変容した世界
ラインハルトは一度死んだ。しかし彼はそれに満足せず、主神の命を狙う。庇ったコトノ主が消滅させられ、そこからとめどなく水が溢れ出た。世界は悉く破壊され、主神は全て忘れよと願い、大いなる者は彼を管理者にすることでその願いを聞き届けた。
剣の仲間達は大樹を降りた。戦略的撤退だ。六神剣は失われ、切り札であるはずのアザレイも、ラインハルトの魔法で体がボロボロになっていた。
戦いの中でコトノ主が殺されて、ラインハルトの目論見は当初と違う手段でだが、達成されてしまった。ラインハルトはもう剣の仲間達に興味を示さなかった。しかし、アザレイが万全でなければ彼を斃すことは出来ない。彼の回復を待って、再び大樹を登ろうと、皆で決めた。
「プラズマイドが残っていれば医療モジュールが使えたんだがな…」
クリスが苦い顔で寝台のアザレイを見遣る。アザレイの治療は、今はサレイが付きっきりで行っていた。
「仕方ないですよ。六神剣も、シノ君も、雷様も。全部水が押し流してしまった。…それが運命です」
セルシアが剣の無くなったティルーンを抱えて爪弾く。音が出ない訳ではないが、やはり響かず、味気ない。
何かが足りない。
その気持ちは皆、心の何処かにある。
しかしそれは、自分の剣を失ったせいだと理屈付けていた。
「…今は、ラインハルトは海に夢中で私達のことはどうでもいいと思ってるみたいだったけど、きっと我に返ったら私達がまだ生きてることを不愉快に思う筈だわ。それまでに、対抗策を考えないとね…」
サンリアがアザレイの汗を拭きながら独り言の様に考えを口にする。
「サレイさんの力と、アザレイさんの獣。私の獣。玉犬の皆さん…ノノさんはもういらっしゃいませんが…まだ戦力はあります。大丈夫ですよ」
フィーネがサンリアの肩を抱く。
「そうだな、特にロロは体も大きいし、誰も載せなくていいからかなり戦える筈だ。アズにゃんが獣になればテテもか。シノは転移して戻って来ても良いはずなんだが…そう出来ないのは、もしかしたら、押し出されたどこかの次元に落ちてしまったのかもしれないな…」
「…最悪だが、実際有り得そうだよな。いやあ、運が悪かったなー!」
「それでも私達は止まる訳にはいかない。だろ?」
インカーとクリスが視線を交わす。
「勿論。彼奴の願いが代替わりか全人類滅亡かだってんなら、きっちり斃してやらないとな」
「代替わり…それで今度はアザレイが、神様になるのね…」
「何だ、サンちゃんまだ悩んでたのか?私達全員で決めただろ。皆で長生きしてみようぜって」
「そう…そうなんだけど…。何で私、あの時はあんなに潔く受け入れられたのかしら。自分でも不思議なの。」
「そりゃ、アザレイ君と一緒にいたかったからでしょう?」
セルシアに指摘されて、サンリアは頬を赤らめた。
「ち、違うわよ。私とアザレイはそんなんじゃないんだから…」
「……黙って寝ていれば、勝手なことを言う…。サンリアの好きな相手は俺じゃない……」
アザレイが小さく抗議する。
「へぇ、じゃあ誰なんです?」
「お生憎様!誰も居ないわよ!」
サンリアはいつもの様に鋭く突っ込んだが、突然胸が苦しくなった。心が違うと叫んでいた。何が違うと言うのだろう。自分の気持ちなのに、全然分からない。アザレイのことが、実は好きなのだろうか?
それも違う、と心は叫ぶ。
なら、夢の中で見た人物にでも、恋をしているのだろうか。
サンリアは目を閉じて想像する。どんな人だったかな。夢の内容なんてすぐ忘れちゃうからな。多分年上で…優しくて…気が利いてて…
え、違う?そうなの?うーん、そうだったかも。
年上で、優しくて、でも気は利かなくて、困った人。放っておけない感じかな。イケメン?うーん、別に顔は好みじゃなかった気がする…。少なくともセルシアタイプでもアザレイタイプでもなかったかな。どっちかっていうと、可愛い系?
そう言えば、アザレイの瞳は良いわよね。何となくドキドキする。夢の中の人に似てるのかも。でも、吊り目はちょっと違うかな。ん?これ私の好みに記憶を変えてない?まあ、私の夢なんだし別に良いんだけど…。
年上なのに、年上じゃないみたいな、放っておけない人。私からアプローチしないと、いつまでも気付いてくれない人。一緒に来て、って言いたかった人。言えなかった気がする。ううん、最後には言ったかな。でも多分、そこで夢が覚めたんだろう。だってそこから先の記憶、もう全然無いんだし。
もっとあの人に会いたいな。名前、何て言ってたかな。フィーネが名前ちゃんと言えなかったんだよね、確か。それで逆に仲良くなって、私が妬いちゃって…。…我ながら生々しい夢ね…夢なんだから、全部思い通りになればいいのに。
リ、ルレイ、レィーオン…リオン。
そうだ、レオンだ。あの人の名前。レオンだった。
サンリアの両目から、涙が溢れ出た。
馬鹿ね、私。夢に泣くほど固執するなんて。虚しいだけじゃない……
レオンは大樹の梢に腰掛けて只管海を眺めていた。
自分が長命種になった、という実感はない。
ただ、不思議と今は心が凪いでいた。
もう誰も、俺を覚えていない。
この大樹の梢が居場所。
誰とも会わない。
…平和だ。
元の世界に居場所も役割も何も無かった俺は、突然剣の仲間、光の剣の主という役割を押し付けられて、それに見合おうと自分なりに頑張り続けてきた。でもやっぱり、上手くは行かなかった。
失望させるくらいなら、それを取り繕うように腫れ物に触る扱いをされるくらいなら、何とか励まそうとして貰うくらいなら、元の居場所の無い自分に戻った方がマシだった。
ここで一人で居れば、誰も俺を責めないし、俺は俺で、海も良いもんだよなと自分を誤魔化しておけば気楽な感じで過ごしていける。
森も好きだったけど、海も好きだったし。
そのうち眺めるのに飽きたら、この終の剣を使って、好きに土地を創ればいい。何でもありの剣と、何でもありの体になったのだ。
うん、やっぱり中々、楽しそうじゃないか。
この体になってから、お腹も空かなくなった。助かったな、とレオンは思う。ご飯を独りで食べるの、辛いからな…
…あ、また来たな、とレオンは察知した。時折こうやって、短命種だった頃の自分の弱さがぶり返す。無性に寂しくなって、苦しくなって、八つ当たりしたくなる。そういう時は、息を殺してじっと蹲る。俺はもう大丈夫、俺はもう辛くない。誰も俺を知らない、誰も俺を求めない、俺は誰からも自由だ。
ラストリゾートを手に取る。ほら、俺なりに頑張った証だ。ここにちゃんとある。何故かもう、真っ黒に染まってしまったけれど。何でだろうなぁ、ベースは純白のグラードシャインだった筈なんだけどなぁ。
もしかして、俺の嫌な記憶と感情を、今でもずっと吸い続けているんだろうか。だからこんなに黒くなってしまったんだろうか。シオンもついでに死んどけよと思ったのが決め手だったかもしれない。今となっては如何でもいいが。だって、俺の知ってる皆、どうせすぐ死ぬし。
そう言えば、とレオンは思い当たる。一人だけ死なない奴がいたっけ。
「…ラインハルト」
「お呼びで?」
レオンは吃驚して危うく座っていた枝から落ちるところだった。
「な、何でそこにいるんだよ…」
「主神様に呼ばれたので、転移で馳せ参じた訳ですが」
「あ、そ……」
レオンは枝に座り直し、ラインハルトの方を向く。
「………」
「………」
「……………ま、座れば?」
「失礼します」
ラインハルトは美しい所作でふわりと枝に腰掛けた。綺麗で良いなぁ、とレオンは思った。
「……私の記憶が、無いのが残念なのですが。私が管理者から降ろされたということは、私は貴方に負けたのですか」
「一度だけだけどね」
「やはり。記憶を奪ったのは貴方ですか?」
「俺が奪った訳じゃない。けど……皆に、俺のことを忘れてほしいと願ったのは本当だ」
「なるほど、それで…。納得がいきました」
「……嫌じゃないのか?」
「どうしてですか?」
「勝手に記憶を変えられて、忘れさせられて、嫌じゃないか?」
「今更気になりませんね。貴方昔からそうだったじゃないですか…」
あれ?とラインハルトが声を上げる。
「主神様?私、やはり遥か昔、貴方にお仕えしていた気がするんです」
「ああ、多分それ、俺の転生前の話じゃないかな。最期はお前に管理者を譲って死んだって、サレイ…リンから聞いたぞ」
「そうか…。それで今度は、私を救って下さったんですね。やはり貴方は主神様だ…再びお会いできるなんて。しかも、こんなにお元気な状態で」
ラインハルトはレオンの手を取り、はらはらと涙を流した。
「もう二度と、私を見放さないで下さいませ。私なりに、かつての貴方と同じ位の齢を重ねました。今ならば分かります、かつての私が如何に道理も弁えぬ無知蒙昧であったか…。同じ過ちは繰り返しません。私は…そう、貴方がかつて私に仰った様に。私は、長いこと、ただ貴方を待っていたのです」