ボス猿の苦悩
「精霊たちは極端すぎよね。アネモネみたいな幼児に契約を迫ったり、カカシのように年老いてようやく契約したりするなんて振れ幅が大きすぎよ」
ぼくのスライムの発言に魔猿の村の精霊はがっくりと肩を落とした。
「気になる人、いや魔獣でもいいんだけど、老化が深刻になる手前でちょこちょこ癒しを掛けたらいいんじゃないかな?」
真っ当な意見をウィルが言ったが、兄貴は首を横に振った。
「老化が遅くなればその分だけ契約に至るまでの年数が遅くなるだけだよ」
時間の感覚が飛竜やゾウガメと同等かそれ以上の精霊には生き物に寄り添う感覚が育たなければ何をしても無駄だろう。
「生き物はね、次世代に未来を託して死ぬように神様がお創りになっているから、あなたが少しでもいつか契約してみたい、と思う生物がいたらその生態や思考をきちんと把握すべきだよ」
魔猿の村の精霊は群れを繫栄させつつ山を豊かにしたボス猿に思いをはせたようで小さく頷いた。
「ボス猿は個の幸せより全体の幸せに重きを置くから老体に鞭打つ状態でも頑張っているんだろうね。彼女がそれでよしとしているのなら、ぼくたちがどうこう言うのは筋違いかもしれないけれど、労わってあげてね」
魔猿の村の精霊は何か決意したように凛々しい表情をして立ち上がり、テーブルの上を走ってぼくの指先を掴んだ。
「山が枯れてからあの子は閉ざされてしまった北山で外部からの刺激が全くない状態が続いたことに暗澹たる思いに取りつかれてすっかり塞いでしまっているのよ」
これ以上の人口、いや猿口増加が許されない状況下で、禿山になったこの地に立ち寄る渡り鳥が来なくなり季節ごとに世間話をするのを楽しみにしていたボス猿はうつ気味になっているとのことだった。
十年も一人で研究室に籠もっていたジェイ叔父さんが別格なだけで、通常の精神なら先の見通しが立たない閉鎖的社会になれば暗澹たる思いに取りつかれるだろう。
「偶にやって来る学者一行をからかっていたのも、ボス猿の楽しみの一つだったの?」
みぃちゃんの突っ込みに、バレていたのか、と魔猿の村の精霊は苦笑いした。
スライムたちがみぃちゃんでブロッケン現象を再現すると、魔猿の村の精霊はぼくの指から手を離してテーブルの上にひれ伏した。
シロの亜空間ではなく寮の自室で検証したのに太陽柱の映像から見つけられなかったなんて、魔猿の村の精霊はポンコツなのかな?
“……ご主人様。無限にある太陽柱の映像からご主人様にまつわる物だけ探しても、面白い検証をたくさんしているので全てを把握するのは難しいでしょう”
山の生態系を戻すことに着目していた魔猿の村の精霊は土壌改良の魔術具に注視しても、遊んでいるように見えることを見逃すのは当たり前か。
「あの子が精霊言語を取得してから、人間に語り掛ける時は朝靄を利用して姿を隠していたの。光の環の中に学者の影が映り込んだのは偶然だったの。山の神のお遣いだ、と言い出したのは当時の村長よ。ついでだから、入山口にある山の神の祠に避難小屋を建てるように村長の夢枕に立って勧めたら、村人たちが参拝するようになったから危ない行動をしないように忠告するようになったのよ。そしたらすっかり我が山の神様のお遣いになってしまったのよね」
ボス猿が山で滑落した人間に治癒魔法を使って救助していたのは事実で、欲をかいてボス猿を煩わせる人間がいなくなるように誘導したら山の神のお遣いにされてしまったようだった。
「村人たちはボス猿が神々のご加護が篤い神獣だって気付いていないの?」
キュアは聖獣が付近に生息する村人たちが、魔猿を普通の猿かのように扱っていることが腑に落ちないようだ。
「村人たちが猿たちを過度に神格化しないように、とあの子が望んだから村人たちに暗示をかけているのよ。山の神木を守り続けている限り北山の猿たちは魔力が多いのは事実だけど、それでも神獣の子孫というには弱すぎるから、というのが理由なんだけど、あの子はシャイな子だから自分が崇め奉られるのを好まないからでしょうね」
ボス猿は奥ゆかしいうえに学者たちをからかう茶目っ気もある魅力的な性格のようだ。
“……ご主人様の好みのタイプはこういう女性なのですね”
ちょっと待て!
キャラクターとして魅力的な性格なだけであって、好みの女性の性格ではない。
「つまり、村人たちは内心では聖獣である魔猿が率いる猿の群れ、と認識しているけれど口から出る言葉はお猿さんと呼んでいるということかい?」
ウィルの言葉に魔猿の村の精霊は頷いた。
「山枯れは突如起こり、あの子は進行を止めるだけで精一杯だった。神々のご加護が篤くても世界の理と繋がる護りの結界がないところでは十分に発揮できないもの。我だってない魔力は行使することはできないわ」
魔猿の村の精霊の言葉に兄貴とシロが頷いた。
「まあ、村人たちが群れの猿たちを神格化しなかったから猿たちを保護してもらえたのよ。各家庭に一、二匹ずつ保護してもらい毎日ご飯を分けてもらっているわ。あなたたちが村に来た時に全員を避難させたのは厄介な人物が紛れ込んでいる可能性があったからよ。出発間際にメンバーが入れ代わったからなんとかなったようだけど、力のある精霊の干渉があったのでしょうね。まったく予見ができなかったわ」
土壇場で入れ替わったメンバー?
「ノア先生以外の人物がぼくたちの引率を担当する手筈があったということか!ノア先生が強引に割り込んでくれて結果としてはよかったのか」
うるさい先生がついてきたと思っていたが、最善の選択だったようだ……力のある精霊の干渉って……。
心当たりが一致した兄貴とシロは、道理で未来が見えなかったわけだ、とでもいうかのように頷きあった。
「ほくの精霊は生まれたての赤子のようだけど、ぼくたちはとても力のある精霊の庇護を受けているから、そういうこともあり得るんだろうね」
上級精霊の根回しがあったのかもしれないと言うとウィルも頷いた。
「なるほどねえ。危険人物が来るかもしれないけれど、あたいのご主人様にはこの村に来てほしかったのね」
「満足の結果なのに亜空間に呼んだのは、その鬱気味のお婆ちゃん聖獣と気晴らしにお話でもしてもらおうとでも思ったの?」
「本人が来ていないんだから、この精霊が勝手に気を回しすぎただけじゃない?」
ぼくのスライムとみぃちゃんとキュアが話をどんどん進めていくと、魔猿の村の精霊の顔色が悪くなっていった。
「気を回しすぎなんて、我はまたしくじったのか?」
「渡り鳥の季節になれば毎年来ていた鳥たちが素通りする魔力を感知して寂しくなるのは理解できるよ。それでも毎年会っていた顔なじみの子どもたちが大きくなっていくのを遠目に見るだけでも、心の慰めになっているはずだよ。寂しいからといって見知らぬぼくたちに会わせても、神獣の慰めになるかどうかはわからない、という意味だよ」
村人たちでさえほとんど見たことがないというのだから、ボス猿は人間に会いたくないかもしれない。
「……それは、あの子も恥ずかしがるかもしれないけれど、こんなに興味深い人間なんてめったにいないのだから結果としては喜ぶはずよ」
精霊たちにはぼくたちは面白い存在かもしれないけれど、ボス猿にとってどうなのか、という視点が抜けている。
魔獣たちは残念な子を見るように魔猿の村の精霊を見ると、シャイな子だと知っていてサプライズで初対面の人をけしかけるのはよくない、と説教を始めた。
兄貴とシロは無言で斜め上を見ている。
きっとボス猿に会う価値があるのだろう。
「明日の朝、日の出前に山小屋の山の神の祠に魔力奉納に行こうよ。ぼくたちは元々聖獣に会えなくてもブロッケン現象を試しに行こうとしていたんだから予定通りだよ」
ボス猿がぼくたちに会いたかったら出てくればいいし、そうじゃないなら、自然現象と魔法を組み合わせて遊ぶだけだ。
いいね!とウィルと兄貴と魔獣たちが賛同すると、魔猿の村の精霊は安堵したように胸をなでおろした。
明日晴れたらきっと面白いことになる、そんな期待が胸の中に湧きあがった。
亜空間から戻ったぼくたちは熱燗の匂いにひかれて行ったノア先生を笑いながらオーレンハイム卿に目配せした。
収納ポーチからスルメを出して、七輪で炙るといいつまみになるよ、とぼくが言うと、ウィルが小声で、ノア先生が強引に引率を交代しなければ誰が来る予定だったのか聞き出すように、とオーレンハイム卿に頼んだ。
「匂いは生臭いが……本当にこれが旨いのかい?」
スルメの匂いを嗅いで顔を顰めたオーレンハイム卿に、ジュンナさんの好物ですよ、と言うと途端に笑顔になってお婆たちのところに向かった。
ノア先生からの情報収集をオーレンハイム卿に任せて、ぼくたちは露天風呂に浸かっているキュアたちのところに行った。
魔猿たちは警戒するようにキュアの後ろに下がったがスライムたちやキュアが泳ぐようにぼくたちの側に集まると、怖い人ではないのか、とじっと魔猿たちに観察された。
あたしの出番が来たようね、とみぃちゃんが岩風呂の縁をゆっくり歩いてきた。
風呂嫌いのみぃちゃんが露天風呂でスタンバイしていたのは猿たちの湯上りを快適にする魔術具の公開実演のモデルを務めてもらうからだ。
温泉で温まった後毛が濡れたままでは可愛そうなのでペットドライヤーボックスを作ってみたのだ。
スライムたちとキュアは滅多にお風呂に入らないみぃちゃんの入浴シーンを見るのを楽しみにしている。
お前たち!しかと見届けよ!!とでも言うかのように凛々しい顔で魔獣たちを見渡したみぃちゃんがドボンと露天風呂に飛び込んだ。
「猫もお風呂に入るのか!」
ラヴェル先生は興奮してみぃちゃんのスケッチを描いた。
みぃちゃんは足のつかない露天風呂で湯に顔を付けることなく優雅に猫かきを披露した。
村人たちからも拍手が沸き起こり、泳ぎながらもみぃちゃんは得意気な顔をしている。
いったいいつの間に泳ぎの練習をしていたのだろう、と思いつつもぼくはペットドライヤーボックスの魔術具を用意した。
みぃちゃんは魔猿たちの間を横断して泳ぎ切ると、浴槽の縁に上がるなり体をブルブルと震わせて水しぶきを飛ばした。
実習生三人にガッツリかかったが、三人は笑いながら清掃魔法をかけたので、気分を害したわけではなさそうだ。
みぃちゃんは三人に向かって、ミャァと鳴いて、すまないね、と謝罪すると、ペットドライヤーボックスの扉を開けるボタンを押して自ら箱の中に入った。
スタートボタンを自分で押して温風を受けると、みるみる毛が乾いていく様子に皆の視線が釘付けになった。
仕上がりが近くなると長い毛が美しいドレスのように膨らみ気持ちよさそうに目を細めたみぃちゃんを魔猿たちが羨ましそうに見ていた。
みぃちゃんのデモンストレーションは魔猿たちの心を鷲掴みしたようで、みぃちゃんが箱から出ると試してみたい魔猿たちが列をなした。
露天風呂に大興奮したラヴェル先生の絶叫が木霊した。




