全て砂に還れ
砂漠世界にイグラスが侵攻してきたと報告を受けた剣の仲間達は、急遽戦いに赴く。決戦前夜、セルシアの兄ヨナリアが夜営地に会いに来た。再会を喜んだのも束の間、実は彼はアザレイと共にセルシアを仲違いさせるために来ていた。まんまと嵌められたセルシアは〈死の首輪〉を付けられイグラス軍に連れて行かれてしまった!
クリスが眠ってしまったインカーを抱きかかえてキャンプに到着した頃には、辺りはすっかり冷えていた。気温もだが、いつもの歌声や、明るい笑いが無い。セルシアならば、近くに敵がいる時こそ、音を遮断しつつ堂々と歌うものだが。
「…おい、セルはどうしたよ」
「クリスさん……私……」
フィーネが泣き崩れる。只事ではなかった。サンリアがフィーネの背中をさすりながら説明する。
「…セルシアのお兄さんって名乗る人が来たのよ。水の都の戦いで、敵側にいたのですって。セルシアはその人と内通してて…私達を助ける為に、コトノ主様を…イグラスに売っていたの」
「……マジか」
クリスは絶句した。
「で、フィーネが混乱しちゃって。セルシアを殺して私も死ぬ!って…セルシアはお兄さんに斬りかかって、アザレイに落とされて敵陣に連れて行かれちゃったみたい」
サンリアの説明は、彼女も疲弊しているのかいつもより分かりづらかったが、クリスにも何となく状況は掴めた。
「…俺のせい、だ。俺があの時、アザレイの魔法を食らわなけりゃ…俺がピンチになってなけりゃ、セルシアが俺を優先することもなかった」
レオンも苦しそうな顔をしている。クリスは、この中で自分が今一番年上であることに気付いた。頼れるセルシアは、もう居ない。
「…一旦、気持ちのことは保留にしよう。気になったことを聞いていいか?逆上していたとしてもセルだ。どうやって落とされた?」
「ええと…〈死の首輪〉って言ってたかしら。何かが首に填まったみたいで、その瞬間力が吸われた様に倒れ込んだの」
「なるほど…死の剣の力か。お前等にはそれを使ってこなかったんだな?…なら、発動に条件がある…?余所見しているとか、一度に一つしか使えないとか…」
「余所見なら俺達もしてた、フィーネとセルシアが大変だったんだ」
「そうか。なら、一度に一つしか使えないのかもな。他の者に死の首輪を使うなら、セルは解放されるかもしれない。例えば…炎の神」
「クリス!今度はシノちゃんを売るの!?」
「待てって。そんなことはさせねーよ?ただ、向こうがその気なら、どこかのタイミングでセルは解放されるだろうって話さ。シノが捕まる直前だったとしても、必ず先にセルが解放される」
「その時に助ければ良いんだな!」
「ああ、理屈ではそうだ。…だが、あいつが帰ってくるかは…」
クリスがレオンに頷いた後、フィーネを見遣る。フィーネは力なく首を横に振った。
「…私がいる限り、セルシアさんは帰ってこないでしょう。私は…彼を、彼の心を傷つけてしまいました。彼を許せなかった、彼を信じられなかった、彼を……助けられなかった」
「フィーネ…仕方ないわよ。フィーネにとってコトノ主様は神様で、親で、主で、伴侶なんでしょ。そんな存在を仲間の為に売られたら、そりゃ心なんかバラバラになっちゃうわよ」
「サンリアさん…!」
フィーネはサンリアに抱き着いて泣き続けた。セルシアがもういないので、大声をあげこそしなかったが、水の巫女の涙は止まるところを知らなかった。
「セルシアさんのこと…私、本当に好きだったんです。強くて素敵で…優しくて…楽しくて…よく気にかけて下さって…子供っぽいところもあって…。主様という決められたお相手がいたとしても、恋くらいはしていいと思ってました。まさかこんな…こんな思いをするなんて……」
両手に顔を埋めて、フィーネの声は今にも消え入りそうだった。サンリアが背中をさする。クリスは傍に屈み込み、フィーネの頭を優しく撫でた。
「フィーネちゃん。俺、女の子の涙に弱いんだよねー。うーん、よし。今からレオンと二人で、あいつを取り返してくればいいかな?」
「クリスさん…!?」
ぱっとフィーネが顔を上げる。しかし少し目を泳がせて悩んだ後、何かの歯車がカチリと噛み合ったらしい。彼女は決意の表情で、今度は力強く首を横に振った。
「いえ……駄目です。やっぱりまだ、許せないんです。
あの人、きっと暫く酷い目に遭うと思います…落ち込みもすると思います。でも、きっと死にません。だって私がまだ許してないんですから。
…私達を騙していた、いえ、私達に黙っていた罰をしっかり受けてもらいます。勝手に相談もなく自分独りで背負うって決めた罰です。…口に出したら何だかどんどん腹が立ってきました!許せないですよ!
…そして、ちゃんと生き延びて、独りで勝手に脱出してもらいます。そこまで独りで全部出来たら私も許してあげます。私達はシノさんを、この国を優先しましょう。よーし!おじいさん!今のぜーんぶ、セルシアさんに伝えてきて下さい!さっさと帰ってきなさいって、貴方の大事な人が怒ってたって!」
突然名指しされたじーちゃんは慌てて羽ばたき、空高く舞い上がった。
オルファリコンも持たないセルシアは、鳥籠にも入れられず、ただ首輪と手足の拘束具をつけられて荷車の中に転がされていた。
自分が情けない。最善と思った行動を取ってきただけなのに、これほど後で打ちひしがれるとは思っていなかった。半狂乱のフィーネの声がいつまでも頭の中に響いている。自嘲の歌を歌う気力も無かった。首輪のせいだろうか。腹と喉に力が入らない。
フィーネは、確かに不思議な少女だったが、そこまで失くして惜しい存在ではない筈だった。ずっと探していたヨナリアの方が、よっぽど大事な筈だったのだ。それなのに、気付けば兄に剣を抜いていた。あの場で禍根を断つ覚悟だった。兄はどう思っただろうか。少なくとも、自分がずっと兄を探し求めていたのだとは、信じてくれないだろう。
「…セルシア。飯、食うか?」
念ずれば通ず。兄が幌の口を開けて入ってきた。片手に温かそうな饅頭を手にしている。セルシアは顔も動かさず、左目で兄を睨んだ。
「…ヨナリア。僕を嵌めたのか。あの場にあの男がいたということは、最初からこうするつもりだったのか」
「……セルシア、饅頭が冷めちまうぞ。食わないのか」
「答えろ」
「…俺は、お前に会いたかっただけだ」
「じゃあ、あいつが全部仕組んだのか」
「お前をダシに使ってしまって、済まない。だが剣の仲間の戦力を分散させる方法としては一番効果的だった」
「効果的なものか。埋めたり毒流したりいくらでもあっただろう」
「お前等、毒では死ななくなってるだろ。空の神から聞いているぞ。埋めるのも無意味だ。仲間割れが一番効果的なんだよ」
「……最悪だ。最悪の発想だよ」
セルシアは兄を睨むのに疲れたか、顔を顰めたまま目を閉じた。
「そんなに、大事な仲間だったか」
「…ああ」
「俺よりもか」
「……。僕が音の剣を取ったのは、ヨナリアに会うためだ。そんだけ兄さんのことは大事だ。でも…あの時は違った。兄と名乗るこの男をたたっ斬って自分の立場を守りたいと思った。」
「そうか…楽しい旅だったんだな」
「過去形で言うな…いや、そうか。そうだな。楽しい旅だったんだ…」
セルシアが静かに涙を溢した。兄は優しくその涙を拭いてやった。
「なんだ、まだ泣き虫のままか?ほら、饅頭食え。」
「食えない。首輪のせいで力が入らない」
「何とまあ…コトノ主様は首輪が填まってもピンピンしてたのに、人間だとこうなるのか。分かった、団長に言って解除して貰って来てやる。お前が死ぬのは嫌だからな」
そう言うと兄は幌の外へ出て行き、暫くするとセルシアの首輪がすうと消えた。セルシアは上体を起こし、じっと兄の帰りを待った。
「ただいま…お、ちゃんと消えてるな。良かった。ほら、水も貰ってきてやった。久しぶりにお前の歌も聴きたいから…いや、今はそんな気分じゃないか…すまん。とりあえず飯にしろ。ほら、あーん」
セルシアは差し出された饅頭と兄の顔を見て、思わず苦笑した。
「なんか、思い出すよ。僕が寝込んだ時に、兄さん慣れないパンらしきもの作ってくれたよね。あーんって食べさせてくれて、あんまり不味くて気持ち悪すぎて、全部戻した」
「…何でそんなエピソード覚えてんだよ」
「嬉しかったからだよ。その後メーおじが作り直してくれてさ。その時作り方を見てたから、暫く兄さんの得意料理になったじゃないか。というかそれしか作れなかったんだろうけど」
「はあ?そうだっけ?俺は常に完璧な兄だったつもりなんだが。いや、それより食えってば。完全に冷めるぞ」
「食べ辛い。千切って」
「こいつぅ…」
弟に笑顔が戻ったので、兄も嬉しそうに饅頭を千切って口に運んでやった。
「悪くないね。これ、イグラスの料理?」
「そうだ。俺は輜重兵の中隊長なんだ。運ぶ飯には気を遣ってるのさ」
「…竜騎士降ろされたの?」
「違うわ!兼務なんだよ、け・ん・む!」
「へぇー、そういう仕組みなんだ…。いけないな、つい好奇心が先に出ちゃう。あんま聞いてると兄さんに迷惑が掛かるのに」
「そういや、こういう話はペラペラ言わない方が良いのか…。息子には言わないのに、お前だとつい昔の癖が出るな」
「ええっ!ヨナリア子供いるの!?」
どうだ驚いただろう、と兄はニヤリと笑った。
「いるぞ。ウルスラってんだ。俺はイグラス風の名前に変えたが、子供はルグリアでもイグラスでも通用する名前をと思って考えたんだ」
「名前…ディゾール、だっけ」
「お前にそう呼ばれると、なんかむず痒いな」
「奇遇だね、僕も違和感しかなかった。でも、そうか…もう十二年、兄さんはイグラスの人間やってるんだな…。ルグリアに連れて帰りたいと思ってたけど、もう無理、かな…」
「…お前がこっちの人間になればいいさ。そうだ、俺の子も音の民なんだ。お前が来てくれれば、良い師匠になりそうだ」
「いやそれは…でも、そうか。オルファリコンはあそこに落としてきてしまった。僕はもう一介の吟遊詩人か」
セルシアの胸が痛む。兄に会う為に掴んだ運命。それならば、ここで終わるのも仕方ないことかもしれない。兄は明るく頷いた。
「そうだ。音の剣は無くても、お前には歌がある。楽器は何が得意になった?ティルーンを背負っていたが、置いてきただろう。あれをイグラスで一から作るのは無理だ。他には何かあるか?」
「うーん、まあ、弦楽器なら何でも出来るんじゃないかな。撥も弓も使えるよ。笛はミリヤラの方が得意だけど」
「良いね、それなら調達も簡単そうだ…」
嬉しそうに笑う兄を見て、セルシアはふと真顔になって尋ねた。
「…ヨナリア。……あいつらを裏切れ、とは言わないの」
「……出来るのか」
ディゾールから笑顔が掻き消えた。慎重に弟の顔を観察する。
「僕は…取り返しのつかないことをした。もうあの子の…彼女達の元には戻れないだろう。それならいっそ、もっと兄さんの役に立っても、いい」
「お前は……いや、分かった。考えておく…」
ディゾールは溜息をついた。いっそ戦いから逃げたいと弟が言い出してくれれば良かった。あくまでこの戦いに首を突っ込むなら、裏切り者は再び裏切り者になる可能性がある。そんな危険因子を、自分の傍に置いておく訳にはいかなかった。
セルシアがするりと歌いだした。
夜更けに……思いを馳せる
置いてきた者 捨ててきた過去
砂の大地に 埋もれゆく今日
明日の光は まだ、遠く
ただ、遠く 夢は届かない
昨日抱いたあの子の名前を思い出せない
昨日買ったあの土産を落としてきてしまった
全て 全て砂に還った……
夕日に……思いを託す
どうか今夜は 夢も見ないで
砂の大地に 埋もれて寝たい
明日の光は ただ、痛く
まだ、痛く 僕を焼き焦がす
昨日知った痛みだけをただ抱えて眠る
昨日知った夢の在り処にはもう期待しない
全て 全て砂に還れと……
今はこんな切ない歌しか歌ってくれないか。ディゾールはそっと弟の頭を撫でた。弟が彼に肩を預けてくる。今晩くらいは優しい夢を見せてやろう。
明日からは、戦争なのだ。