あの人が来た……?!
スライムのおうちに戻ると幼児たちが帰りたくないと、泣いていた。
今日が楽しすぎて日常の孤児院に帰るのが辛くなっているようだ。
ぼくは屈んで三歳くらいの男の子の涙をぬぐうと、男の子はぼくの右腕をぎゅっと掴まえて、フルフルと首を横に振った。
もう会えないかもしれないと本気で思っている表情だった。
「いい子にしていたら、お兄ちゃんたちはまた遊びに来れるよ」
ぼくの言葉に孤児院の年長の子どもたちだけじゃなく、寄宿舎生たちも希望だけを持たせても、といった困惑した表情になった。
男の子が握りしめている右腕にそっと左手を添えて言った。
「約束する。また会えるよ。教会の中庭の一角に畑を作る許可をもらったんだ。手入れをするという名目で必ずまた来るよ」
スライムのおうちの中にいる全員が歓喜の声を上げた。
年長者たちが笑顔になったことでぼくの腕を掴んでいた男の子も顔をほころばせた。
みぃちゃんが足元にやって来てじっと見つめながら、また来るわ、と精霊言語で語り掛けるとハッとしたように目を見開いてみぃちゃんに抱きついた。
精霊言語を取得する素質は特別に与えられた能力ではなく、本当は誰にでもあるのかもしれない。
中庭の片付けがあらかた済むと、スライムのおうちは着陸した。
孤児院に戻る子どもたちもご機嫌な笑顔で帰り、寄宿舎生たちは夕方礼拝の準備に取り掛かり、教会はいつもの日常に戻った。
寮生たちは庭師と相談しながら花壇と庭木を移動して井戸を噴水に作り替えた。
寄宿舎や孤児院の食堂の職員が美味しい水を分けてほしい、と熱望したので水道を引く作業をしたところで夕方礼拝の時間になった。
ぼくたちは中庭で膝をつき両手を地面につけて神々に祈った。
教会の結界の中ではどこで祈っても神々に祈りが届きやすいので、ぼくたちは真剣にこの教会で暮らす子どもたちの健やかな成長と、もう誰も理不尽に苦しむことがないように祈った。
孤児院の建物がキラキラと光ったのは精霊たちが子どもたちを見守ってくれることを約束してくれたからだと、この時のぼくたちは考えていた。
アリスの馬車で中央広場の人込みを避けるために枝道に入ろうとした時、車窓から中央広場を見やったら、いるはずのない人の姿を見つけてハッとした。
ウィルと兄貴も気が付いてぼくたちは顔を見合わせた。
「「「オーレンハイム卿!!!」」」
群衆の中で山高帽を被ったオーレンハイム卿は、アリスの馬車に乗ったぼくたちが卿の存在に気が付いたことがわかったかのように帽子を取って手を振った。
「……オーレンハイム卿は帝都の転移屋の常連客で帝都の上位貴族とも親交のあるお方だけど……」
芸術家として帝都で名を馳せたオーレンハイム卿が高額な転移魔法の業者を使用してまで帝都にくるとしたら、絵画か彫刻の制作依頼を受けたか……。
“……ご主人さま。寮に帰ればわかります”
オーレンハイム卿が高額な転移魔法まで使って追いかけてくる人物に心当たりがあるが、その人は今頃ならば辺境伯領で三つ子たちと夕食を食べているはずだ。
オーレンハイム卿の存在に気付いたジェイ叔父さんが馬車の天井を仰ぎ見た。
「うちに上級魔法学校を卒業していないのにとても優秀な薬師がいたような気がする」
「女子生徒たちが帝都に到着するのは明後日の予定だったはずなのに、別行動で留学に来た成人の女性がいるかもしれませんね」
ウィルもとある可能性に気が付いたようだ。
兄貴は首を傾げながら頭を抱えている。
きっと太陽柱に突如現れたに違いない映像を見つけて困惑しているのだろう。
馬車は静かに寮へと走り続けた。
「お客様がおいでですよ。応接室に……と言いたかったのですが、オムライス祭りから戻られても育ち盛りのみなさんは後で小腹がすくでしょうから、と食堂で軽食を用意されています」
留守番をしていた寮監にそう言われて、ぼくとジェイ叔父さんと兄貴は小走りで食堂に向かった。
ウィルは家族の再会に気を利かせてゆっくり歩いている気配がする。
「あら、早かったのね。もう少し遅くなると思っていたので……もうちょっと待ってて……。あら、後はやっといてくれるの?ありがとう」
厨房の奥から懐かしい……いやっ、ちょっと前に会った、若返ったお婆の声がした。
「オムライスをたくさん食べてくるでしょうけれど、十代の子どもたちはすぐにお腹がすくでしょうからお稲荷さんを用意していたのよ」
ガンガイル王国から転移の魔法でやって来たであろうお婆は、今朝寮から見送ったかのような口調でエプロンを外しながら厨房から出てきた。
「かぁ……ジュンナさん!どうしてここにいるの!」
「みんな時間が来たらお腹がすくでしょうし、ここの食堂の職員さんたちも総出でお手伝いに行ったでしょうから、帰ってきてからちょっと摘まめるものを用意していたのよ。ほら、お稲荷さんよ。味見してみる?」
小皿に三つ載ったお稲荷さんを差し出して、お味噌汁もあるわよ、とお婆は見当違いなことを言った。
「どうして、帝国まで来たの!どうやって?」
「どうしてって、ジェイがやっと研究室から出てきたんだもの、どうしているかと気になってやきもきしていたら、オーレンハイム卿が転移屋さんに連絡をつけてくれたので帝都まで簡単に出て来れたわ」
毒にやられたわけではないが、毒を盛られて人間不信になったジェイ叔父さんが帝都に留まることを選択したから、大丈夫だろうか、と末の息子を心配するお婆にオーレンハイム卿が帝都旅行の手筈を整えたということか。
いくら高額とはいえ今のお婆はいっぱしの実業家で、転移魔法の代金を支払う余裕はいくらでもある。
帝国入国の代行手続きをオーレンハイム卿が請け負ったのだろう。
「気を揉ませたのは済まなかったけれど……帝都まで出てくることはなかっただろう」
落ちてこない仮面を押さえたジェイ叔父さんのおでこを軽くデコピンしたお婆が、フフフと鈴を転がすような声で笑った。
「驚かせたかったのが一番かしら。でも、カイルたちがあんまり驚いていないから、ちょっとがっかりよ」
客観的に見たらカップルみたいイチャイチャしているジェイ叔父さんとお婆を見ながら、お腹いっぱいなのにお稲荷さんの味見をしていたぼくと、ウィルにお稲荷さんを勧めた兄貴が淡々としていることを、お婆が残念がった。
「中央広場でオーレンハイム卿を見かけたから、転移屋さん経由でジュンナさんが寮に来ていると推測できたからね」
「そう言えば、オーレンハイム卿は光る教会を見に行くとおっしゃっていたわ。卿が転移屋さんを使う時は、たいがい私が絡んでいたからバレちゃったのね」
やれやれ、と肩を竦めたお婆に寮長が駆け寄り挨拶をした。
「はじめまして。寮長をしているオスカーと申します。ジェイさんの親戚のジュンナさんとお伺いしましたが、カイル君たちとも親しいのですね」
ぼくたちとお婆の間に割って入った寮長はなぜかお婆に近すぎる。
そうですね、と微笑みつつお婆はジェイ叔父さんの腕をとり、とっさに一歩下がった。
ますます二人はカップルに見える。
「薬師の弟子としてジェニエさんの自宅に滞在していますから、カイルやジョシュアとも親しくしております。ウィリアム様は辺境伯領にご旅行された時に自宅にいらしたことがあるうえ、私たちが王都に旅行をした際には邸宅にお招きいただいたこともあります。ラウンドール公爵夫人にはたいそうご贔屓にしていただいております」
「そうでしたか。ところでお二人はどういったご関係で?」
さらに一歩前に踏み出した寮長に、お婆はジェイ叔父さんの後ろに回りこんだ。
「「親戚です」」
二人が声を揃えて答えると、寮長はキョトンとした顔をした。
「さっき寮長が自分で言っていたではないですか。お二人は親戚ですよ。婚約者としてジェニエさんの家にいるわけではありませんよ」
ウィルが呆れたように寮長に言うと、そうなのか?と寮長が混乱を起こした。
食堂の椅子に腰かけてお婆のスライムが入れたお茶を飲んで落ち着いた寮長がお婆に謝罪した。
「いやいやいや、申し訳ない。十年も研究室に引き籠っていた女性嫌いなジェイさんがこんなに女性らしい豊かなたいけ……こんなにも綺麗な女性に全く抵抗感を示さずに、されるがままになっているから、てっきり将来を約束した仲なのかと勘違いしてしまいました」
お婆の豊かなお胸をチラッと見て視線を逸らせた寮長は、十年間引き籠っていた婚約者を心配してお婆が高額な転移魔法を使って会いに来たと勘違いしたようだ。
「寮長!平民でも豪商の家系でしたら政略結婚のように幼少期に婚約者を決められることがあるのかもしれませんが、十やそこらで婚約者がいる平民なんてそういませんよ」
ジェイ叔父さんの指摘に、それはそうだと寮長が頭を掻いた。
「それにしてもずいぶん親しいし、同じ家に住んで家業を手伝っていると聞けば、年の頃合いもちょうどいいから、てっきりそういう仲なのか思ってしまいますよ」
みぃちゃんとキュアとスライムたちはゲラゲラと笑っているが、お婆のスライムは気まずそうにしている寮長に稲荷ずしを勧めた。
「これは何だい?ああ、この甘じょっぱい味が堪らないな。この渋いお茶とよくあう。もう一つ貰っていいかな。おお、こっちは具が違うではないか!こっちもとても美味しいです。わざわざこのように珍しくて美味しいお料理を寮生たちのために作っていただきありがとうございます」
食堂のカウンターに山積みされた稲荷ずしを仕上げたのはお婆のスライムだった。
寮生たちは満腹にも拘らず、お揚げでご飯を包んだ寿司を初めて見る寮生も多く、その珍しさからつい手が伸びてしまうようで、食堂は七割がた席が埋まっていた。
ばつが悪そうだった寮長は話題を変えることができて嬉しそうだ。
「今回はジェイさんやカイル君の様子見と、観光が目的ですか」
「はいそうです。今回はジェイやカイルたちを驚かせようと企んで女子棟の三階に商会の方の名前で宿泊の予約をしていましたが、次回からはジュンナの名前で予約してから来ますわ」
「そうですか」
「また来る気なのか!」
寮長とジェイ叔父さんが同時に言った。
「今回は観光ですが、次回はギルドの許可が下りたら商業目的で参ります。化粧品の製造販売を目的としていますが、外国人が商売を始めるのは帝国では難しいので、代表を任せられる人物を探さなくてはいけませんの」
今回は観光と言いつつも商売の下見を兼ねているようだ。
「ジュンナさんも留学されればいいじゃないですか。そうすれば生徒の試作品販売ということで販売の許可は簡単に下りるでしょう?」
ウィルの意見にお婆が目をクリクリさせた。
驚いた様子が孫から見てもとても可愛い。
寮長はすっかりデレデレした顔になってしまっている。
「そんなに長い期間、辺境伯領の家を離れてはいられないだろう?」
仕事のことを心配したジェイ叔父さんが言うと、お婆は少し考えこんだ。
「……三つ子たちも手がかからなくなってきたし、仕事も私がいなければ回らないというわけではないけれど、もう一回学校に通うっていうことに抵抗があるのですよ」
もういい年だし、と付け加えたお婆は自分が若返っていることを忘れているのだろうか?




