記憶と罪
「昔の記憶がないのは変わらないのだけれど、他にもない記憶があることがわかった。ノーラに連れられて入ったカフェからここに移動した記憶がない」
それは上級精霊に亜空間に招待された時に魔力切れを起こしていたから意識がなくなっていたからだろう……。
あれ?
亜空間に転移される直前までノーラが腕を掴んでいたから、転移してすぐに魔力切れになっているなんておかしい。
兄貴とアネモネが顔を見合わせて、転移魔法ってわかる?とディミトリーに説明した。
魔獣たちも残念な子を見るようにディミトリーを見た。
ぼくは収納ポーチから魔石を一つ掴んでディミトリーに放り投げた。
意識がなかったディミトリーはただぶつけられていただけだったが、意識のあるディミトリーはぼくの投げつけた魔石を不意打ちにもかかわらず即座に反応して掴んだ。
ディミトリーが広げた掌の魔石はぼくの魔力に染まったまま綺麗な緑色だった。
ディミトリーに触れるだけで魔力が引き出されていたのに、ぼくの魔力が満ちたままの魔石を見た兄貴とアネモネと魔獣たちはディミトリーが普通の人間になったことを理解して安堵の息を吐いた。
これはディミトリーが勝手に他人の魔力を引き出すことはなくなった、といっていいのだろうか?
「覚えていないのはアネモネとジョシュアに向けて刀身を向けたことかな?」
「亜空間に飛ばされ意識がなかったにしても、いきなり魔術具の刀を抜くなんて気が触れた元軍人設定を演じたにしても、やり過ぎよね」
「邪神の欠片の影響力で記憶障害を起こしているのならノーラと暮らしている時も、意識がない、というか記憶がなくなったことがあったの?」
「ノーラのいない間に意識を失っていただけなら無害だろうけれど、あの刀を使用した記憶がないのなら、二年の間に殺人をやったかやってないかは有耶無耶なのね」
キュアもみぃちゃんもみぃちゃんのスライムもぼくのスライムも魔力を勝手に引き出さなくなったことではなく、ディミトリーの記憶がない間に彼が何かしでかしているのではないか?と訝しがった。
ディミトリーは魔獣たちの言葉を聞きながら胸の前に出した両掌をひらいてじっと見つめた。
記憶はなくとも掌に何かを握っていた感覚があるのだろう。
「ディミトリー王子。あなたは人殺しです。少なくても千人は殺害しているでしょう。あなたの罪は覚えていないでは済まないでしょう。ですが、あなたは将来一国の国家元首になり得る身分をお持ちの方です。戦争で失われる命は……」
「アネモネ。戦争を持ち出すな。国土や郷土を守るために死ぬことは尊く、暗殺の被害者は戦争を最小限にするために犠牲になった仕方ない死になる。突然、罪もないのに殺害されたことを最小限の被害だなんて言い方で正当化されてしまう。たとえ覚えていなくても起こした罪は消えない。ぼくは全体の被害が推定でしかない現状だから今すぐ厳罰に処すように求めていないだけだよ」
ぼくが口を挟むとアネモネは黙り込んだ。
「ぼくとあなたは今日初めて会ったわけではない。あの時のぼくはこのくらいの大きさでしかなかった」
ぼくは手で当時のぼくの背丈を示すと、ディミトリーは顔をしかめた。
「あなたは当時と年のころは変わらないように見えるけれど、魔力の多い人や精霊に付きまとわれている人は外見通りの年じゃない」
精霊に付きまとわれる、というところでシロがぼくを見上げたが、精霊使いが絶滅したと思われている状況で精霊や妖精と契約しているとは言えないじゃないか。
「私はノーラより年上ということなのか?」
ディミトリーはアネモネに問いかけた。
「ええ、そうです。ご両親やご兄弟にお会いになればわかりますよ。弟殿下は三児の父です。両陛下ももうかなりお年を召されました」
そう言うとアネモネは変装の魔法を解いて三歳児の姿になった。
「これが私の本来の姿です。ですが、ディミトリー王子よりずっと年上です。実際の年齢は百を過ぎてから数えていませんわ。この姿でディミトリー王子と面会したことはありません。王子の記憶を探り晒すのに私が偽りの姿ではどうかと考えたので変装を解きました」
小さくなって自分を見上げるアネモネに視線を合わせるようにディミトリーは両膝をついた。
「人には隠している部分が誰しもあります。私は幼い時に不老不死になったので、人より秘密が多いですね。東の魔女は複数人いますが、幼い姿のままなのは私だけです。私は嘘つきですが、嘘をつかなければ人と関わることができません。ですが、いまディミトリー王子に誠実であると誓いましょう。私の任務は生かしてディミトリー王子を国へ帰すことです」
ディミトリーは顎を引いてアネモネをじっと見た。
「記憶のない間の罪の如何を問わないということかい?」
「いいえ、祖国の記憶のないディミトリー王子にもまだ価値があるからです。直系子孫の存続のための子種の保持者としても砦を護る魔力供給者としても王族としてまだ価値がおありです」
美幼女の口から、子種の保持者、なんて単語が出てきたのでぼくたちはギョッとした。
事情をよく知っていても外見に惑わされるから、重要な話をするときは成人女性の姿の方がいいな。
「そうだね。記憶がないのに本能のように、国に帰るべきだ、という思いが湧いてくる」
「そういった教育をずっと受けていらしたからでしょう。やはり、完全に記憶がないとは言い切れないようですね。一族の教育を流出させないために、ディミトリー王子が帰国しないようでしたら私の任務内容は変わります」
「……私を殺すというのだね」
「邪神の欠片が関与しているので、本国に報告すると私の任務の内容が変わる可能性があるので、何とも言えません」
長く深い息を吐くと、ディミトリーは視線をアネモネからぼくに移した。
「ぼくはあなたを本国に返還したくない。記憶がなくてもあなたがしたことには責任がある。心神喪失で無罪とみることもできるけれど、それでも、あなたは邪神の欠片に体を侵食された経緯を解明することに協力すべきだ。それに、ノーラと暮らしていた期間の生活についても謎が多い。なぜ、他人から魔力を貰わなければ動くことができなかったのだろう?」
魔力を貰う?とディミトリーは首を傾げた。
どうやら本人にはノーラの魔力を奪っていた自覚がないようだ。
“……そこのところは仮説をいくつか立てることができる。だがその前に、邪神の欠片の回収を先にし……”
脳内に上級精霊の言葉が響くと、お茶会の亜空間にぼくたち全員が戻されていた。
テーブルの上に乗ったぼくのスライムが恭しく上級精霊に邪神の欠片を封じた魔術具の瓶を差し出した。
「よくやったな。見事な浄化の火炎魔法であった。ああ、キュアも頑張ったな」
上級精霊は褒美だというようにぼくたち全員に癒しの魔法をかけてくれた。
ぼくの魔獣たちが、ディミトリー!おまえもか!と目を見開いた。
「まだ死なせてはいけないからだよ。王家の指輪は没収させてもらう。これでおまえの王位継承権は喪失する。この指輪はとある王家の後継者候補に与えられる魔術具で、王位継承権を放棄しなければ死ぬまで外れない。生きている間は指も腕も切り落とせない。死なせずに外せたのは本人の意思があったからだ」
わざわざ用意した石鹸水は無駄だったのか。
「中央教会から水を汲んだのは正解だ。本来は指輪を外すための呪文があるのだが聖水が呪文の役割を果たし、本人の外したいという意志を確認した魔術具が作動した。」
聖水に効果があっただけで石鹸は無駄だったのか。
「聖水を使用するきっかけになったのだから無駄ではないよ。かの国は王家の指輪を一つ失ったとて、新たに作る技術は失われていない。新しいものを作ればよい」
「はい。私が技術を継承しております。仕上げは王家でするのですが、そちらも継承されております」
上級精霊とアネモネのやり取りを聞くと、ディミトリーは納得したように頷いた。
「私はその技術の幾つかを学んでいたので、帰国しない場合は生きていてはいけないのですね」
「ディミトリー王子は呪文をいくつか学習されております。たとえいま記憶がなくても国外に長期滞在することは通常であれば認められません。ディミトリー王子が初級魔法学校から帝国留学に向かうことになったのは、南方戦線の南東地域への戦渦の拡大を防ぐ外交上の意図がありました。王族外交で南東地域への侵略を支持する派閥を牽制する使命がありました」
ディミトリーが誘拐されたことで帝国軍の南東進行を阻止することができず、戦争の長期化にも繋がってしまったのか。
「私の誘拐で大きな被害が出たのですね」
戦争拡大の責務を当時七歳の少年が負うべきではない。
「そっちに罪の意識を負う必要はないよ。王族外交とはいっても王族の威光で帝国の上位貴族と本国の大人と顔つなぎする役割程度でしょう?七歳の少年に期待しすぎず、別の方法を用意していなかった大人が悪いよ」
無表情のディミトリーはじっとぼくを凝視した。
「記憶がなくても王族教育が滲み出ているよね。表情から内心を読み取られないようにするのはウィルに似ているもん」
ぼくのスライムがディミトリーの前に進み出るとしみじみとした口調で言った。
「思考回路も個人のことより国家の利について考えるから、千人切りの被害者のことより戦争拡大による東方連合国の被害に気を回しちゃうんだ」
「どっちの被害もディミトリーが関係しているけれど、直接的な加害行為は千人切りをしたことなのにね」
みぃちゃんとキュアが眉を寄せてディミトリーを見ながら言った。
「こいつを庇うつもりはないが、千人切り程度で済んだ、という見方もできる。邪気を全身にまといながら、瘴気を集める邪神の王にならず抑え込んだ精神力は見事だ。だが、そのせいで自我のない人形に成り果て皇帝の小間使いにされた失態の被害が大きかったのだろう」
上級精霊の仮説はディミトリーの意識がなかったのは、自分の魔力の全てを邪神の欠片を体内に押し留めることに費やしたからではないか、というものだった。




