川沿いの熊
「てめえらのせいで商売あがったりなのは俺の方だ。その喧嘩受けてやらぁ」
ずぶぬれになった宿屋の親父は、顔を真っ赤にしてがなり立てた。
一階の食堂の客から肉の焼けるいい匂いがするのに肉を提供できないなんてことがあるはずがない、と文句を言われたようだ。
「食堂の仕込みの量は決まっているんだ。お前さんたちが急に宿泊するからと言ったって、食事の用意ができないから炊事の許可を出しただけだ。こんな嫌がらせのような旨そうな煙を上げるなんて、金でもとらなきゃ我慢できんだろ!」
宿屋の親父の怒りはもっともだ。
さらに詳しく聞けば、今夜の食堂のメニューは豆のシチューとジャガイモのガレットで肉は申し訳程度にベーコンが入っているだけらしい。
長期滞在の客が、上客用に今まで肉を隠していたに違いない、慰謝料をよこせ、と難癖をつけているらしい。
「そういう事情は先に説明するべきですよ。食堂のお客様に幾つか商品を提供させていただけるのでしたら、わたくしどもも火気使用の追加料金をお支払いすることに意義申し立ては致しません」
ぼくたちは宿屋の親父が気の毒に思えたので、清掃魔法をかけて濡れた衣服を綺麗にした。
「あ、ありがとさん」
気軽に魔法を使ったことに宿屋の親父は動揺したが、すぐに感謝してくれた。
性格の悪い人ではなさそうだ。
「だ、だが、こんな食べ盛りの子どもたちがいて……食堂の客の分まで肉はないだろう?」
おお、ぼくたちの食欲を優先されてくれる。
良い人かも知れない。
「お客様に満足していただける量の肉はありませんが、肉の量が少なくてもお客様を満足させればいいのです」
「客はガラの悪い冒険者一行だ。ないならないで通して、少し金を握らせた方が事を荒立てずに済む」
宿屋の親父と商会の代表者の話を黙って聞いていたベンさんは、ガラの悪い冒険者と聞いて立ち上がった。
「そいつらは俺に任せとけ!」
ベンさんは胸を叩いて宿屋の親父に言った。
立ち上がったベンさんの体格を見て、宿屋の主人は破顔した。
「お……っ、ああ、あんたなら大丈夫だろう。何をいくらで売るんだい?」
こうして数量限定の焼肉丼の販売が決まった。
「なんだとぉ。何でこんなに一皿が高いんだよ」
「ガンガイル王国の厳選素材を使用した、俺様特製の焼肉丼だ。文句があるなら買わなければいい」
素材と味が良いものが高価なのは当たり前だろう、とベンさんが言った。
宿屋の主人が、おそらくベンさんの後ろから、そうだそうだ、と小声を出した。
弱そうなものに強く当たり、強そうな人にへこへこするただの小心者だったようだ。
「俺は二つもらう。旨そうな匂いじゃないか。早い者勝ちなら、買い占めてやりたいくらいだ」
駅弁売りのように大きな立ち売りの箱に載せた焼肉丼の香りに誘われた、おそらくベンさんのように体格の良さそうな低い渋い良い声の男が早速二つも購入した。
食堂に居た冒険者らしき八人ほどの男たちは、最初の男が購入すると、我先に二個、三個、と買い求める声が聞こえた。
ぼくたちは厩舎の前で発光するスライムたちの明かりを頼りに焼肉を楽しみながら、聴力強化で宿の食堂での様子を窺っていた。
「これは旨い!なんていい肉なんだ!!タレがまたいい。ああ、米が旨い。ああ、肉一枚でたっぷり米を食べるんだな……もうなくなった。もう一つ欲しい」
ふむふむ、これは予想通りの展開だ。
「これはお前たちがあんまり騒ぐから、宿の親父が俺たちに苦情を言ってきたので、急遽こさえたんだ。これ以上作らんぞ。匂いを嗅がして現物がないなら金を払えって脅しが、この国ではまかり通るのか?貴重な旅路の食糧を販売してやったんだ。肉が食いたきゃぁ、冒険者だったら自分で狩りでも何でもしてこい!」
ベンさんの剣幕に場の空気が凍り付いた。
「討伐対象の魔獣がいないのに、肉にありつけることなんてできるわけないだろ!」
最近は討伐依頼がほとんどない、これだから外国人は何もわかっていない、と冒険者たちは口々に言った。
討伐対象になる魔獣がいない、ということがこの世界の生態系がおかしなことになっているのに、それが当たり前すぎて疑問に思わない冒険者たちの態度に、ぼくたちはドン引きした。
枯れた森の麓の寂れた村や町。
草食魔獣は糧を求めて畑を荒らし、草食魔獣を探して肉食魔獣が近隣をうろつく。
これがあるべき生態系ではないのか?
魔獣たちはどこに行った?
七輪の上のお肉の脂が燃え盛る炭に落ちて黒い煙を出す。
風下に居て煙をもろに浴びた留学生が肉をひっくり返すが、ぼくたちの胸には言いようのない重苦しい現実が脳裏に浮かんだ。
害獣になるような魔獣たちはとっくに死霊系魔獣に取り込まれてしまったのかもしれない。
家畜を育てる牧草さえなく、魔獣たちも居ない状態で、終末の植物の種が発芽の準備している危機感は理解していたつもりだった。
討伐する魔獣がいなくなり冒険者の仕事がなくなっている。
魔獣たちは死霊系魔獣に取り込まれ、仕事がなくなった冒険者たちがより危険な仕事を引き受けようとすると……いずれ死霊系魔獣に遭遇してしまうだろう。
スライムたちが肉を網から下ろせというように留学生たちの箸を突いた。
おおっと、肉が焦げる。
美味しいものは美味しいうちにいただこう。
ぼくたちは肉をタレにつけて機械的に頬張りながら聞き耳を立てた。
「お前たちは何でこんなまともな肉にさえありつけないような町で、雁首揃えて威張り腐っているんだ」
ベンさんが煽ると冒険者たちがいきり立った。
「お前たちよそ者は、川沿いの熊の討伐依頼を知らないからそんなことが言えるんだ!」
ぼくたちは見てもいないのに、ベンさんと商会関係者が項垂れるのがわかった。
そんな熊はもう居ないだろう。
あの薄暮の時間に襲撃してきた死霊系魔獣の核になっていた魔獣は、食物連鎖の頂点に居た餓えた熊だったのか……。
でもあの死霊系魔獣に熊の特徴がはっきりと表れてはいなかった。
死霊系魔獣になった後、熊の形をとれるほどの魔力がなかったのだろう。
「……話にならない」
ベンさんの声はがっかりして力がなかった。
「あなた方はこの町に何日滞在していますか?」
感情を抑えた抑揚のない商会代表者の声にふつふつと湧き上がっている怒りが込められていることを、ぼくたちは感じた。
「もう10日になるかな」
「私たちは日没直前にこの町を訪れましたが七大神の祠も、土地神様の大地の神の祠も魔力奉納をいたしました。何も感じないのですか?」
商会の代表者の言葉に、はぁ、こいつは何を言っているんだ、というような反応しかなかった。
こいつらには何を言っても駄目だ、とでも言うかのようにベンさんがため息をついた。
「祠の魔力奉納って、毎日するもんじゃないでしょう?まして七大神の祠に土地神様まで魔力奉納をするなんて……」
宿屋の親父がそう言い終わる前に、どうしようもないやつらだと言いたげな商会関係者たちのため息が聞こえた。
「自分たちで自分たちの住む町を守る気概がなさすぎですね。私たちは今日は時間が遅いので諦めましたが、明日は教会でも魔力奉納をする予定です。私たちは自分たちが滞在するお礼と安全な旅を祈願して魔力奉納をするのです。住民たちが毎日魔力奉納に励むだけで町の結界がもっと強化されるのに、残念で仕方がないです」
「肉がないのは魔力奉納をしていないからだとでも言うのかよ!」
冒険者の言葉にベンさんも商会関係者も、当たり前だ、と言い返した。
「お前たちは本気で川沿いの熊とやらが、ここら辺りに居ると思っているのか?」
「ここを拠点にしているだけで、ちゃんと分散して捜索範囲を広げている」
「この種の採取以来を冒険者ギルドで見たことはありませんか」
商会の代表者が終末の種を見せたのだろう、知ってはいるが植物採取は専門じゃない、と冒険者たちは口々に言った。
「初級魔法学校からやり直せよ。熊を追いかけるなら、糞を調べて何をどこで食べたのかくらいは考えろ。こいつは、俺たちは終末の植物と呼んでいる。魔力が少なくなった土地に出現して発芽する時に残りわずかになった土地の魔力を吸いつくすかのように奪って発芽するんだ」
「そ、そんなものがあるのか!」
宿屋の親父が事態の深刻さに気が付いたようだ。
「これはこの町の周辺で採取したものです。こんなものが出現するような土地には、もう川沿いの熊はいないでしょうね」
「移動したか、餓死したか、いずれにしろこの痩せた土地では大型魔獣は生きられないだろうな」
商会の代表者の言葉を死霊系魔獣という言葉を出さずにベンさんが補足した。
「それじゃあ俺たちは無駄足だったということか」
「10日も滞在していたのなら、キッチリその分の魔力奉納をしたらいいでしょう。そうでなければあなた方はここで育った食物を食べて土地の魔力を奪ったのに、魔力を還さず立ち去ることになるのです」
「魔力奉納、魔力奉納ってうるさいな!飯を食うのは誰もがすることだ。いちいち魔力奉納なんてしていられるかよ。こっちは魔力を使って飯の種にしているんだ。祠なんかに奉納してしまったら魔獣と戦う魔力が無くなっちま……」
「ああ、わかった。それだから、お前たちは弱いんだ」
最初に焼肉丼を頼んだ渋いいい声の冒険者が仲間を制した。
「お前まで俺たちを馬鹿にするのか!」
「いや、馬鹿にしたんじゃない。事実を口にしたんだ。お前の腕にある肉は脂肪の塊か?お前が鍛えた筋肉だろう?お前が鍛えなければその筋肉はすぐ衰えてしまうだろう。魔力を出し惜しみするということは、お前の魔力量がその程度でしかないからだ。そして、自分の魔力量を見誤らないことは、冒険者として生きていくために必要なことだ。馬鹿にしているわけじゃない」
しびれるほどの良い声で、正論を淡々と告げた。
顔を見ていないけれどカッコいいに違いない。
「ちくしょう!パーティーは解散だ」
「川沿いの熊が居ないのだから、解散するのは当然だ。俺は熊の左手が欲しかっただけだ」
あれ?熊の手は右手の方が美味しくて高級食材になっているはずだよね?
左手の方が美味しいのか!?
“……一般的に美味いとされているのは右手だけれど、東方では、左利きの熊の左手が最高級品とされており、味はともかく希少品としての価値があるようだな”
希少品ということなら熊の胆のほうが、二本ある熊の手より希少な気がする。
「何を考え込んでいるの?」
口に入れたお肉を飲み込むのも忘れて、魔本と熊の話を精霊言語で会話をしていたぼくに、隣に座っていたウィルが尋ねた。
「ああ、たいしたことじゃないよ。熊の手は右と左で味が違うのかなって考えていただけだよ」
何だそんな事か、と留学生一行が笑った。
「熊の手は豚足と同じくらい美味しいよ」
辺境伯領出身者の言葉にウィルがギョッとした顔をした。
「……豚足も熊の手も食べたことがないなぁ」
ホルモンを口にしているのに足で驚くなんて、と呟いたウィルの言葉に、ケニーもロブも頷いた。
「今度、豚足の煮込みを作ろうよ。トロっとした食感でなかなか美味しいよ」
辺境伯領出身者が提案をしたが、豚足はいつもキュアが処理する時におやつのように先に食べてしまっている。
在庫があっただろうか?
「養豚でもしなければ帝国で肉を入手するのは難しそうだなぁ」
兄貴の言葉にみんながため息をついた。
ぼくたちの冷凍庫はぼくが補充をしているから問題ないが、ぼくたちだけで美味しいものを食べていると問題が起こる。
帝国の食糧事情を改善する気はないけれど、知り合った人たちが食べていける程度は改善してあげたい。
ぼくたちは養豚場を作るにはどうするかという会話をしながら、ベンさんたちが戻ってくるのを待った。




