死人は幸せになれない
唄神ルイネに扮したセルシアは、祭の初日から伝説級の集客をする。ライサはレオン達とそのステージを楽しんでいたが、インカーとクリスが来たのを見て逃げてしまう。ルイネはただ歌いたい曲を奏で続ける。その姿にライサは、全てをインカーに仮託していた自分の生き方が間違いだったと気付かされた。
リノモジュールは思考する。
地下にも採光穴から光が降り注ぐ。今はもう朝だ。クリスもその彼女も、疲れ果てて眠っている。悪くない夜だった。夜更けまで飲み歩き、露店で華美な髪飾りを買い、連れ込み宿でそれを付けさせて遊んだ。彼の女性遍歴からすると多少毛色が違うとはいえ、所詮今までの女と変わらない。違うのは、クリスの本気度だけだ。
今なら自分の好きにできる、とリノモジュールは思考する。
この女を叩き起してめちゃくちゃにしてもいい。そうしたらどれだけ溜飲が下がることだろう。クリスが怒り悲しむのを見るためだけに、そうするのも悪くない手だと感じる。リノ本体は、クリスとの思い出だけは全てモジュールに詰め込んだらしい。何度かクリスの彼女を盗ったことがあると彼は知っていた。ワザとではなく、向こうから迫ってきたのだが、それでも最初はぐちゃぐちゃになって面白かった。途中からクリスも喪失の痛みに慣れたようで大した反応を示さなくなったので、つまらなくてその遊びは辞めたが、この女ならばきっとそうはならない。何より今はクリスと自分は体を共有しているのだ。クリスの体に自身の知らない記憶が残る。彼女を手酷く痛めつけて泣かせた記憶だ。それは何と甘美な絶望になることだろう!
リノモジュールは髪飾りに絡まったインカーの髪をそっと梳いた。指の間をシュルシュルとすり抜けていく。はっきりと、愛しい、と彼は感じた。そして、そのことに驚いた。思考しているのはリノモジュールだ。クリスの意識は深く沈んでいる。しかし、体に思考が引き摺られるのだろうか。全身が、彼女を愛せよと叫んでいるようだった。
リノモジュールは思案する。自分はどこまでクリスなのだろう?リノの記憶を持ち、リノの思考回路を真似ているとはいえ、動かせるのはクリスの体だ。否、記憶も、モジュールになって以降はクリスのものだ。
「…ねぇ、インカー。君のこと愛してもいい?」
インカーの耳元に囁く。インカーは薄っすらと目を開けて、クリス?と彼の名を呼んだ。それを聞くと、胸が痛む。
「クリスじゃないかもしれない。分からないんだ。僕は…クリスじゃない筈なんだけど…。もしかしたら、君が僕を定義付けるのかもしれない。君が誰と共にいると思うかが、僕等にとっては重要なのかもね」
「……リノ、か。久しぶりだな」
覚醒したインカーがゆっくりと身体を起こす。
「うん、こうして直接話すのはニヶ月ぶりくらいだね。僕の方は、クリスの中で君のことずっと見てたけど。君の弱点まで全部知ってるよ」
「キモいこと言うな。どうして出てきたんだ?」
「最初は君のこと問答無用で痛めつけて、クリスに意地悪してやろうと思ったんだけど。…ごめん、そんな顔しないで、普通に傷付く。…君に触れた途端、どうしようもなく愛しくなってしまったんだ。僕は、リノは君のことなんか少しも好きじゃない筈なのに。クリスと記憶を共有しているからだろうか。僕は、もうリノじゃなくなってしまったんだろうか」
「…分からんよ、そんなこと。お前も私にとってはクリスに違いない。スッスじゃないかもしれないけど、クリスの大事な一部分だ。スッスの方は、お前のことも自分だと認めてたぞ。お前は、どうしたいんだ」
「僕は…嫌だ。リノであり続けたい。クリスのことだけが特別に大事で、彼の為に彼が死ぬまで傍に居ると心に誓った僕でいたい」
「じゃあ分かった、リノだよ、お前は。クリスの中に住む別人だ。その上で、私はお前のことも好きになる。なった。おしまい」
「ちょ、えぇ…?」
リノは面食らった。寝ぼけてんのかこいつ、とも思った。
「要は記憶と人格の辻褄が合えば良いんだろ。私がお前とスッスに同じ態度で接して、お前とスッスも同じ気持ちでいれば問題無い訳だ。だったら、リノ、お前も私のことを好きになるしかないだろ。愛していいぞ」
力業が過ぎるし男前が過ぎる。リノは頭を抱えた。しかし、これこそがまさにクリスの惚れた女だった。
「…結局、手っ取り早いのはそれか。分かったよ。僕のことはクリスじゃなくてリノって呼べよ。クリス程優しくはしないけど、構わないよな?」
リノの目が陰鬱に光り、インカーは少し怯んだが、覚悟を決めたのか、了解したと言って笑った。
その後二人は昼下がりまで連れ込み宿に引き篭もり、全身傷だらけになった彼女を見て、クリスはまた治してくれと懇願した。
「スッスが反省したならそれでいい。だが傷なんか治せば良い、とは思ってないよな?お前が治さなきゃいけないのは、リノの心の方だぞ。野良犬は人に慣れるまで手酷く咬むんだ。この傷は全部リノの叫びだ」
「あの子は、俺には、無理だよー!多分、何言っても、逆効果になるんだよー!インカーごめん…気長に構ってあげて…」
「お前は、私がリノを好きだと言うのは嫌じゃないのか?」
「え、うん。リノは俺だから。むしろリノを嫌う奴は受け付けない」
「お前らマジでさぁ…ハァ、仕方ねェな。これが惚れた弱みかよ。
…分かった、そんなら私が一肌脱ごう。リノを出せ。躾の時間だ」
「躾って言うから、どんなヤバい遊びが待ってるのかと思ったよ」
クリスが、否、リノが薄く笑う。二人は再び祭に繰り出していた。
「馬鹿野郎、んなもん私の体が持たねえっつの。まずは腹拵えするんだよ。野生の獣には餌付けが一番効果的ってね。味の好みはどうなんだ?スッスの好きなモンでいいのか?」
「クリスの好きな物なら僕も大抵好きだよ。僕は付き合いがいいからね」
「んじゃモルヴィんとこ行くか。今年はまだ食べてないからな」
インカーが先を歩き出すと、リノはするりと彼女に腕を組ませた。
「…は?」
「は?じゃないんだけど。何で僕とは腕組まないの?リノだから?」
「あー、お前そういう感じ?でなきゃあんなに傷作らないか」
「勝手に解釈して納得するの止めてもらえる?不愉快」
「拗ねんなって。そんじゃ、デートといきますか!」
意外にも、それはリノにとって悪くない時間だった。徹頭徹尾「クリスのリノ」として扱われるのも嬉しかったし、クリスの口で言いたい放題言えるのもスッキリしたし、それでも自分に好意を向け続けてくれるインカーを、何となく「自分のもの」だと認識し始めていた。この場合の自分とは、「クリスのものである僕」のことだった。
「そういえば、傷全部消しちゃったんだ?」
「だってそりゃ、スッスが嫌がるからなぁ。」
「あんなに朝は喜んでたのに。ああ、リノやめて、痛い、好き、大好きだから、あっ痛、リノ痛いって、もうやめっ、」
「やーめーろー!あとそれ痛がってるだけだから!」
顔を真っ赤にしてインカーが恥ずかしがる。リノは今自分で言った発言が当然クリスの声で口から出てきたのがまるでクリスを痛めつけているようで面白く、これは悪い遊びだなとしっかり記録した。
「…どこか残させてよ。キスマークでいいからさ。僕、生きてた頃は喉にデカい傷があったんだよね。綺麗な顔の下に大きな傷。治せるんだけど治したくなかった。分かる?その傷は僕とクリスの絆だったんだ。ままならない籠の中で自殺しようとした僕を、クリスが間一髪、外に連れ出してくれた。その時決定的に僕は彼のものに生まれ変わったんだと思う。
その傷のせいで僕は声が出せなくなったけど、そんな些細な不便より、彼に救われた証を残したかった。すぐに…念話で通じるかな?そういう魔法も手に入れたしね。その傷は僕が死ぬ直前まで治さなかった。ふふ、死ぬ直前にね、治してクリスに愛してるって伝えたんだ。彼の剣に貫かれて殺されている最中にね!その時のクリスの絶望の感情ったら!!
…勿論それはリノ本体のしたことで、僕のしたことじゃない。その時のリノ側の記憶は、僕には入っていない。でも僕のことだから分かる。僕は幸せだったんだ!僕は幸せに生きて、幸せに死んだ!唯一の心残りも、今僕がこうしてクリスの中にいることで潰すことができる」
「そりゃ…良い人生だな。短くても、幸せだと思えるなら私は良いと思うよ。で、お前はどうなんだ、クリスの中のリノ。そこは、幸せか?」
リノから晴れ晴れとした笑顔がフッと消えた。真顔で溜息をつく。
「…惨めな思いをするくらいなら自壊するよ。クリスにも、僕のことを忘れたら消えるプログラムだと伝えてある。」
「そうしたら、スッスはお前のことを二度喪うことになるんだな」
「ま、そうなるね。クリスはいつだって僕のことで必死なんだ」
「…やっぱお前、幸せじゃないだろ。好きな人を苦しめて得られる幸せって何だよ?リノは本体の願いに縛られ過ぎじゃないか?」
「……十箇所くらいお前に痣作ってやりたい気分なんだけど」
「それで気が本当に晴れるんなら後でやればいいさ。消さずに残せって言うなら言う通りにもしてやる。でも多分、そのやり方続けてるとそのうち決定的にスッスと決別することになるぞ。相手が私じゃなくてもだ」
その瞬間、リノから殺気が消えた。店の椅子にもたれ、脱力する。
「……僕なんか、もうとっくに捨てられていてもおかしくないんだ。クリスが異常に優しいんだよ。どんだけ恩を仇で返しても、リノが好きだ!で流されてしまう。おかしいんだよ、こいつ。…だから…そうだな。僕はクリスが幸せになればいいと思う。僕より好きな人が出来て、そうかリノはついに消えるのか、じゃあな、って言ってくれれば救われる。僕は死人だ、幸せになるなんて烏滸がましい。ただ満足したい。納得したい。」
「…スッスがいつまでもお前を向いてるから、不甲斐ない私に八つ当たりしたってことか?」
「は?お前なんかにクリスが取られるのなんて絶対嫌だね。悔しかったらこいつの旅に付いてきなよ。あのサンリアちゃんも、フィーネちゃんも、危険な目にあったり生まれた時から努力したりして今ここにいるんだ。お前はまだ何者でもない。剣を持ったことすらない癖に」
それは今までの馴れ合いとは違う、痛烈な拒絶だった。インカーは何か言おうとして、何も言えることがないと気付いた。
「…そうだな。この祭が終わったら、お別れなんだな」
敬虔な玉犬の使徒である彼女が、新生祭の最中に、新年など来なければ良いと思ったのは初めてだった。