山間の秘湯
山の中の温泉も村人たちが利用できるように脱衣所を作り、男女の仕切りも作った。
「山仕事の後の楽しみができた」
村人たちも喜んでくれた。
そんなこんなでぼくたちが下山し始めたのはお昼を過ぎており、心配して登ってきたノア先生と同じルートで下山したのは猿たちが先導してくれたからで危うく行き違うところだった。
「山の中にも温泉を掘ったの!?おっかしいな?山小屋まで行ったのに見つからなかったよ」
「山小屋まで行ったの!?」
ノア先生の話に、二日酔いじゃなかったの?とラヴェル先生は素っ頓狂な声をあげた。
ぼくたちが朝食を食べ終えてからノア先生が山小屋に立ち寄ったとしても、霧も晴れていたから温泉の湯気くらい見えただろう。
首を傾げるぼくたちに、もしかしたら、と兄貴が言った。
「山の神の祠に魔力奉納しましたか?」
したよ!と即答するノア先生に、上も下も?と兄貴が畳みかけた。
「村長宅の裏庭と山小屋の横の山の神の祠のことかな?」
アーロンの突っ込みに兄貴が頷くと、ノア先生は絶叫した。
「山小屋の横にもあったのか!」
祠巡りをコンプリートしなければ温泉の湯気が見えないのではないか、という兄貴の疑問に興味を持ったぼくたちはすでに半分ほど下山していたけれど山小屋に引き返した。
ぼくたちには山間から温泉の湯気が立っているのが見えるのにノア先生には全く見えないようで、兄貴の疑問はみんなの確信になっていった。
「先ほど山小屋までノア先生を案内してきた時には湯気が見えなかったのですが、今ははっきり見えますよ。あっちですよね」
ノア先生を先導していた村人は温泉の方角を見て顔をほころばせた。
北山をくまなく歩いているだろう村人たちがご神木を探し当てられていない時点でボス猿の精霊の邪魔が入っているだろうとは考えていたが、どうやら山の温泉も部外者の立ち入りを精霊たちが拒んでいるのかもしれない。
山小屋まで戻り山の神の祠に魔力奉納をしたノア先生は意気揚々と山の斜面を見上げて……がっかりした。
「湯気なんて見えないよ!」
魔猿の村の祠巡りのコンプリートが山の温泉への招待される条件ではなかったようだ。
「あれじゃないかな?長寿の実が一粒だけ残っていたでしょう?」
ぼくたちを案内していた村人がそう言うと、収穫時の奉納じゃなかったのにもらえたのか!とノア先生を案内していた村人が嬉しそうに言った。
どうやらぼくたちの手土産の奉納品が多すぎて初冬なのに長寿の実を授かれるのではないか、と村人たちは色めきだっていたようだ。
ぼくたちを案内してくれた村人たちは来年度長寿の実を賜る順番だったのに、祭壇に長寿の実があるはずだと信じて早朝から村長宅の裏庭でぼくたちを持ち構えていたらしい。
長寿の実の説明を村人たちから聞いたノア先生に収納ポーチにしまっていたご神木の実の最後の一粒を差し出した。
落としたら消えると聞かされているノア先生は慎重にご神木の実を摘まみ、矯めつ眇めつ眺めて匂いを嗅いだ。
みんなに見守られながらノア先生はもったいつけるようにゆっくりと皮を剥き、剥いた皮を地面に落として消えるさまを見て子どものようにはしゃいだ。
沈黙して見守るぼくたちの、サッサと食べろ、と言わんばかりの強い視線にノア先生は真顔になってご神木の実を口に含んだ。
「……これは十年寿命が延びると言われるのが理解できる!最高級の回復薬のようではないか!!」
滑空場でぼくの回復薬を飲んだことのあるノア先生は、味も素晴らしいのに小粒なのが残念だ、と大絶賛した。
ノア先生が服用した回復薬はだいぶ改良されているのにな……。
あれ?
もしかしたらご神木の実もこの結界の外に持ち出したら味が変わるのかもしれないな。
“……ご主人様。持ち出す前に、もらうとすぐ皆食べてしまうので試したものはいません”
地面に落ちたら消えてしまうご神木の実を持ち運びしている間に消えてしまっては、もったいなさすぎるから誰も試せないのだろう。
「ああああ、あれが温泉の蒸気か!」
ご神木の実の効能に感嘆の声をあげていたノア先生が山を見上げて叫んだ。
見に行きたいと言い出さなくても表情に出ていたノア先生のために、昼食をマリアの美味しくない非常食をみんなで分け合うことにして、山の露天風呂に戻った。
「風呂の規模が大きすぎる!」
傾斜を利用した段々畑のような石造りの浴槽がたくさんある露天風呂にノア先生は興奮し、ラヴェル先生は早速温泉を楽しんでいる魔猿たちに目を細めた。
帰りの遅いぼくたちを心配した村人たちがお弁当を運んできてくれたので、ぼくたちも山を上り下りした汗を流した後、猿の楽園となった温室でサンドイッチを頬張った。
ステンドクラスから差し込む光が地面に美しい影を描いている。
その中でサンドイッチを貰った魔猿がちょこんと座って食べている姿が可愛らしい。
お婆が顔をほころばせているのをオーレンハイム卿がニコニコと眺めている。
野外実習がこんなに穏やかでいいのだろうか、とブランコに乗る小猿の背中を押している実習生を見ながらラヴェル先生に訊いた。
「荒廃した山で絶滅する野生動物がいる中人間と共生することで群れを守った魔獣の事例として貴重だけど、内情を知ってしまうと論文にすべてを書くことは躊躇ってしまうな」
この山に天然の極上の回復薬になる木の実があり、それがこの山のどこにあるのかがわからないということを公表して魔猿たちを困らせたくない、とラヴェル先生は続けた。
「公表して部外者が村に乗り込んできても山の中の温泉は見つからないし、伝説のボス猿さえいない、となれば論文の信憑性が無くなるだけです」
ノア先生の言葉にラヴェル先生は笑った。
「私は元々魔獣学では日の当たらない研究をしていた。魔法学校の人事異動で急に役職を与えられてしまったが、目立つ論文を発表したら出世街道から外れた人たちを挑発してしまうだろう。今回は無難に、人に慣れた猿は加工食品を好む、とでもまとめておこう。ああ、君たちのレポートは好きに書いてかまわないよ。他の先生に見られないように特定の言葉を黒塗りにする専用紙で提出してもらうからね」
自由に研究してくれ、というラヴェル先生の言葉に、お婆がお猿さんの可愛さをひたすら書いてもいいのか?と訊いた。
「同じ魔獣たちを観察しても人それぞれ注目するところが違うからいいのですよ。着眼点が同じでも複数人で確認できた情報ということになる。各々好きに書いてくださいね」
はい、とぼくたちは元気よく返事をした。
魔獣学の教員がラヴェル先生に変更になって本当に良かった。
ぼくの安堵が顔に出ていたようでウィルとアーロンの口も、ラヴェル先生でよかった、と動いた。
昼食を済ませて小猿たちと遊んだ後、ぼくたちは下山した。
下山途中に天然温泉に入りに行く村人たちとすれ違い、今晩もみんなで食材を持ち寄って村長宅で食事会をしようという流れになっていることを聞いた。
朝食のお握りは村人たちにも好評だったので、村長宅に戻ったぼくたちは張り切って稲荷寿司や飾り巻寿司を仕込んだ。
明日の午前中には帰ってしまうぼくたちにお礼を言いに、村人たちが村長宅に次々とやって来た。
村人たちは連れてきた魔猿たちと露天風呂を楽しんでいるので、村長に手前の町まできているぼくたちの贔屓の商会が水着用の布を取り扱っていることを伝えた。
魔獣風呂を混浴にできれば猿と人間が一緒に入れる。
食うに困らない程度の村なので贅沢はできない、という村長に商会は冬場の内職を斡旋しているから相談してみることを勧めた。
倹しく暮らすことは美徳だけどささやかな楽しみがあった方がいい。
夕食会では村長がぼくたちへのお礼を延々と語りだし、村人たちはぼくたちに感謝すると共に明日にはお別れの時間がやって来ることにしんみりし始めた。
そんな大広間の雰囲気を一転させたのはぼくのスライムがスクリーンに変身して大広間の壁に張り付いたことだった。
今日の競技会の試合はガンガイル王国チームが参加していることもあって、大広間では実習生たちも村人たちも興奮した。
ボス猿の妖精に、いったい何体の分身を放っているのか、と言われたぼくのスライムは今日も分身を超特急で帝都からぶっ飛ばしてきたのだ。
結果を知っているぼくのスライムと兄貴がニヤニヤしているように見えたので勝ったのは間違いなさそうだが、どんな勝負になったのかが気になる。
五チームが四角い舞台で戦うのは昨日の試合と同様だったので、ガンガイル王国チームが一辺に二組のチームが配置された場所のくじを引いたから、去年の準優勝チームのように圧勝することをみんなは期待してスクリーンを見つめた。
「うちが圧勝するのは間違いなさそうだが、二位がどのチームになるのかが予測できないな」
オーレンハイム卿の言葉に村人たちはその方がワクワクする、と試合開始を待ち構えた。
試合開始のホーンが鳴るや否や、ガンガイル王国チームは水魔法で大量の水を舞台中に放水した。
なんてことはない放水で先制攻撃を牽制したにしか見えなかったが、二つの魔法を重ね掛けしていた。
「さすが、ガンガイル王国だ。放水で出鼻をくじいたのではなく全チームの放った魔法を無効化させたのか!」
ガンガイル王国の上級魔法学校生が四人並んで四方に放水したので舞台上漏れなく水浸しになった。魔力に物を言わせて敵チームの魔法を無効化させると、中級魔法学校所属の小柄な選手たちが四方の角めがけて突進した。
ボリスやアレックスたちは年齢が中級魔法学校生なだけで実力は上級の授業について行けるだけあるのだ。
彼らが剣や槍を振り払うだけで襲ってくる敵の選手を吹き飛ばして四隅を制した。
「小さいのに凄い魔力だ!」
ラヴェル先生が興奮して大声で言うと、実習生や村人たちも、凄いなあ、と声をあげた。
「広域魔法ですね。舞台上に流れた水が小柄な選手たちの魔法に上乗せする魔力を与えているのかな?」
ノア先生の読みは正解だ。
「それでも隅っこだから、この後味方の援護を得にくいぞ」
戦力を分断させたことにノア先生が顔を顰めた。
ぼくたちガンガイル王国出身者たちは焦りもせずにスクリーンを見ているので、村人たちはこれから何が起こるのだろうと目を輝かせてスクリーンを食い入るように見つめた。
四隅に散ったボリスたちを場外に落とそうと四組のチームが四隅に向かっていくか、というところで舞台上の選手たちの動きがぴたりと止まった。
動けるのはガンカイル王国の選手だけになってしまい、四隅に行った選手以外のみんなでパネルを染め始めた。
「……圧勝っていうよりこれは大虐殺なんじゃないのか!?」
「まだ勝負は終わっていないから油断したらいけないんだ」
「魔術具の効果はどのくらい持つのかしらね?」
「実戦で使用したことのないものが、ほとんどだからわからないよ」
驚くノア先生を尻目にガンガイル王国出身者は、仕掛けた罠が発動したのに地味な展開になっているので憶測することしかできなかった。




