猿の楽園
ボス猿の研究を全て見せてもらったぼくたちが手を離すと兄貴は、凄いだろう、とぼくに言った。
そうか、兄貴はボス猿と同調したから全てを知っているのか。
「この山の植物の知識をほとんど授けてくれてありがとう」
ボス猿と繋いでいた両手をブンブン振ると知識の継承が済んだことにぼくの魔獣たちも喜んだ。
「植物による結界の構成も世界の理のことも知ってたのなら、新たな知識はこの山の植生だけだったのね」
もったいつけた分だけ恥ずかしそうにボス猿の精霊が苦笑した。
「植物学の先生が欲しがっていた植物が自生していることも確認できたから夏に採取に来るよ」
また来る、と約束を口にすると、ボス猿とボス猿の中級精霊の顔がほころんだ。
この世界はゆっくりと破滅に向かっているけれど、帝国の政権転覆なんかなくても希望はあるはずだ。
そんなにキラキラした笑顔でぼくを見ても、ぼくはできることしかやらないよ。
「うちのジュンナもまだ何か企んでいますからそろそろ戻りますよ」
シロの言葉に全員頷いた。
おなじみの体が浮く感覚がするとボス猿の言葉が脳内に響いた。
“……猿たちのためにこんなに尽くしてくれてありがとう”
魔法の絨毯の上でみんなが狼狽えていた。
「ぼくたちを受け入れてくれてありがとうございます!」
大声でボス猿にお礼を言うと、亜空間に行ったんだな!と気付いたウィルがぼくを凝視した。
ウィルの視線なんか気にしないで、黄金に輝く雲海が桃色に染まり変わる様子を魔獣たちと楽しんだ。
ラヴェル先生は視力強化をして魔法の絨毯の端に張り付き地上のボス猿を探している。
群れで一匹だけ毛色の違ったボス猿は注目を浴びたがっていないんだから、ラヴェル先生には申し訳ないが気をそらせたい。
「私たちの誠意に直接返答をいただけただけで十分でしょう?押しが強いと女の子は引いてしまいますよ。それより、ご覧なさい!素晴らしい絶景ですよ」
オーレンハイム卿がラヴェル先生に生涯に一回しか見られないかもしれない絶景を堪能すべきだ、と主張した。
「ラヴェル先生、見てください!村もすっぽり雲海に覆われていますよ。あの中に私たちがいたら、ただの霧の濃い朝なのでしょうか?それとも薔薇色の霧に包まれているのでしょうか?ノア先生を置いてきたから後で聞いてみましょうね」
鈴を転がすようなお婆の美声にラヴェル先生の頬も薔薇色になった。
「……ええ、そうですね。早起きして山に登った甲斐のある絶景です。そして、力ある魔獣が脳に直接話しかけてくる、という現象を体験できた!霧の中に現れる像は自然現象だったが、ボス猿が私たちに話しかけることができるのは本当だった!」
村人たちからも、会えない、と言われていたボス猿から語り掛けられただけでもすごいことだと気付いたラヴェル先生は、四つん這いになって地上を覗きこむのを止めて顔を上げた。
すると魔法の絨毯に乗っていた魔猿たちがラヴェル先生の顔を見た後、そこにいるのね、と言うかのように山の神の祠の方向に視線を向けた。
ラヴェル先生が魔猿たちの視線を辿り魔法の絨毯の端から身を乗り出した。
「猿たちにはわかるようですが、山の気配と同化してしまっているので見つかりませんよ」
案内してくれた村の人たちが笑いながら言った。
「山の神の祠の方向ですから、山小屋付近に着陸しますよ」
「こんな大きな空飛ぶ絨毯が近づいたら誰だって逃げますよ。過剰な期待をしないでくださいね」
ワクテカ顔になったラヴェル先生に兄貴が釘をさすと絨毯の上の全員が笑った。
桃色に染まる霧の中は視界不良だったが祠の魔力を頼りに山小屋の横に着陸した。
「あっ!山の神のお遣いがいらしたんだ!」
村人たちが祠に駆け寄った。
「見てください!ボス猿が皆さんのお土産や温泉のお礼に長寿の実をくださいましたよ!」
祠の前の祭壇に菱形のブナの実のような小さな木の実が居合わせた村人たちや魔獣たちを含めた人数分、いや、ノア先生の分も含めているのか一つ多くあった。
ボス猿はずいぶん自身の毛の中に蓄えていたようだ。
「私たちの村では一粒食べれば十年長生きすると言い伝えられている山の神のお遣いが下さる不思議な木の実です。地面に落ちると消えてしまうので持ち帰らずにここでお召し上がりください」
「受け取った人に食べる権利があるのですよ」
村人でもめったに食べられない貴重なものだ、と村人たちは喜んだ。
一粒ずつ受け取った実習生たちは掌の上で観察した後、食べるのがもったいないようで、どうしようかと眉を寄せた。
魔猿たちは、早く食べろ、というかのように目を輝かせてぼくたちを見ている。
「こういった素材は欲をかいて植えて育てようとせずに、ありがたく食べてしまうのがいいでしょうね」
「煎ってから食べましょうよ」
オーレンハイム卿の意見に賛成したお婆は収納ポーチから七輪と小さなフライパンを取り出して有無を言わさず火を起こした。
「生で齧るのはどうかと思っていたので、助かります。焙煎したら香ばしくて美味しくなるかもしれないですね」
ウィルの言葉にぼくも頷いた。
村人たちは生でかじりついて皮を吐き出していたようで、煎るのは初めて見る、と興味津々に自分の木の実もフライパンに入れた。
「生でもほんのり甘くて美味しいのですよ」
「皮が固くて渋いから吐き出すと地面で本当に消えてしまうんです」
味の感想を詳しく教えてくれた村人たちの話によると、秋に収穫物を奉納すると収穫物が消えて木の実が置かれているらしい。
村では貢献度に合わせて順番に木の実をいただくことになっているが、病人や怪我人が優先されてその場合のみ持ち帰るようだ。
食べずに植えて育てようとした人はいるにはいるが、土につけば消えてしまう実を発芽させることに成功したことはなく、数年待たなくては再び自分の番にならないので二度目を試そうとする人はいないらしい。
「もういいころかしらね」
お婆が菜箸で煎った木の実を小皿に載せて粗熱を取った。
「もういいかしらね。熱いから素手で取って反射的に落としてしまわないように気を付けてくださいね」
お婆は火傷より貴重な素材を消滅させるな、と優しく言った。
お婆のスライムが触手で摘まんでこくこくと頷いたのでもう大丈夫だろう。
魔獣たちはまるかじりしたが、人間は皮を剥いて口に含んだ。
香ばしい木の実でとても美味しい。
ゴクンと飲み込む前に口の中でスッと消えてしまった。
美味しい、と喜んでいるのはガンガイル王国出身者と村人たちだけでラヴェル先生と実習生たちは俯いて考え込んでいた。
「……魔力が満ちてくる」
ラヴェル先生や実習生たちは味の感想より魔力が体の奥からみるみる湧いてくる感覚に驚いていた。
ぼくたちは高級回復薬に慣れ過ぎているせいでそこまでの感動はなかったが、光る苔の雫が激マズなのでどうしてもこの木の実の美味しさの方に感動してしまう。
剝いた皮を地面に落として消える様子を確認すると、全員が持ち帰らずに食べるべきものだと納得した。
「すっかり魔力も体力も回復したから温泉をもう少し整備したいわ。あの蒸気の熱を利用して温室を作りたいの」
お婆の提案にオーレンハイム卿は頷いた。
ぼくたちは山小屋で持参したお弁当を食べながら、バナナの苗木を持ってきたお婆の希望する温室の設計を話し合った。
魔猿たちもわかっているかのような表情で図面を覗き込むのでラヴェル先生は興味深そうに魔猿たちを観察した。
魔猿たちを通してこの状況を見ているであろうボス猿に精霊言語でバナナの株分け方法を圧縮した精霊言語で送り付けた。
“……ありがとう。大切に育てるよ”
ぼくたちが朝食を終えて山小屋を出ると霧はだいぶ薄くなっていた。
村人たちも実習生たちも温室を作る作業を見たい、というので魔猿の観測より建築学の実習のようになってしまったが、ラヴェル先生は魔猿たちに囲まれて幸せそうなので問題なさそうだ。
ぼくとウィルが土魔法で強化ガラスをどんどん制作するのを実習生三人は目を丸くして見ているだけでなく、何とか真似しようと頑張っていた。
そもそも無理だと諦めているアーロンは兄貴や村人たちと一緒に資材運びを手伝っていた。
体力にも自信のない三人は小さなガラスを作ってはみぃちゃんとキュアに強度が足りないと割られていた。
三人が劣等感を抱かないように色ガラスの製作を頼んだ。
ぼくと兄貴で空調の魔術具を製作中にオーレンハイム卿とウィルにステンドグラスの製作を頼んだ。
魔猿たちをモチーフにした構図の中心にピンク色の髪の女神が他の猿より少し大きい猿を抱っこしているので、お婆が小さくため息をついた。
言い出しっぺなのだから仕方ないよ。
温泉の蒸気と排水を利用した小さな温室が出来上がり、土を改良するとお婆は七つのバナナの苗木を植えた。
「手入れの方法は村長に手紙にしてお渡ししておきますね」
土まみれになっていたお婆が清掃魔法をかけて綺麗になった後、村人たちにそう言って微笑むと、ありがとうございます、と顔を赤らめた村人たちが頭を下げた。
オーレンハイム卿がすごんでいるから村人たちは顔を上げにくいじゃないか。
「これで、温室の様子を見に行くという名目で何度もここを訪れることができます。これからもよろしくお願いしますね」
お婆の言葉にラヴェル先生も嬉しそうに、よろしくお願いします!と村人たちに頭を下げた。
ぼくは何の気なく冬場の小猿の遊び場になればと、片隅にブランコや滑り台やシーソーを作った。
さっそく親子連れの魔猿が遊びに来たので、奇声をあげそうになるラヴェル先生の口を実習生の一人が塞いだ。
「先生!猿たちを驚かせたら先生がいる時には猿たちが遊びに来なくなりますよ」
ラヴェル先生は実習生の手を振り払って自分で口を押えて頷いた。
スライムたちがシーソーの使い方のお手本をすると、キュアが片方に飛び乗ってシーソーの動きを止めてしまい集まっていた魔猿たちが大笑いした。
身振り手振りで魔獣たちがコミュニケーションを取っているように見えるが、ぼくの魔獣たちは精霊言語で魔猿たちに遊具のプレゼンをしたので、小猿でさえすぐに使い方を覚えた。
「やっぱりここの猿たちは賢いな」
ラヴェル先生の言葉に村人たちも頷いた。
魔猿たちは精霊言語を駆使することはできないが、精霊言語で指示されることに慣れているから、混乱なくすぐに遊べるのだろう。
「うふふ。予想通りお猿さんの楽園ができたわ」
お婆はこの実習で猿の楽園を作りたかったようで、満面の笑みを浮かべた。




