牙を研ぐ者達
アザレイは王女の期待に応えることが出来なかった。逃げ帰るように兵舎に戻ると、気のおけない部下達が彼を迎えてくれる。そして彼等は、音の剣の主セルシアを離反させる計画を練るのだった。
コトノ主は大樹を登っていた。本体は〈死の首輪〉をつけられ王宮で飼われているが、半分までならば外に出せる。自身を作った夜の神に会う。実に二千年ぶりのことだった。
「……君か、ヌィワ」
懐かしい名前で呼ばれ、コトノ主は樹上を仰いだ。
『お父様……』
大樹の梢に座していたのは新月の晩の様に艶めく長い髪と、黒曜石よりも深い闇を湛える瞳、血の通わぬ大理石の肌を漆黒のローブで包んだ、人の形を取る美しき夜の化身であった。
「何それ。私は君の父親じゃないよ。君の親は一人だけだろう」
『いえ、それでも、私を今の形に作り変えた貴方は、お父様ですわ』
「なら私の意見も聞きなさい。ラインハルトと呼びなさい。…久しぶりだね、折角ここまで来たのだからこのまま我が館に招こう」
『ありがとうございます。光栄ですわ』
ラインハルトはその返答を確認すると、人差し指をついと動かした。するとコトノ主の目の前の空間がホログラムを解いた様に揺れて、白い洋館が現れた。彼女の前に門があり、先程までラインハルトが座していた位置は、洋館三階のテラスだった。
「ここまで上がっておいで」
ラインハルトが手招きする。コトノ主は足を蛇の尾に変えて伸ばし、テラスに取り付いた。ラインハルトが顔を顰める。
「そんな横着をされるとは思っていなかったな…家自慢が出来なかった」
『お父様、いえラインハルト様と早くお話がしたくて。ご自慢なら後程貴方が飽きるまでしていただいて構いませんわ』
コトノ主はそう言って微笑むと、失礼しますと言いながらテラスの柵を乗り越え、足を回収して人の姿に戻りラインハルトの正面に優雅に座った。
「君は変わったね。何というか…そう、随分人間らしくなった」
『人間らしく、ですか。それはどちらの?』
「どちらかというと私達側かな」
『それは嬉しい。あの頃は私、たった三百歳の子供でしたものね。漸く物の道理が分かってきた様に思うのです』
「あの頃は私もね…若造だったよ。こんなに倦むとは思ってなかった。決めたことだし、方針を変えるのも美しくないから付き合っているけれど、時間くらいは早めるかと思って少し手出ししてるんだ、最近は」
『…サレイのことですね?』
「そんな名前だったっけ、アレ。まあ君が言うんだからそうなんだろう。そう、アレは能く働いてくれている。もう五本集まったんだって?」
『…結果だけ見れば、そうですね。でも彼女も所詮短命種の子。お役目を果たす端々で、私利私欲が混じっています』
「短命種なんてそんなもんさ。仕事さえしてくれれば問題無い。どんな形でも、最終的に君達が全員ここに集まれば、私の試みは終わる」
『……もう少し、ですわね。シノは起きるか分かりませんが…』
「炎の剣を出すには起こすしかない。まあ、そのうち起きるでしょ」
長命種のそのうちとは何年後になるやら。コトノ主は曖昧に笑った。
「ヌィワ、フチーには会いたいかい?」
『……よくあれの名前を覚えていらっしゃいましたね』
「あの当時は、彼が一番私達に近かったから印象に残ってるよ。消してしまうのが少し惜しいとも思った位さ」
『ラインハルト様がそう思われたのでしたら、彼は消えてなどいないのでしょう』
「…そうだったかな。なら、集めるものがひとつ増えるか…」
『そう仰ると思っておりました。手は打ってございます』
「何だ、お見通しだったって訳ね。そりゃ君なら分からない筈がないか」
『そうですよ?フチーもそろそろ待ちくたびれてますもの。手を変え品を変えアピールされましたわ』
「高々二千年程度で…いや、私が言えた義理ではないな。不変はうつくしいが、退屈だから。不変の変化が最もうつくしい」
『不変の変化…。加速度が不変ということですか?』
「加速度よりもっと下だな。速度は時の流れだから」
『それは、十分変化に富んでいると言うのですわ』
「だが法則は不変だ。覚えておき給え。全ては成るように為るのさ」
『例えば、恋とか。』
「ヌィワ。神は恋をするかい?」
『…貴方は独りが長過ぎたのです』
「君なら上手くやれると?」
女は何も言わずに莞爾した。女の笑顔は裏があるんだったな、と男は溜息をついた。
白髪の青年は、ついに目的地に到達した。懐かしい、赤い門が見える。
「…まさか今また、ここに来ることになるとはな…」
そう独りごちて、門を潜ろうとした。
抵抗感がある。
目を凝らすと銀色の鎖で結ばれた結界があった。
「…これは、サレイの息子が張ったのか…」
『ようこそ、異界の使者さん。そろそろ来ると思っていたよ』
彼の独白に被せて男の声。彼は背筋を伸ばして、姿の見えない男に向かってこの世界の言葉で声を張った。
「初めまして、或いはこの世界の長たり得た方。私の名前はカミナ、雷の長なり。其方と話したき儀ありて、ここまで参った。声頂けるならば姿をも拝見したい」
『あー、待った待った。今そっちに向かってる途中なんだ。外回り中で助かったよ…余り時間は取れないけど、良いかな?』
「私は問題無い。お待ち致す」
カミナはそう言うと、門の傍の石積みに腰を下ろした。暫くすると、自動二輪車に乗った青年が門の向こうに現れた。車から降りて足早に門に近付き、門を挟んでカミナと反対側の石畳で立ち止まる。
「お待たせ。初めましてカミナ、俺はシオンだ。さっきサレイ、と言ってたよな?ということは俺が彼女の息子だと知っていてここに来たということでいいかな」
「左様。他の長の要請にて其方に改めて協力を求めに来た。其方、既にこの世界の住民に相違ない。護るべきものも存在する。然らば改めて、其方の力を借りたい」
「…そうだな。具体的に何をしてほしいのか聞いてもいいか?」
「其方には其方の母を止めてもらいたい。彼女はこの世界だけでなく、其方の故郷、イグラスをも破壊するつもりなのだ」
「……」
シオンはそれを聞くと黙り込み、ゆっくり目を閉じた。
「……まさか、母さんが生きていたのか」
そして、右手を挙げると、
「──って反応を、期待してたか?」
その手をさっと振り下ろした。
ガシャン!
カミナは突然降って湧いた漆黒の鳥籠の中に閉じ込められた!
シオンが再び目を開く。激しい瞋恚の意思が宿っていた。
「残念だったな。母ならつい三日前から、この街に滞在している。目的はお前の捕獲だ、カミナ。…あと三ヶ月なんだよ。お前が来なけりゃ、母は孫の顔を見られたかもしれないのに」
「先回りされていた…だと…」
鳥籠の中でカミナは愕然とした。いつ、どの様にして自分が世界の外側に出たことを知り得たのか。
「お久しぶりねぇ!カミナ」
女の声。数十年経っても変わらない、懐かしい声がした。
「…サレイ。何故ここに居る」
「うふふ、貴方を捕まえに来たのよ。シオンがそう言ったでしょう?」
「どうやって、私がここに居ると分かった」
「全てはラインハルト様の思し召すままに動くのよ…」
「…コトノとの話を聞いていたのか」
「さて、どうだったかしら…。でも安心して?貴方を殺しに来た訳ではないの。貴方の権能が必要なだけよ。全てこの子に譲り渡すか、そのまま鳥籠で運ばれてイグラスまで行くか。貴方が決めていいわよ」
「俺の権能を奪って何をするつもりだ…?」
「貴方の中の神を分離させる」
サレイの声が少し低くなった。
「…それは出来ない。俺の世界には雷様が必要なんだ」
「神様の必要な世界なんてうつくしくないのよ。それに、貴方は雷様のシステムを全てバックアップしてあるでしょう?本物の神様なんてもうとっくに必要ない筈よ。そろそろ解放しなさい」
「駄目だ…俺は…俺だ…!」
サレイが右手でカミナの頭から何かを掴みとる様な仕草をした。カミナが鳥籠の中で喚きながら暴れる。
「…困ったわ、完全に自我を失っているのね。とりあえずこのまま持って帰って頼んでみるしかないかしら…」
難しい顔で思案した後、サレイは息子の方を向いて少し寂しそうな笑顔を見せた。
「それじゃあ…ね、シオン。最後まで母親らしいことできなくて、ごめんなさい。…幸せになるのよ」
「いや、一日待ってくれ、母さん。俺も一緒に行く。そんで全部終わらせて、一緒に俺の子の顔を見に帰ろう。な?母さんは…今まで自分を犠牲にし続けて…、そりゃ俺もついでに犠牲になったのは、今でも恨んでる。けど…母さんだって、幸せになって良い筈なんだ」
シオンは身重の嫁を嫁の実家に残し、長期出張と嘘をつく決意をした。
「…〈海の卵〉が言うには、空と陸の神も必要なのだそうだ」
国王にそう言われ、アザレイは更に頭を低くした。
「先日、大魔導師殿が空の神を捕獲したと伝えてきた」
「はっ…」
「其処元、余に何か隠しだてしてはおらぬか?」
「ございませぬ」
まるで反射神経を問われたかの様にアザレイは返答する。国王はふっと目元を緩めた。
「…即答、か。考える余地もないか。
ならばよい。砂漠世界の雨季の開始に合わせて、シュヴァルツ団長率いる銀天騎士団を、〈陸の卵〉奪還に向かわせる。其処元は黒天騎士団を率いて、銀天騎士団を補佐せよ。…よいか、〈剣の仲間〉をイグラスに集結させてはならぬ。これが最後の要の作戦となろう。全軍で出撃してよい」
「御心のままに」
ついに、ついに父親と肩を並べて出撃する時が来た。アザレイの顔は緊張でいつもに増して引き締まっていた。
アザレイの執務室にて、大隊長であり副将のダイスモン卿、同じく大隊長のユブレー、ポートゥス、スロテ、百竜長のガンホム、ディゾールが一堂に会した。
「なるほど、ここに来てこの大規模侵攻。いよいよ佳境って訳ですね」
アザレイの伝達を聞き、歩兵・重装歩兵大隊長のユブレーが獰猛に笑う。水の都戦ではイグラス待機の貧乏くじだったため、今回はかなり意気込んでいる様だ。
「お父上とまた共に戦えるとは。国王陛下も味な真似をなさる」
ダイスモン卿がニコニコと顎髭をさする。彼はアザレイの父親が黒天騎士団団長だった頃から魔法大隊長であった。騎竜には乗らず、老練で手堅い魔法防御を得意とする。
「しかし、砂漠世界ですか…。雨季とはいえ、体温調節の苦手な騎竜達には酷な環境です。夜はまず戦えないと思って貰いましょう」
そう眉を顰めて話すのは砲兵・工兵大隊長のポートゥス。彼もまた長く黒天騎士団に在籍し、様々な属世界を制圧してきた。その経験はアザレイも一目置くところである。
「夜は…土に潜ればよい。昼は…日差しを防ぎ…暑さを和らげる…何らかの…対策が必要」
輜重大隊長のスロテが訥々と発言する。しかし彼の言は常に正論であるため、必ず他の者は彼の話に耳を傾ける。
「いつもの金属の防具では熱しすぎてしまいますからね。革防具を濡らして使用するのは如何でしょう」
そう提案するのはスロテの部下であり百竜長のディゾール。
「いや、それじゃ重くなり過ぎる。防具に魔法陣を描いて、温度調節出来るようにしてほしい」
機動性に拘りたい前衛百竜長のガンホムが反論する。
「二百騎の魔法陣の維持。ダイスモン卿、可能か?」
アザレイが問うと、ダイスモン卿は暫く口元に手を当てて考えていたが、
「…可能です。防御結界は減らすことになりますが、今回は我々だけではない。後衛は銀天騎士団についでに守って貰いましょう。魔法陣を昼と夜で使い分ければ、夜も問題無くなります。良い案かと存じまする」
と深く頷いた。アザレイも頷く。
「良し。それではガンホムの案を採用。年末の出発になる。各自備えをしつつ、砂漠世界の情報共有を待て。国王陛下がああ仰るからには、既に紅天か蒼天が偵察に向かっている筈だ。特殊な気候、土地があるやもしれぬ。情報が入り次第また諸兄を招集する。ダイスモン卿は今から私と共に銀天騎士団へ。防御結界の相談をしに行く。他の者は以上。散会」
はっ、と一同は胸に右手を当てて敬礼し、執務室から出て行く。
黒天騎士団の敬礼は静かだ。足を鳴らすことも体を叩くこともしない。不用意な音は騎竜を刺激するからだ。しかし彼らの胸は今、大きく高鳴っている。
決戦の時は近い。