闇夜の森
レオンはグラードシャインを携えて、サンリアと共にゆくことに決めた。兄から餞別を貰い、住み慣れた世界に別れを告げる。
レオンは駆けに駆けた。
もはや彼を縛るものは何もない。体が酷く軽く、ともすれば宙に浮きそうに感じた。
星明かりの下、前方に木に凭れた少女の姿が白く浮かび上がった。
彼はまっしぐらにそこを目指す。
「サ・ン・リ・ア~!」
ゴスッ
彼は勢い余って木に衝突した。サンリアは横に逃げ、呆れた様に彼をみつめた。
「…おかえり」
「…いってー…」
「バッカじゃない?」
「言うな。自分でもそう思った」
「くふっ」
彼女は堪えきれない、という様に吹き出す。二人の頭上で羽音がした。
『シオンとやらには伝えたのか?』
「あ、フクロウ。あぁ、伝えてきたぞ」
『フクロウじゃと!?ワシにもちゃんと名前がある。N=マルカトリラ=エズベレンド十五世じゃっ!』
「名前ややこしすぎ…じーちゃんでいいか?」
『………………いい』
いい、割には随分と間があったが。
口の悪いサンリアと、気難しいフクロウ。一緒に仲良く旅出来るのだろうか、とレオンはちょっぴり不安になった。
「シオンには効果抜群、らしい回復薬貰ってきたかんな。これで旅は順風満タンだ」
「それを言うなら準備万端、もしくは順風満帆。…それに、順風満帆とは行かなさそうよ」
「な…に?」
彼の声に被せる様に、近くで不気味な遠吠えが聞こえた。
『狼じゃな。ここからざっと四十メートル辺りにいる』
「まてまて、この森に狼なんか…」
『お主はもう世界の狭間の森に達しておる。ここから先は森が支配するのじゃ。お主のいる世界の森と一緒にせん事じゃな』
「…どうするよ」
「何の為の剣だと思ってんの?」
少女に淡々と言われ、彼の背中から汗が吹き出す。
彼は震える手で鞘から剣を抜き、鞘を投げ捨て両手で構えた。
光の剣が明らかに内側から白く輝く。彼はそれから目を反らし、剣のお陰で夜目がかなり利く様になっている事に気付いた。
「こんな戦闘、ゲームでしかやった事ねーぞ…!」
「つべこべ言わず。右にいるわよ!」
目だけで追うと、そこに目を光らせた狼が二頭。
彼が剣を握り直すと、剣が炎の様に紅く揺らめき輝いた。
二頭がそれを見て明らかに怯む。彼は駆け出し、逃げ遅れた一頭に剣を突き出した。
ギャヒイインと悲鳴。痛烈なダメージだったようだ。
抜いて振り向きざま背後から来たもう一頭を薙ぎ払う。視野がおかしい、広すぎる。しかしレオンは気づかない。
恐ろしい程の切れ味。
狼の頭骨は頸から離れて吹っ飛んだ。
「っひゃ~…」
奇妙な事に、この極限状態にあって彼は高揚した。まるで血に餓えているかの様だ。
そして、そんな自分を訝しむもう一人の自分。
そいつは次々と淀みなく狼を殺す自分に戸惑っている。
(どうしちまったんだ…俺…)
そうだサンリア、と彼は思い返して振り向いた。
彼女は高木の枝に腰掛け、文字通り高みの見物をしている。
レオンは思わず声を大にして、いや、本気で怒鳴った。
「なぁにやってんだお前!何サボってんだよ!剣が無駄だろ、ちったぁ手伝え!」
「無駄はそっちよ!剣を無闇に振り回すだけが能じゃないの!いくわよ、」
サンリアはそう叫び、ウィングレアスを大きく振り降ろし一喝
「裂!」
するとウィングレアスの刃がブーメランの如く飛転し、一頭を切り裂いた。
その狼は気丈にも踏み止まろうとしたが、それが逆に災いし、その体は真二つに切断され、地面にどうと倒れた。
他の狼はそれを見るや、散り散りに逃げ出してしまった。
「あ、…何だったんだ?」
「分からないの?そいつがボスだったの。他の狼はボスが倒されたから逃げたのよ」
「よく分かったな」
「夢中で殺してたあんたには、分からなかったでしょうね」
彼女の声は冷ややかだった。
「夢中っつか必死だったんだよ…」
「まぁ、才能は認めるわ。人としてどうかとは思うけど」
「俺も訳分かんね。俺じゃなかった気が…でも、そこまで言うか?」
レオンは立ち込める血の臭いに吐き気をこらえながら弱々しくサンリアを睨んだ。
「…そうね、悪かったわ。臭くて気が立ってるのかも。お風呂入ってくる」
「湯があんのか?」
「湯?近くに川があるから…」
「まさか水?!」
「そうよ?当たり前じゃない。覗かないでね」
「誰が発育前の体なんか」
「…最っ低」
「嘘、見たいけど我慢する」
「それもサイテーよ!」
笑いをこらえるかの様なわざときつい言葉。
「じゃ、ここ離れましょ」
「あ、おい、刃の回収は?」
「ん!忘れてた」
彼女がウィングレアスの柄にあるスイッチをカチッと切り替えると、下草の生えた地面に突き刺さっていた刃は回転しながら柄に戻った。
「うっわ、よく出来た玩具」
「玩具に見える?」
「…いえ、凶器です」
「解ってるじゃない」
サンリアは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「それじゃ後でね」
レオンに見せた右手の甲をヒラヒラさせ、彼女は茂みの奥に分けいった。
(…あー)
レオンは追う事と一人でいる事、どちらが危ないかを考え。
空を仰ぎ、木々の間に月を探し、何かを諦めた。
「しかし…きったねーなー…」
落ち着いて改めて自分の格好を見直すと、返り血で服も体も酷く汚れている。
(仕方ねぇ、川に入るしかないか…)
幸い今は春の終わりでもある。濡れたまま放置しなければ風邪を引く事もあるまい。
彼はせせらぎの音を頼りに川に出た。
まず手足を洗い、服を脱ぎ下着のみの格好でそれを川原で踏み洗う。
そして剣を水洗いし、タオルを濡らして汚れを落とす。
改めて見るとその剣は今は、月の光の様に淡く銀色に輝いていた。
(光の剣、か)
しかし、既に先程の戦いで曇りが一つ。
その曇りは彼自身の心を映してか、幾ら磨いても決して落ちようとはしなかった。
少し憂鬱な気分で彼はそれを眺めたが、砥石を手に入れれば解決する事だ、と深くは考えなかった。
それから頭を水に突っ込み、髪と顔を洗った。途中で面倒になり、川のどこまでも浅いのを確認してから下着も脱いで飛び込んだ。
タオルを別で持って来ておいて良かった、と思う。リストバンドにしている小さい方のタオルは洗わないと使い物にならない。
やがて水から上がり、獣の様に執拗に頭を振ると、髪の水気は粗方飛んだ。
下着を洗ってタオルの上で踏みながら、他の衣服を絞りきる。それでもまだ湿っているそれらを敷き布団にするには、季節柄少し早い。何処かの枝に引っ掛けて干しておくしかなさそうだ。
洗い直して絞ったタオルを肩に掛け、下着姿で洗濯物を抱え元の茂みの奥に戻ると、髪を濡らしたサンリアが立っていた。パンツ一丁の彼を見て少し眉を顰めたようだったが、レオンは気づかなかった。
「早いな」
「私はレオンみたいに返り血浴びてないからね。そんなに一杯の洗濯の必要は無かったから」
「そか。でもさ…風邪引くぞ、ほら」
レオンはタオルを橙色の頭の上に被せた。サンリアはさっと頭に載せられたものを掴んで確認したようだった。
「ありがと…」
「どったまして。じゃ、俺はこっちの樹の上で寝るから。おやすみ」
星明かりだけでは彼女の顔はよく見えない。
目を細めているのは…眠いのか、泣いているのか、笑っているのか?
「…おやすみ」
「おう」
暗く、消え入りそうな森の中。
何処かでフクロウが、嬉しそうにホウと啼いた。
サンリアは過去の体験を夢に見た。
少女は、物心ついた時から狙われていた。
それを恨んだこともある。しかし、恨んでもいいから実力をつけよと言われてしまえば、それもそうかと納得するのだった。
祖父も、その相棒も、嫌いだった訳ではない。
しかし、好きか?と問われると、素直に頷くには、色々なことがあり過ぎたのも事実だ。
だから彼女は自分に言い聞かせる。
「仕方ないでしょ、家族なんだから」
十と一の誕生日を少し過ぎた頃だった。
彼女が祖父と共に住んでいると勘違いした、〈神の鳥〉ヨルルを狙う不逞の輩が家に押し入った。
彼女を縛り上げ、目当ての物がないと分かると、その輩は彼女が秘密を漏らさぬよう、彼女に恐怖を教えこんだ。
何故殺さないのか…、ああ、また這入ってくるつもりなんだ。私がこいつに屈して、ヨルルを差し出すと思ってるんだ。また、来るのか。それは、嫌だ。気持ち悪い。怖い。助けて。
クルルはもう眠ってる。あの子は普通の鳥だ。私は独りだ。
そう、じーちゃんの鳥を差し出すまで、これが続くんだ。
彼女は理解した。
次に、どうするべきかを考えた。
こいつを騙そう。騙して、準備して、誘き出して、殺す。
彼女は心を堅く閉ざし、怯える自分に誓いの言葉を手向け続けた。
未明、男が去った後、力尽きるように眠りに落ちる彼女の目尻から、一筋涙が零れた。
恐怖と苦痛と嫌悪の涙はとっくに涸れている筈で。
それは、誰かの死を悼む涙に似ていた。
一人では太刀打ちできなかった。彼女に思いを寄せる同じ村長候補の少年を唆し、二人でその男を始末した。
いざ暴漢の死体を前にすると、少年は震え出した。
「お、俺、人を殺しちゃった」
「いいえ、私が殺したのよ。ミノミオは死体を殴っただけ。私が合図をした時点で、こいつは死んだんだわ。だから、ね?ミノミオは悪くない」
「う、う…サンリア…サンリアぁ…」
少年は感情が高ぶっているのか、さも当然の権利かのように彼女に抱き着いてきた。
今回は彼の手柄なので、為すがままにされつつ、彼の頭を撫でつつ、これでは暴漢と変わらないではないか、と彼女はこっそり溜息をついた。
「俺、お前が成人したら、嫁にしてやるからな。村長になって、こうやって、一生、護ってやるからな…!」
何も嬉しくない。村長候補を諦めろと、私の将来の夢を奪うと宣言したようなものだ。彼女の気持ちは冷え切っていた。
「…きよ。起きよ、サンリア」
祖父の声に気付き、サンリアは飛び起きた。いつの間にか朝になっていた。死体もそのまま。ミノミオは先に起こされたのか、隅で小さくなっている。
「ワシの知らぬ間に、随分と進展したようじゃな?とりあえず、お前は身を清めてこい」
サンリアは気が動転していたが、言い付けは絶対だ。頷くやいなや、湯浴みの準備を始めた。
(何でじーちゃんが私の家に。ミノミオはじーちゃんに何と言い訳するのかな。人を殺したのは勿論罪になる。ああ、私に誘惑された、なんて言われたら困るな。でも仕方ないよね。私は私の最善を尽くしただけ。狡いと言われても構わない。うーん、それより、まさか勝手に婚約とか決められてないわよね…)
部屋に戻ると、ミノミオの姿も死体も綺麗に無くなっていた。
じーちゃんが草臥れた様子で座り込んでいる。
「…戻ったか。サンリア、こっちにおいで」
サンリアが祖父の前に座ろうとすると、祖父は更に手招きした。隣にくっついて座ると、祖父はそっと肩を抱き寄せた。じーちゃんに抱擁されたのはいつ以来だろうか。
「ワシも男じゃから、今は嫌かもしれんな。…可哀想なことをした。ワシのせいじゃ。すまん」
じーちゃんのせいじゃない、と言おうとしたサンリアの両目から、堰を切ったように涙が流れ出た。
「もうこんなことをせずとも、サンリアが戦えるようになるまで、ワシが護ってやろう。家には警備をつける。次の旅にはサンリアも連れていってやろう。ワシの大事な大事なサンリアよ…」
ミノミオは、今後一切私的にサンリアに干渉することを禁止された。会話はおろか、会釈や目配せもナシだ。その処置にするか婚約するかの二択を問われ、サンリアが迷わず前者を選んだからだ。ミノミオは項垂れて、何も言わなかった。
暫くして、男を誑かす若い悪女の噂が立った。名指しではないが、サンリアの事だった。あの場に祖父が来たということは、誰かが告げ口したということだろう。村長候補なんて皆クソッタレな奴らだ。足を引っ張ることしかできないのか。
村長候補としては致命的な悪評だが、彼女はもう気にしなかった。村に対する執着は消え失せ、ただ強くなりたいと願うようになっていた。村長にはなれなくても、村長候補としての教育は役に立つ。
皮肉なことに、彼女の成績はそれ以降うなぎ登りになるのだった。