ノーラの決断
「ノーラの心の隙間は埋まらないけれど、そのやるせなさをオーレンハイム卿夫人好みではない、ノーラ自身の物語として書いてみてほしいわ。あたい、そういう物語も好きなんだよね……。違う、違うの……!……あなたのセシルは……あなたのセシルじゃない……!その物語は好みだけれど、現実は厳しいの……」
このタイミングでカフェの切り取られた亜空間に戻ってくると、ぼくのスライムは前回と同じセリフが言えなかった。
ぼくのスライムは全身を小刻みに震わせて、ない目から涙が溢れているような迫力を醸し出して言葉を詰まらせた。
「あなたのセシルは東方連合国所要国の王子様だったのよ。そして、運命のいたずらで誘拐されて暗殺者に仕立てあげられ、少なくとも千人の人間を殺した殺人者で、今はその全てを失った廃人なのよ」
カフェの亜空間が切り取られた時にいなかったデイジーが突如として現れて発言したのに、食堂で一人大食い大会をした印象が強すぎたせいか一時消えていたことに女性陣に気付く人はいなかった。
よもやま話に最初から参加していたかのように馴染んでいるデイジーの発言の内容がノーラを励ましていた話の流れから逆行し、セシルが暗殺者であったことを忘れるなと強調した。
「ノーラ。あなたに与えられた選択肢は二つあるのよ。もう二度とセシルとは暮らせないのだから、セシルのことをきっぱり忘れる。物の例えじゃなくて本当に記憶を消されるか、セシルのことを覚えていても、あなた以外の全ての人がセシルの存在を忘れてしまい、あなたが雨の中保護したのは薄汚い野犬でここに来る直前に死亡して火葬したことなり、あなただけが偽者のセシルの記憶を保持している状態にするかの二択しかないわ」
上級精霊がノーラに課した二択は心の準備がない段階でいきなり突きつけるには難しい選択なのに、デイジーは容赦なく決断を迫った。
亜空間の端ギリギリに座り込んでいるノーラは、カウンターの高い椅子に座っている偽セシルの被害者であるぼくを見上げて、深い息を吐いた。
「…………忘れたくない……だけど、忘れてしまいたい……」
絞り出すように言ったノーラにぼくの魔獣たちが、ノーラは何も悪くない、と言いながら寄り添った。
偽セシルは幸薄かったノーラの人生に、良い人と結婚した後も襲いかかってきた不幸を忘れさせてくれる清涼剤として、いやそれ以上の心の支えになっていたのだろう。
「忘れなくていいんだ!ノーラ」
突如として大きな声を出したオーレンハイム卿の言葉にビクッとしたのはお婆だった。
お婆としてはオーレンハイム卿の自分への執着心を忘れてほしいのだろう。
「たとえ今ノーラ以外の全ての人が偽セシルを忘れたとしても、ノーラが偽セシルと暮らした日々は確かにあったんだ。覚えているのが辛いなら忘れてしまうことを選択してもいい。だが、本当に偽セシルとすごした日々を愛おしいと感じているのならば、忘れてしまっても心に大きな穴が開いた感じが残るだろう。だったら、心の痛みの原因を覚えていた方がいい。偽者のセシルの記憶があった方が、そばにいない切なさを感じても偽セシルがいた頃の幸せを噛みしめることができる。……人を愛した記憶は尊い」
実感の籠もったオーレンハイム卿の言葉にノーラは静かに涙を流した。
「幸せは儚く消えていくのが私の人生だと心の奥でいつも不安でした。……違いますね。嘘で手に入れた幸せだからいつか消えてしまうことがわかっていました。……婚約者時代に私を守れなかった夫が結婚後全力で守ってくれていた時の幸福感に不安がなかったのです。危険な仕事をしていて殉職の可能性がいつも付きまとっていたのにもかかわらず、ささやかな幸せに包まれている居心地の良さがありました。……セシルとの暮らしはセシルを見ているだけで幸せでした。仕事中もふと部屋にセシルがいると思うだけで幸せでした。セシルがあの子を抱っこしてくれるだけで幸せでした。それでも、心の奥の深いところに言いようのない暗い、いけない思いがありました。このままセシルが何も思い出さなければいい……そう考えていました。そう考えてしまう自分を浅ましいと感じるより、嬉しいというか、得体の知れない喜びを感じていました」
本人は気付いていないが、ノーラの背徳感は邪神の欠片を保持しているから湧き出てきた感情なのじゃないかな?
兄貴とシロと魔獣たちに精霊言語で問いかけると、魔獣たちと犬型のシロが、乙女心がわかっていない!と即座に精霊言語で反論された。
「ノーラは偶々目撃した近所の人以外に偽セシルを紹介していないでしょう?何で今日カフェに連れてきたの?」
キュアがノーラの頭上で質問した。
弟さんがいることは聞いていたけれど会ったことはなかった、と三人娘たちも口々に言った。
「こんなによくしてもらっている仕事関係者の誰にも偽セシルを会わせなかったのは、無自覚に噓がばれないように隠していたのでしょう。あなたと似ていないから姉弟じゃないと勘繰られそうだし、それ以外にも、セシルがおぼえていなくても帝都にはセシルの知り合いがいるかもしれないから、街を散策するのは避けるでしょうねえ」
お婆も首を傾げた。
「……オーレンハイム卿夫人からいただいたチョコレートの欠片をセシルにあげた時とても素敵な笑顔になったから、セシルにチョコレートケーキを食べらさせられる貴重な機会だったので・・・・いえ、セシルとデートみたいなことをしたかったから……違います。夫人から今日のプレオープンに同伴者がいてもいいと許可をいただいた時に、どうしてもセシルを連れて行かなければいけないように感じたからです」
オーレンハイム卿の屋敷にいた精霊たちが、死んだはずの弟と暮らすノーラを不審に思い、ノーラの思考を誘導したのかもしれない。
シロと兄貴が頷いた。
「今となってはここに偽セシルを連れてこなかった方が良かったと思うかい?」
オーレンハイム卿の問いにノーラが答える前に、この亜空間にいる精霊たちにノーラの思考に干渉しないように精霊言語で命じた。
ノーラはノーラ自身で偽セシルとどう向き合うかを決める機会を上級精霊が用意したのだ。
精霊たちが干渉してはいけない。
「いいえ。後悔していません」
涙を拭ったノーラは真っすぐぼくを見上げた。
「カイルさんはうちの子と同じくらいの年で両親を殺害された現場にいたのです。セシルが覚えていないので数多くの方々を殺害した事実が、私にはなかったことになっていました。亡くなった方々は殺されたと言えません。それでも、私は知らなければいけなかったのです。……セシルは罪を償わなければいけないのです」
この人は自分の不幸に溺れたりしない芯の強さがある。
「ぼくはあなたが偽セシルを匿っていたことを責めません。偽セシルは市中に放ってはいけない人物だった。結果としてあなたが保護していたことで考えられ得る限りの最悪な事態になることが防げた」
「私が保護していた期間もセシルは人殺しをしていたのでしょうか?」
険しい顔でノーラが言った。
「おそらくそれはないでしょう。あなたがいない間、偽セシルは寝てばかりいたでしょう?」
兄貴がノーラに問うとノーラは頷いた。
寝ているだけ、という状況が実は偽セシルは自分がいない間に外出しており人知れず殺し屋の仕事をしていたのでは、とまだ疑っているのかノーラの眉間の皺が深くなった。
「絶対ないとは言い切れないけれど、あなたが帰宅して偽セシルを触って起こさなければセシルは本当に動けなかったと考えるのが妥当だから、あなたが保護している間のセシルは無害だったと思うわよ」
デイジーの言葉にノーラは胸をなでおろした。
穏やかな表情になったノーラはゆっくりと呼吸を整えるとまっすぐ前を見据えて言った。
「私はセシルを忘れないことを選びま……」
「ちょっと待った!上級精霊さん!!」
ぼくが立ち上がってノーラの言葉を遮ると、どうして?と驚いて全員がぼくを注視した。
「この後も、ぼくの偽セシルの記憶が消えないように一部の人は覚えているけれど、ノーラはこれから誰にも偽セシルの話ができなくなるんだ。だから、ノーラにとって偽セシルのお葬式になるように、あっ、偽セシルは死んでいないよ。とある亜空間に閉じ込められているだけだよ。今この亜空間にいる間、ジュンナさんやマリアやデイジーやココやヴィヴィやネネたちと偽セシルとの思い出話をたっぷりしてからお別れする方がいいと思うんだよね。その間にぼくたちがジェイ叔父さんやオーレンハイム卿やイシマールさんやウィルに事の顛末を話す時間にしたいんだ」
女性陣はノーラの聞き役になることを快く了承してくれた。
男性陣にディミトリーの詳細を伝えると、全員が頭を抱えた。
「つまり、邪神の欠片を分離することができたが、その王子に記憶が全くないことには変わりがないということなんだな」
オーレンハイム卿が深いため息をつきながら言うと、イシマールさんも頷きながら渋い顔で言った。
「教会都市の中に多数の邪心の欠片を保管している場所があるのか……」
「王子の誘拐に教会関係者が関与しているとは言い切れないのですよね」
「海を歩いて渡る魔法陣は非公開になっているので使用者が限られています。東方連合国の内情はわかりませんが、その魔法陣は東方連合国で管理しています。東方連合国に内部分裂の兆しがない状況では、新たな魔法陣が開発されていない限り、魔導師の関与が疑わしいから教会関係者でしょう」
ウィルとジェイ叔父さんは教会を強く疑った。
「取り敢えず上級精霊さんは、ぼくたちは魔法学校生活を楽しんだらいい、と言っていました」
「教会総本山には警戒しつつも何もできないのが現状だ。上級精霊様がおっしゃるように魔法学校生活を楽しもう」
オーレンハイム卿はぼくとウィルを見て明るい笑顔で言った。
アハハハハハ、その角度からイケメンを見るのは眼福よね、と女性陣から笑い声が聞こえた。
「私の葬式もこんな感じに皆に笑って見送られたいものだな……」
お婆の笑い声につられて振り返ったオーレンハイム卿はしみじみと言った。
お婆に笑顔で見送られて荼毘に付されたい、というのがオーレンハイム卿の本音だろう。
ノーラの話を聞くことはぼくたちにもディミトリーがどうやってノーラから魔力を得ていたのかという情報が探れて有意義だった。
思い出話を語り尽くしたノーラがぼくに、ありがとう、と言うとデイジーはディミトリーの伝言を思い出したようでハッとした。
デイジーはディミトリーそっくりに変身するとノーラの前で両膝をついてノーラの両手を取った。
「……ありがとう、さようなら……」
声までディミトリーそっくりに伝言を告げると、ノーラは悲しげに微笑んで頷いた。
「私はあなたを忘れない。だけど、もうあなたのことは誰にも話さない……」
ふわっと体が浮く感覚がして、ぼくたちは亜空間じゃない現実のカフェに戻っていた。




