母の家
いざ樹上都市イグラスへ。アザレイはレオンの念写術で拠点となるサレイ邸を示し、一行を先導して飛翔し始めた。道中、レオンはアザレイと母について話をする。母はレオンを待っていると言われ、色々思うところはあるが、この旅は母がくれたものなのだから、感謝を述べたいとレオンは思うのだった。
かつてレオンが雷様の雲を初めて見つけた時、遥か遠くにあったその大樹は、今や眼前に聳え立っていた。遠近感がおかしくなるほどの巨きさ。既にぶつかりそうなくらい近くに見えるのに、飛んでも飛んでも辿り着かない。日が出ているのに辺りが暗いのは大樹が影を落とすからだった。夜の民の名前は、その暗い生活に由来している。
「うう、寒いです…!」
フィーネがミミにぎゅっと抱き着く。冬空を風除けも何もなく全速力で飛んでいるのだ。実はある程度体内のナノマシンが体温を調節してくれているのだが、寒いものは寒かった。
「ああそっか、皆にも分けたげる」
サンリアが手を翳すと、フィーネの周りの空気がとろんと淀んだ。風が吹きつけなくなるだけで全然違う。
「サンリアさん、ありがとうございます。これって、皆が離れてからも続きますか?」
「んー、あんまり離れ過ぎなければ、かな?」
「…ちょっとだけ距離取って付いていきます…!」
「僕も…」
「俺はブーストかけるから大丈夫だよー、遠いとこ担当するねー」
「私も熱で調節できるから大丈夫だ」
「俺は慣れている、問題無い」
「慣れてるって問題なのかこれ…俺もサンリアの右側貰う…」
「お前はそれだけ魔力があるのだから魔法を使える様になるべきだ」
「え?俺魔力そんなにあんの?」
レオンがびっくりしてアザレイに問う。
「え?リオンさん魔力多いですよ?ご存知無かったんですか?」
「フィーネにも分かるのか!?」
「はい、知覚の仕方は人それぞれらしいですが…。私は目に見えますね。匂いとか、気配とか、魔力の出す音が聞こえるなんて人もいます」
「音ですか、それは聞いてみたいなぁ!」
自身の世界でも余り魔法が広まっていなかったセルシアが目を輝かせる。
「シャカシャカざあざあと五月蝿いだけだ。普段は気にしない様に無視している」
「なんと、アズにゃんは聞こえるタイプなんですね…」
「その呼び方を止めろ。野郎に言われるとゾワッとする」
「ちょっと聴覚お借りします…ぎゃっ、これは凄いな…」
セルシアは聞く耳持たずにアザレイから耳を借りた。まず最初に聞こえるのは大樹の魔力が雨の様に降り注ぐ音。梢の方から何かが轟く様な低い音もする。シュワシュワとそよ風が木々を撫でる様な音が耳元で鳴るのはセルシア自身の魔力だろうか。レオンからは鼓動の音に合わせてざあっと勢い良く水が流れる様な音がする。フィーネからは水音に混じって水車が回る音。サンリアからはひゅう、ひゅうと鼓動に合わせた風の音がする。
「うわぁ…楽しい…!世界はまだこんなに僕の知らない音で満ち溢れていたんですね…!ちょっとこれから時折聴かせてもらっても良いですか」
「…集中したい時や会話中でなければ構わんが」
「ありがとうございます。僕もこれ自分で聴けるようにならないかな…」
「モジュール弄ればなるかもね?ちょっと僕が今度研究してみようか」
「…リノさん、本当に突然出てきますね…でも楽しみにしてます」
クリスが普段浮かべない様な薄っすらとした笑顔を見せたので、アザレイは若干気味悪そうに彼を見た。
「ああ、アザレイ君は初めましてだね。僕はクリスの中の別人格ってやつだよ。リノと言う。本名はリノ・カミナリノだけど訳あってリノ・ライノと名乗っているんだ。クリスが雷の呼びに反発してたのはそういう理由」
「……了解した」
「そういえばこれから抉られた目を治療しに行くんだっけ。それじゃあ僕の出番になるな…。こいつは、クリスは痛ましい傷がトラウマなんだよね。戦いの最中は意識的にその辺遮断してるけど、施術中はそういう訳にもいかない。まあ、それは僕のせいだから僕が責任取って施術するよ」
「…宜しく…、お前の状態でもプラズマイドは使えるのか」
「ん?うん、問題無いね。僕は飽くまでクリスの一部だから。」
リノモジュールの答えに納得したのか、アザレイは無言で軽く頷くと前を向いてしまった。
「そういえばセルシアさん、患者は君の叔父さんなんだっけ?一からの再建手術は時間がかかるから、君の目を半分ずつ貰ってもいい?」
「えっ…!?」
「両眼を半分ずつ切り取って、患者に移植する。そうすれば、君の眼は割とすぐ治るし、患者の眼も定着したらすぐ治るんだ。多能性幹細胞を育てるより手っ取り早いし、早めに視力も戻る」
「…すぐってどれ位ですか?」
「まあ、半分無くなりはするから、四時間位かな。夕方に始めても一晩経たずに元通りだよ」
「……分かりました。提供します」
セルシアは悲壮な覚悟といった顔で頷いた。自分の目が切り取られるなど、聞いているレオンですら臓腑が冷える様な話だった。
森が開けた。ついにイグラスの世界に入ったということだ。
大樹はいよいよ間近になり、眼前一杯にその堂々たる幹を晒している。幹の横幅の端が霞んで見えないなど誰が想像できただろうか。
「大樹に惑わされると自分が大したスピードで移動していない錯覚に陥るが、嘘だ。正面ではなく眼下の街並みを見て速度と位置を判断しろ。ではこれより散開、目的地は幹を少し登った水色の館」
アザレイが新米竜騎士に指導する様に皆に指示を出す。玉犬同士がすうと離れていく。
「〈音無〉」
「〈光学迷彩〉」
アザレイの隠蔽魔法に、セルシアとレオンも知覚妨害を重ねがけする。どれ程美しかろうと、ここは敵地。自分達は招かれざる侵入者だ。
『母上、剣の仲間を連れて戻った。七名だが今から向かって宜しいか』
『あらあら、アザレイちゃんがこんなに沢山お友達を連れて帰ってくるなんて初めて!今夜は奮発しちゃうわね!…ええと、勿論大丈夫よ。ダイスモン卿に依頼して、ディゾール君はうちで匿っているわ。ガンホム君もダイスモン卿から事情を聞いて病院から抜け出してきちゃったみたい。既に中々賑やかよ?』
『あいつ…本当に仕方のない奴だ……。まあ、ディゾールには良い気晴らしになるだろう』
アザレイは無意識に微笑みながら、イグラスの街上空を飛翔していた。一晩経っただけでは地上の警戒はまだ解かれていなかったが、看破鏡で空を睨む兵士は見える範囲には居ない。中々重い上に貴重品なので、騎竜や大鷲の数を検め終えると、空からの脱出は無いと判断し除外したのだろう。しかし母の館は必ず包囲されている筈だ。母はただの兵士に突入などさせてやらないだろうが、到着したらなるべくそっと庭に降りろ、と全員に念話を飛ばした。
テテがサレイ邸の庭に舞い降りる。数歩歩いて狼に戻り、早速犬小屋に入った。余程のお気に入りらしい。
「あっお兄ちゃん帰ってきた!ママー!アザレイお兄ちゃん帰ってきたよー!」
カレンが大声で母を呼びに行く。箱庭の術が掛かっているとはいえ、あまり騒いで欲しくないのだが、妹に甘いアザレイは少し眉を顰めただけで何も言わなかった。
次いでセルシアのクク、サンリアのリリ、レオンのロロ、フィーネのミミが到着する。玉犬達はテテの犬小屋を見て驚き、デカい図体でわんわんとはしゃいでいた。
インカーのモモ、クリスのココも到着した。やはり犬小屋のエリアに吸い込まれていく。そんなに良いものだろうか、とアザレイは面白がりつつ、悪い気はしなかった。
「良かった、全員無事ね」
サンリアが確認する。
「ではクリス、セルシア、宜しく頼む。他の皆もまず家主…母に会わせるから付いてきてほしい。…ああいや、お前達は庭で遊んでいてくれ、待て、デカ過ぎて無理だって、やめろ、入らないから!」
サレイ邸の中は木造、華やかな模様や装飾を随所に用いているが落ち着いた色調の空間で、レオンの世界ではシフィデルマイエル式と呼ばれる様式に近かったが、当のレオンはそんな名前など勿論知らない。綺麗でお洒落な家だなぁと見回していた。
そこに、黒髪の女主人が姿を見せた。
「いらっしゃい、剣の仲間の皆様方、ようこそ私の家へ。お帰り、アザレイ。…お帰り、レオン」
「サレイ母さん…」
レオンは胸が一杯になった。顔がくしゃくしゃと歪む。
「…母上。先に上がらせてもらう。ディゾールは何処だ?」
「彼なら西の応接間に。早く行ってあげて」
アザレイは頷くと、クリスとセルシアを見た。二人も頷き、サレイに軽く会釈をすると、アザレイの後を追って廊下に駆け出した。
「カレン、いらっしゃい。レオンお兄ちゃんですよ」
サレイが振り返り二階に声を掛ける。トタタと軽い足音がしたかと思うと、小さな少女が飛び降りてきた。狐色のポニーテールが揺れる。
「こらカレン、ちゃんと階段を使いなさいって…」
「レオンお兄ちゃん!会いたかったー!」
カレンはサレイの小言を無視してレオンに抱き着いた。
「おっ…と、初めまして、カレン。俺がレオンだ。…そうか、お前が…父さんとサレイ母さんの…俺の…」
レオンは胸がつかえて言葉にならなかった。
「カレン、今テテちゃんも兄弟連れて庭に帰ってきているわ。良かったら遊んでらっしゃい」
「あ、じゃあ私も行くよ。初めまして、カレンちゃん。私はインカー、テテ達のお世話係だ。一緒に遊ぼう」
「やったー!!」