣が組み込まれているからで、魔力だけではそうそう便利に動いてくれないもんだ」
「魔法陣次第でいろいろな魔術具ができるの?」
「まあ、作りたい物にあわせた素材、魔石、魔法陣で出来ているようなものだね」
ジェニエのさっぱりとした回答にジーンが少し苦笑いをこぼした。
「随分と大雑把な説明ね。詳しくは七才の洗礼式で魔法適性ありと判定された後、初等魔法学校で学べるわ。適性があればお貴族様じゃなくても学べるのよ。私もジュエルも通ったわ。魔導師になるのはお貴族様だけなのだけど、魔術具を作ったり細かい細工を施したりする人材はいつの時代も不足しがちだから庶民でも学びの機会があるのよ」
「ぼくも学校に通えたら魔術具を作ったりできるの?」
ジェニエがぼくの両手をとって、真摯な顔できっぱりと言う。
「適性がなければ魔法は学べない。だがね、どんな人にもほんの少し魔力はあるんだ。魔法陣を使った魔力操作ができなくても、日常で魔力を少し使う仕事もある。小さい頃は魔力操作の練習をするより、日常で魔力の流れを意識した方がいい」
「魔力の流れ?」
「今朝庭を見た時に一番魔力の多い薬草を見つけたね」
ここの畑がそもそも希少な薬草や薬になる樹が生け垣として植えられている。母さんが採取に行っていた森の中でも最上レベルの薬草がある。
「根っこから採取しても畑では育たない薬草があったから」
「魔力溜がわかるのではなく、知識で判断したのね」
「母さんが家事や畑仕事の合間に森に薬草を取りに行っていたから、負ぶってもらって一緒によく行ってた。選別の仕方や植生も教えてくれた。まだわからなくてもにおいや場所の気配、行ってはいけない場所を繰り返し語ってくれたんだ」
「魔力の流れを理解する素地を作っていてくれたんだね、いいお母さまだ。この世の全てのものに多かれ少なかれ魔力がある。個人の魔力量は遺伝するからお貴族様に魔力量が多い人が集中するもんじゃが、我々平民だってちょっとはある。大人になった時の絶対的な魔力量の差はあるけれど、魔力の流れを理解して自分が出す魔力を最小にしてこの世界にある魔力を借りて魔力操作をすることができるんだ。平民の生きる知恵だよ」
「適性がないと魔法学校に行けないのに、魔法を使うことができるの?」
「私は上級の魔法学校には行かなかったけど、魔力の流れを利用してこうして薬草を育てたり、調合したりして薬師を生業にしている。魔法を使っているわけではないが、魔力は使っているね」
「ジュエルやジーンは何のお仕事してるの?」
「私は魔法細工師よ。小さな魔道具の制作や極小魔石に魔法陣を書く仕事ね。ジュエルは魔道具の設計施工ね。最近はもっぱら吊橋の設計施工にかかわっているわ。領主様お抱えのお仕事だから騎士団の護衛がついているの」
「ジュエルはまた山奥に行っちゃうの?」
「今回の事件の調査が終わるまでは出張はないそうよ。明日から数日は休暇になるようだから、カイルもケインと一緒に遊んでもらいなさい。難しいことを考えるのはもう少し大きくなってからでいいでしょう」
「にいちゃん、にいちゃん、ブランコ!ブランコおして」
話が終わるのをまっていたかのように、ケインが駆け寄ってきた。空気の読める二才児がすごい。兄バカかもしれないが、この子はすごい子かもしれない。
「お婆が押してあげるから二人とも乗りなさい」
「お義母さんお願いしますね」
それからしばらくお婆に見守られながら二人で子どもらしく庭で遊んだ。
希少な薬草や生薬樹に囲まれた静謐な空間。だんだん高くなる日差しに短くなる木陰。
やっぱりだ。
その木陰の辺りになにかいるんだ。真夜中に感じたものと同じ気配が。
…かあさん、いいものとわるいものってどうちがうの?
洗濯物を干しているジーンも、地面にお絵描きをはじめたケインに付き合っているジェニエも、別段それを気にしている様子はない。
木漏れ日をゆらす風はすでに暖かく午後から暑くなることを予感させる。太陽が真上に来たらそれは何処に行ってしまうのだろうか。真夜中に部屋にいたのにいつの間にか外にいる。また家の中に入るのだろう、いつどうやって移動するのだろう。
ケインがぼくの絵を描いたと言って地面に枝で描いた落書きを見せてくれた。大きな丸から手足が生えてる物体が五つあった。一番大きいのがジュエル父さん、ジーン母さんとジェニエお婆は同じ大きさ、そして小さいのが二つ。
ケインは一つ一つ説明していく。一番小さいのを枝で指した。
「カイルにいちゃんだよ」
「こっちがカイルでそっちがケインでしょ」
「ぼくのほうがおおきいもん…いっぱいたべるもん…」
「食べ過ぎると横に大きくなっちゃうよ」
「にいちゃんよりおおきくなるもん」
「じゃあまだこっちだね」
ケインはジーンに言いくるめられてもぴょんぴょん飛び跳ねて大きくなろうとしている。
なんだか普通の家族みたいだ。ぼくがここに居ることが当たり前みたいになっている。
ぼくは適当な大きさの枝を拾って、地面に丸をいくつか描くとジャンプして丸の上を移動し始めた。ケインも真似してついて来る。
視線を少し向けてみると、木陰のそれもぼく達のいる方に少しずつ移動している気配がする。木漏れ日間をジャンプするように。一緒に遊びたがっているように。
わるいものではないのかもしれない。